Chapter 15 『戦慄』
1 ヒロ
至る所で、何かが激しくスパークするよう音が聞こえる。目を開き、僅かに顔を上げた瞬間、飛び込んで来た地獄絵図の様な光景に息を飲んだ。
フロアーの至る所で燃え上がる炎。ケーブルから引きちぎられ、横倒しになったカプセルが彼方こちらで火花を散らす。
中を満たしていた粘性液体と共に、ダイブ装置から放り出された人々が地に這いつくばり呻き声を上げていた。
あまりの惨状に停止しかける思考。だが直ぐに最初に確認しなくてはならない事を思い出す。
「伊織!!」
「私は大丈夫。けど……」
伊織が返事を返したことに、感じた例えようのない安堵。途切れてしまった言葉の続きは容易に想像がついた。
目の前に広がる光景のあまりの悍ましさに、胃が裏返るような感覚が襲う。大量の血が混じった粘性液体に濡れた身体を地に這いつくばらせ、必死に助けを請う者達。
口からはゴボゴボと泡を吹き出し、声にすらなっていない呻きが上がる。『酸素の供給能力を失った流体液』を肺から自力で吐き出せない程に、筋力を失っているのだろう。彼等は溺れているのだ。苦しみもがく者達の中には明らかに子供が混じっている。
――けど――
自分にはどうする事も出来ない。
「無理だ」
そう言ってしまった瞬間、感じた胸を抉られるような強い痛み。
それに抗い感情の一切を排除するべく、一度瞳を閉じ大きく深呼吸をする。そして、再び目を開けると、伊織の手を引き走り出した。
呻き声に交じって、何か大きなものが軋むような得体の知れない音が聞こえる。
一刻も早く此処を離れなければならないと、直感が訴えかけてくる。途轍もなく嫌な予感がした。
かなりの密度で並んでいたカプセルが、乱雑に吹き飛んだために、逃げ道は障害物だらけとなり複雑極まりない。時折、考えたくも無い何かを踏んだ感触が足に伝わった。
そして遂に恐れていた現象が始まる。透明な床一面、縦横無尽に走り始めた亀裂。その先には奈落の底へと続く空間が広がる。
背筋を冷たい何かが走り抜け、全身の毛が逆立つような感覚に襲われる。
障害物を乗り越え、とにかく走る。その間にも床に広がる亀裂は勢いを増して増え続け、急速に透明度を失っていく。
ようやく見えたダイブルームの入り口。だが、そこにはまるで行く手を阻むかの如く、あまりに目立つ格好をした少女が立っていた。
――あいつ!――
それによって生まれた僅かな躊躇。
その瞬間、遥か後方に聞こえた何かが崩れ落ちる音。それが地響きと共に尋常ではない速度で背後に迫る。
唯でさえ走りにくい地面が激しく揺れる事で、転倒しそうになる。それを気力で踏みとどまらせ、少女に体当たりするかの如く、入口へと駆け込むその刹那、足が宙を蹴る絶望的なまでの感触が襲った。
遂に足元で始まった崩壊。極限の状況で引き伸ばされた体感時間の中で、大量の瓦礫が奈落の底へと吸い込まれて行く。
自身を物理的に支える物の一切を失って尚、足は空を蹴り前へ進もうとしていた。絶望的な状況の中で、無意識に上へと伸ばされた手。
自由落下の始まりを告げる独特の感覚が全身を支配する。生への執着に反して出来ることが一切ない。
何度も修羅場を潜り抜け、その度に感じた死の予感。それが今度こそ逃れようのない運命として訪れたと悟る。それに伊織を巻き込む事に激しい拒否感が襲った。
諦めかけた刹那、不意に止まった落下。何者かに捕まれた手首。
――助かった…… のか?――
そう思った瞬間、右肩に走り抜けた激しい痛みに思わず呻き声をあげる。
左腕に掛かった伊織の全体重。右腕にはそれに自分の体重を加えた負荷が掛かる。僅かな落下距離とは言え、その反動の全てを受け切った右肩の関節は外れてしまっていると感じた。
そして自分の手首を掴んでいる者へと目を向ける。それはあの少女だった。その事実に愕然となる。
が、それ以上に異様な風貌の変化に絶句した。
自分達の体重を右手一本で支える少女。しかも、彼女は腕の力だけで自分達を引き上げようとしている。
細い華奢な身体に不釣り合いな程に、発達した右腕の筋肉。左腕の太さと比べ倍以上に膨れ上がっていた。
通常ならあり得ない現象。だが、その現象を作り出す装備を以前見た事がある。
――可動式装甲ジャケット!?――
最全盛期の遺物。しかも希少性が高く極めて高価な装備だ。実物を見たのは数回しかない。自分が嘗ていた組織では、前線に赴く事をしない輩が、不必要なはずの『それ』を身に着けていた。
そして、一番記憶に新しいのは響生の装備だ。もっとも彼にとっては生身の身体では有得ない運動性能を宿す肉体を隠すための偽装だったのかもしれない。
通路へと引き上げられた事で、再び地に着いた足。それでも、身体に残留してしまった悍ましい感覚が離れようとしない。
無言でその場を立ち去ろうとする少女。
肩が抜けてしまった為に持ち上がらない右腕。不慣れな左手にハンドガンを移し、少女の後頭部にピタリと当てる。
「助けてもらっておいてなんなんだがな、『ありがとう。さようなら』って訳には行かねぇ」
先の爆発と彼女が無関係とは思えない。
見れば見る程に怪しい女だった。狙ってくれと言わんばかりの目立つ刺繍の施されたローブ。しかもその内側には可動式装甲ジャケットを着こんでいるのだ。
褐色をした肌に掘りの深い顔立ちは、彼女がこの地域の出身では無い事を意味していた。
歩みを止めた少女から、大げさな溜息が返ってくる。
「なら、付いて来れば?」
思いがけない言葉に完全に意表を突かれ停止しかける思考。その隙を突くかの如く少女が唐突に振り返った。反射的に引き金に掛かった指に力がこもる。身体に染み付いた危機回避行動によって微塵の躊躇も無く引き切ろうとした引き金。
だが、指がピクリとも動かない。いつの間に伸びて来た少女の左手が、ハンドガンのグリップを掴んでいた。しかもその親指がトリガーとグリップの間に入り込んでいるのだ。
「なっ!?」
愕然と漏れた声。これを狙って行ったならそれは、もはや人間業ではない。
「せっかく助けたのに、死にたいの?」
まるで虚無を感じさせるほどに冷たい瞳がこちらを真っすぐと見つめる。
「お前は、何だ!?」
思わず出た言葉。
「さぁ?」
挑発的な言葉と裏腹にその瞳は深い闇に閉ざされ、一切の感情が読み取れない。一体何を経験すればこのような表情が出来るのか。
「本当に誰かが…… そこに居るんやね?」
伊織から掠れた声が漏れる。それに無言で頷くことで答える。
伊織には手を伸ばせば触れられる距離にいる少女が見えていない。その事実に愕然とする。
銃を握る左腕に浮き上がった血管。左肩までも壊れてしまいそうなほどに力を入れて尚、微動だにしない。
「死にたくないのなら、銃から手を放して。『奴等』が来る」
「奴等?」
「死霊達に決まってるでしょう? 此処を何処だと思って?」
「答えろ。あの爆発はお前がやったのか? 何故俺達を助けた?」
「それに答えたら、手を放してくれる?」
「……」
無言で少女を睨み付ける。やがて彼女は呆れたように瞳を閉じた。
「あれは私じゃない。大方、何処かの馬鹿がやった自爆テロね。貴方を助けたのは、貴方が私と同じだから」
「どういう意味だ?」
「死霊の女を連れて地上を彷徨う元レジスタンス。貴方は自分が思ってるよりも有名よ、悪い意味でね」
話が繋がらない。少女が何を言っているのか分からない。
さらに質問を重ねようとして、口を開きかけた刹那、空間に響き渡った異音。独特の振動が大気を震わす。それに心臓を鷲掴みにされたかの如くにじみ出た冷や汗。
「長居しすぎたようね。だから言ったのに…… 言っておくけど狙われてるのは私じゃなくて前科者の貴方。死霊達に私は認識できない」
唐突に離された少女の手。
「時間切れ。後は好きにすればいい」
それだけを言い、ゆっくりと後退し始めた少女。そして背を向けると猛然と走り出した。
が、それを遮るが如く、狭い通路の奥が隔壁で閉ざされる。
「助けなきゃ良かった。これじゃ私も巻き添えじゃない……」
少女の掠れた声を掻き消すかのように、空間に響き渡る異音の音量が増す。まるで金属同士が擦れるような、生理的に受け付けない音だ。
奈落の底へと続く深い闇の奥に、浮かび上がる赤い光。得体の知れない『何か』が壁面を高速で這い上がってくる。
やがて露わになった『それ』の悍ましさにに戦慄する。
哺乳類の胸部骨格だけを連ねたかのような胴体。そこから突き出た多量の脚部はそれ自体が刃物のように先端が鋭く尖る。
強大な胴体に対して不自然な程に小さな頭部は人のそれに酷似し、あまりに不気味だった。
まるで巨大なムカデに内骨格を想定してドクロ化したが如き姿。その至る所で、生き物の眼球にも似たセンサー群が、赤い光を放ち動き回る。
異様な速度で動く脚部が壁面に食い込む度に撒き散らされる火花。
生唾を飲み込み、一歩後ずさりしようとした瞬間、『それ』が跳躍した。そして耳を劈く様な轟音と共に通路の入り口に張り付く様にして着地する。
鋭い脚部に迸る電光。狭い通路に満たされた大気その物を振動させるかの如き、悍ましい放電音を放つ先端が、通路の奥へと向けられる。
次の瞬間、視界の全てを覆いつくした青い光。避ける術など無かった。
身体を貫かれたかの様な激しい衝撃。成す術も無く弾き飛ばされ、背中を激しく壁に打ち付ける。
今の一撃で死ななかった事に驚きつつも、直ぐに起き上がろうと試みる。だが、身体は不自然な痙攣を繰り返すばかりで、意思に全く応えてはくれなかった。
此方へと真っすぐと伸びてくる金属光沢を宿した巨大な腕。僅かな抵抗すら出来ずにハサミの様な先端に首を捕まれ、通路から引きずり出される。その刹那、伊織が巨大な腕に縋りついた。
が、尋常では無い速度で伸びて来た別の腕に弾き飛ばされてしまう。
通路の壁が変形する程の速度で叩き付けられ、そのままズルズルと床に伏した伊織。不自然な方向に折れ曲がった肩から火花を散らし、そこから血とは明らかに違う液体が流れ出し始める。
それを見た瞬間、自身をギリギリのところで制御していた何かが弾け飛んだ。忘れかけていた死霊共に向けた激しい憎悪が渦を巻いて湧き上がる。
それに呼応するよう自身を襲う激しい頭痛。視界を不鮮明なノイズが走り抜ける。
「……のヤロォっ!」
震えながら持ち上がった左手。そこに握られたハンドガンを赤い光を放つセンサーに向ける。
「ヒロ! ダメや!」
伊織の叫び声が遠のき始めた意識の片隅で聞こえた気がした。だが、これだけは止める訳にはいかない。
引き絞られた引き金。乾いた破裂音と共に放たれた弾丸が、センサーの表面で火花と共に弾かれる。
「……クソがっ……」
傷一つ付けることが叶わなかった『それ』の奥で、巨大なレンズが更に拡張された。血の通わない存在に宿った明らかな殺意。
眼前に突きつけられた鋭い先端を持つ何がが、激しい帯電光を宿し引き絞られて行く。




