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Chapter3 響生 あまりにドタバタと崩壊していく日常(その3)

挿絵(By みてみん)




1



 扉を開くと同時に自身を包んだ湿気の強さと、立ち込める甘い匂いに胸焼けを起こしたかの様な感覚に襲われる。


 そして奥に広がった空間の異様さに息を飲んだ。入り口の雰囲気から予想もつかない程に中は広い。一見すると広大な鍾乳洞。


 だが、天井から垂れ下がる幾つもの突起は、『赤い光を放つ流体が流れる血管』が張り巡らされているかの如く、不気味な輝きを宿し脈打っていた。


 空間の大半は巨大な闇色の液溜まりに沈み、液面から瘴気が立ち上る。胸を焼くような甘ったるい匂いの発生源はどうやらそれらしい。


 空間中央には柱とも巨樹ともつかない奇怪な物体が、無数の触手をうねらせていた。


 そして目に入るあまりにボロボロの美玲の姿。何時もは綺麗に整えられている長い銀髪が無残な程に乱れ、敵を睨む燃えるような赤い瞳には、隠し切れない憔悴が浮かぶ。


 身に着けている巫女装束は至る所で腐食したかのように破れ、白い素肌を露出させていた。


 それでも左腕に絡みついた触手を、右手に持つ日本刀で切り払った美玲。だが、その後の追撃が出来ずに片膝をついてしまう。


「美玲!」


 その姿に溜まらず叫び声を上げ、扉の奥に走り込んだ瞬間、足に伝わった異常な質感に、バランスを崩し転倒しそうになった。


 異様な弾力を持った地面。さらにそこ伝わるのは、紛れもない脈動。地面そのものが脈打っているのだ。巨大な生物の体内に侵入したかのような感覚が包む。


「な、なんだこれ……」


 背後で巨大な扉が閉まる音がした。その音に振り返り愕然となる。扉そのものが消失しているのだ。


 感じた胸騒ぎに視界のウィンドウを確認する。先まで通って来たはずの順路がマップから消失していた。さらにメニューウィンドウは極端に簡略化され、空間転移を含めた多くの機能が制限されているようだ。


 押し寄せる大量の疑問に思考を巡らせながら、美玲へと駆け寄る。が、それを妨害するかの如く突き出される無数の触手。


 加速される思考レートと共に、大剣から高エネルギー粒子の反応光が吹き上がる。


 迫る触手の束を切り払うと同時に手に伝わる有機的な感触に溜まらず、眉を顰めた。触手の先端は切り離されて尚、それ自体が単独の生き物の如くのたうち回る。


「すまない。本来なら自身で何とかせねばならない問題だ。でも、よもやこのような事態となるとは。全ては私の未熟さ故だ。情けない」


 言いながら力の無い笑みを浮かべ、よろよろと立ち上がろうとした美玲。だが、直ぐにバランスを崩してしまう。咄嗟に身体を支えようと出た手を、美玲は簡単な仕草で制し、自力で立ち上がった。


 その美玲に向かい多量の触手が突き出される。さらにちぎれ飛んだはずの触手の先端が物理法則を無視して急激に膨れ上り、新たな触手を形成して自身に迫る。


「美玲!」


 自身に迫った触手を切り払うと同時に、溜まらず上がった叫び声。美玲に迫る触手までを処理するのには圧倒的に時間が足りない。


 憔悴しきった美玲はまだ剣を構えてもいない。加速された思考レートにより引き伸ばされた体感時間の中で、多量の触手が美玲へと近づいて行く。


 そしてそれが触れる刹那、触手の全てが何かに弾き返されたかのように飛散する。


――!?――


 美玲が自身の袖から引き抜いた何かが強烈な光を発していた。それは薄い紙切れの様なものだ。目も眩むような光を放って尚、そこに描かれた複雑な紋様が陰影となってくっきりと浮かび上がっている。


 美玲の唇が微かに動き、まるで呪文の様に謎めいた言葉が紡ぎ出された。


 次の瞬間、光を放っていた『何か』が突然発火し、炎を残して消失する。


 美玲を中心に広がった光が空間を飲み込み、全てを唐突に停止させた。脈打っていた地面はもちろんの事、天井から滴り落ちる水滴すらも空中に停止する。


「下らん。たかが一時停止に、何故このような演出が必要なのか――」


 言葉こそ美玲らしくはあるが、その声に何時もの覇気がない。


 視界に新たに開いたウィンドウには、停止残時間を示したタイムカウントが表示されていた。フロンティアの通常空間にはあり得ない現象を見た事によって、より混乱する思考。


「これは……?」

「状況整理、もしくは体力回復のための一時停止機能だ。一度しか使えんが。何はともあれ、これでようやく休息がとれる……」


 美玲が何を言っているか分からない。


「えっと……」


 美玲は混乱する自分見つめ、再び力の無い笑みを浮かべた。


「分かっている。色々と説明が必要であろうな。故に私は貴様が来るまで停止処置を使用することが出来なかった。これは一種の戦闘シミュレーターだ」

「シミュレーター?」


 美玲の言葉に驚きを感じると共に急激な脱力感に襲われる。


「荒木の子達が操るネメシスを覚えているか?」


 その言葉に呼び起こされる壮絶な戦闘の記憶。出生時より非人型オブジェクトを強制された荒木の子達が操るネメシスの動きは、兵器と言うより『ネメシスの容姿を持った生物』だ。


 異常な反応速度。繰り出される触手の動きは自動追従とは別物であり、集積光の放射タイミングすらも予測がつきにくい。


 『シミュレーター』と言う言葉で解放された緊張が、『荒木』の名を聞いただけで再び身体を支配しはじめる。


「忘れるはずがない」


 自身から漏れた掠れた声。美玲が頷く。


「私は次の出撃までに、何としてもあれに対処する術を身に着ける必要がある。嫌な予感がするんだ」


 その言葉に感じた悪寒。


「なっ!? 荒木は確かに俺が――!」


 その可能性の全てを否定するが如く、力が入ってしまった声。


「確かにその通りだ。だから私が感じているのは根拠のない胸騒ぎに過ぎない。だが、それでも不測の事態に備えて鍛錬を積むのは必要な事だ。まして対処できなかった過去をそのままにしておけば、同じ過ちを繰り返す」

「けど……」


 美玲の憔悴の様子を見れば、これは異常だと感じた。


「設定が苛烈なものになっている。


 思考伝達による外部との連絡がとれるのは一度切り。クリア条件を満たさなければ、私はこの空間からは出られない。そうしてくれと私が頼んだ。


 流石に命のやり取りは無くとも、自身を追い詰めなければ鍛錬にならんからな。だが、これはあまりに…… 奴は無限に再生する。おかげで私は既に十三時間以上も戦い続けている」


「じゅ、十三時間!?」

「正直私は奴を倒す術が分からなくなっている。と言うよりも、バグによって奴が倒すことの不可能な敵になっているのではと感じるのだ。少なくともプレイヤー側のダメージ判定にバグがあると見て間違いない」

「ダメージ判定にバグ?」

「奴の攻撃を食らってもこちらにダメージも痛みもない。この通り、着物は破れてしまうがな」

「それって、衣服にダメージ判定があるのに肉体には無いって事?」

「そう言う事になるのであろうな」


 バグの内容に感じた混乱。フロンティアに置いて『痛み』は『生の実感』に関連する重要なロジックだ。その基本ロジックだけが歪み、衣服の方だけにダメージ判定があるなど有り得るだろうか。バグがあるならむしろ逆のはずだ。


 嫌な予感がしてくる。


「私が懸念しているのは、ダメージ判定のバグによって、このシミュレーターが勝ちも負けも永遠に決まる事無い、離脱不可能な代物になっている可能性だ」

「そんな事が……」

 あり得るのか。


「本当にすまない。本来ならそのような可能性に辿り着いた時点で、貴様を巻き込む等、余計にあってはならない事だ。だが……」


 視線を落とし、唇を噛みしめた美玲。


 通常とは違う空間で十三時間にもわたって行われた戦闘。憔悴しきった精神状態で隔離空間から出れない可能性を突きつけられれば、それは相当な恐怖なはずだ。プライドの高い美玲が自分等に助けを求めた事が、彼女が感じた恐怖を象徴している。


「じゃあ、とっととやっちまおうぜ? あれを倒せば、ここから出れるんだろ?」


 俯き黙り込んでしまった美玲に、努めて明るい声でそう伝える。


 深紅の瞳を大きく開き、顔を上げた美玲。その瞳が複雑な感情を宿して細められる。


「恐らくは。設定上の私の役割は、あいつを沈める事だ。文字通りあいつを気色悪い液体に沈めてしまえば良いのであろう。と思っていたのだが」

「駄目だったのか…… 念のため、その設定って奴を教えてくれ」

「作り主の趣味なのか、『呪符』と言い、この妙な衣装と言い、変に拘ってはいるが設定も同様に下らん。聞いても何の参考にもならんと思うぞ?」


 溜息混じりにそう言った美玲。


「まぁ、一応な」

「うむ、本来あの化け物は、巫女達に癒しを与える存在だったそうだ。だが、最近は暴走しているらしくてな、夜な夜な這い出ては、無作為に巫女達を食い荒らすそうだ。巫女達の長が話し合った結果、私があの『食人鬼』を沈める役目に相応しいとなったらしい。

 私にとってはどうでも良い架空の背景設定より、オブジェクト設定や空間設定のリアリティーに拘ってほしい所ではあるが――」


――食人鬼…――


 液だまり中央の不気味な物体を改めて見る。


 そこに現れるカーソルとオブジェクト名。それに得体の知れない不安を感じて目を見開く。


「美玲…… これ、なんか違くないか? その…… オブジェクト名が」

「うむ、バグが多いシミュレーターのようでな。変換すらもいい加減だ」

「にしたって『色神器』って……」

「うむ、酷い当て字だと思う。変換ミスであろう」

「いや…… てか、美玲…… このシミュレーター誰に頼んだ?」

「戦略シミュレーター開発部隊に飯島と言う凄腕のプログラマーがいるだろう? あれは貴様の同期ではかったか?」

「飯島だって!?」


 思わず叫び返して強烈な目眩に襲われる。


「じゃあ、こいつはあいつが作ったシミュレート?」


 作ったのが飯島なら、ダメージ・フィードバック等の重要部分でこのようなミスをするはずがない。


「うむ、本人はゲームだと言っていた。楽観的というか安穏とした題名にあまり期待をしていなかったのだがな。だがこれが中々に強敵だ。おかげで、この有様だ…… 情けない。今となれば、このシミュレーターに付属していたイメージ画の少女が何故あんなにも決死の形相をしていたのかが、よく分かる」


 美玲の言葉に益々嫌な予感がしてくる。


「ちなみに聞いときたいんけど。シミュレーター名は?」

「『快楽の園』だ」


 その瞬間、感じた頭痛。


「――確かに戦闘狂ともなれば、戦闘は快楽であってしかり。私はその域には達してないし、戦闘その物を快楽にしてはいけないと感じるが」


 美玲の言葉の後半が殆ど入ってこない。左手で額を押さえ


「……あのエロ馬鹿……」


 と呻き声が漏れた。事態の全容が見えてきた気がする。


 美玲の役目はこの化け物を、身体を張って『沈める事』では無く、『静める』事なのだ。


「飯島に何て言ってシミュレートを頼んだ?」

「む、私の依頼の仕方が行けなかったと言いたいのか? だが、依頼するべき要点はちゃんと伝えたぞ? 触手の動きの多彩性は特に重要だと伝えた。何せ目標はあの荒木の子が操るネメシスの触手攻略だからな。それと、誰にも邪魔されずに集中するための隔離空間」

「他には?」

「後は、最後に『私が満足行くものを作って見せろ』と念をおしておいた」


 飯島の普段の発言パターンから、彼が美玲の要求をどう解釈したのかを想像して見る。


――完全にアウトだこれ……


 そう思うや否や、後先考えずに飯島へと思考伝達を行う。その瞬間、視界から消失する『外部連絡』のメニュー。


 同時に身体が半ば強制的に動き、大げさな動作で懐から引き出される『呪符』。


 口から意図せず呪文の様な意味不明な言葉が呟かれ、美玲の時と同じく呪符が激しい炎を上げ消失した。


 地面の上に広がる複雑な結界印。その上に灰色の髪が特徴の少年が浮かび上がる。およそ軍に所属する者とは思えない奇怪な髪型。それは針鼠のようでもあり、ただ単に寝癖が極端に酷い状態にも見える。


 そして開かれた瞳の色はアメジストを思わせる紫色。


 何時もながら呆れる程のオブジェクトの弄りっぷりだ。おかげでオリジナルの容姿がどのような物であったか分からない。


「やぁ、響生か。何だい?」


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