Chapter 58 響生
クローズアップされた視界の向こうでヒロがゆっくりとこちら側を向く。その瞬間、見開かれた瞳。
「お前…… 響生か……!?」
――……え?――
ヒロから発せられた言葉に混乱せずにはいられない。
「――生きてたんだんな……」
頭を押さえ、フラ付きながらこちらへと歩いてくるヒロ。その瞳に浮かぶのは純粋な驚きであり、地下空間で再会した時の様な異常さが感じられない。それが、より自分を混乱させる。
「クソっ! 頭が割れるようにいてぇ…… 何が、どうなってやがんだ……」
遂にヒロが自分の数十センチ前にまで歩み寄った。そして、まるで何かを懐かしむかのように手を自分へと差し出す。
が、次の瞬間、ヒロの表情が激しい苦痛に歪む。大きくバランスを崩し、その場に倒れ込むように身体が揺らいだ。とっさに差し出された手を取り、その身体を支える。
その瞬間手に伝わった体重の軽さに愕然となる。嘗ての頼りになる印象からは程遠い。
ヒロの瞳が細められる。
「お前…… 本当に響生なんだな? 死霊どもに連れ去られたと聞いた。けどまさか……」
ヒロの言動に混乱していた思考が一つの可能性に向けて集約していく。
「ヒロ、お前、記憶が……?」
その言葉にヒロは力ない笑みを浮かべた。
「ひょっとしてこの会話は二度目か? 悪い。色々事情があってな、最近よく記憶が飛んじまうんだ。こんな時代だろ? 生きてくの色々大変でよ……」
ネメシスが放った集積光により溶融した天井。周りでは殆どパニックに陥った人達の逃げ惑う足音や、罵声が響き渡る。その中であまりに不釣り合いに穏やかな表情を浮かべたヒロ。まるで自分とヒロだけが辺りの空間から切り離されたかのような錯覚すら覚える。
ここに来て初めて湧き上がる言いようの無いなつかしさ。目の前に居る彼は、『記憶の中の彼』そのものだ。
「ここへ来たのは何時だ? にしても良く入れたな。新参者はこのフロアーに中々は入れないんだぜ? あ、これもひょっとして2度目か?」
「いや…… 俺はここに来てまだ間もない。……俺はヒロに連れてこられたんだ」
ヒロの表情が更に情けない物に変わる。
「そうか、俺がお前を連れ戻したのか…… クソっ思い出せねぇ、俺はそんな事も忘れているのか」
今の彼であれば、このままこの施設から連れ出すことが可能なのではないか。そんな期待が自分の中に目覚め始める。
さらに言葉を紡ごうとしたヒロの表情に憂いが宿った。
「お前を連れ戻すのが、もう少し早ければ…… お前のお袋も……」
彼から出た思いも掛けない言葉。それに平静を取り戻しかけていた思考が再び混乱する。
「お袋って!? 生きてるのか!?」
意図せず増してしまった声量。ヒロの瞳に宿る憂いが強さを増した。
「いや…… つい最近までな……」
――そんな……――
愕然となるのと同時に、心を侵食していく言いようのない感情。
「……何度も止めたんだぜ? 死霊どもの直轄エリアに行こうとすんのを。けど、お前のお袋も半分狂っちまってたって言うか。『お前等』を探すって聞かなくてな……
無理もねぇよ。急に家族を殺されて、お前と穂乃果が死霊どもに攫われたってなりゃ。
けど、もう少しな…… 何とかならなかったのかって…… 殆どの奴が似たような境遇なんだ。ましてお前はこうして帰ってきた。なのによ…… たまんねぇな」
ヒロは言葉の最後で声を震わせ、顔をくしゃくしゃに歪めた。
自身の中に強い『やるせなさ』が広がっていく。自分への怒りと憤り。自身の中に留めきれなくなった感情が、偽りの身体を小刻みに震わせる。言葉が出ない。
いつも柔らかな笑みを浮かべていた母の面影が、酷くやつれた物に変わっていく。
『あの日』に行った決断の代償。それが自分以外の大切な者の全てを狂わせてしまっている。
――貴方は今までの繋がりの多くを裏切る事になる――
『あの日』アイが自分へと行った忠告が鮮明に蘇る。
ヒロの手がそっと肩に置かれた。
「お前が悪いんじゃねぇ。何も出来ねぇ子供を攫いやがって。どうせ、今の今まで、カプセルの中に閉じ込められてたんだろう?」
――違う……
「俺は……」
震えた声によって紡ぎ出された言葉。けどそれは無理矢理に明るく振舞おうとしたヒロの声に遮られてしまう。
「悪い事ばかりじゃねぇよ。そうだ伊織にも、お前が帰ってきたって報告しねぇとな。きっと喜ぶぜ?」
そこまで言ったヒロの表情が唐突に凍り付いた。
「……伊織……」
呟くように繰り返された名前。自分の肩へと置かれていた手が、震えながら持ち上がり彼の頭へと当てられる。
「……伊織……」
さらにもう片方の手も頭に当てられる。限界まで見開かれた彼の瞳から涙が溢れ出た。
「ヒロ!」
たまらず彼に触れる。が、その手が凄まじい勢いで払いのけられた。
「ああっ…… あああっ…… ああああああああああああああああああああ!!」
そして上がった断末魔の如き叫び声。
「ヒロ! 聞いてくれ!」
そう叫んだ自分に対し、ヒロは激しく首を横に振った。やがて、脱力したかのように降ろされたヒロの両腕。顔がゆっくりと持ち上げられる。
その瞳に宿る感情に言葉を失う。それは狂気でも憎悪でも無かった。ただ只管に深く強い憂い。
「ヒロ……」
彼の右手がハンドガンを握りしめゆっくりと持ち上がる。それが何処に向けられるか分かっていて尚、動くことが出来ない。
ピントの合わない程の至近距離で真っすぐとこちらに向けられた銃口。
「お前は…… あの頃のお前か? 俺達の仲間だと思って良いんだよな?」
低く掠れた声がヒロから漏れた。彼の瞳を見ればわかる。今の彼は脳に埋め込まれたデバイスに支配されていない。そこに宿るあまりに強い憂いが、軽はずみな言動の一切を許さない事を示していた。
瞳を閉じる。だが、尚も閉ざされない視界。戦闘モードが起動した義体から情報がフィードバックされ続けているのだ。自分が何者なのかを否応なく再認識させられる。
「違う…… 俺はフロンティアの軍人だ」
僅かな間をおいて、視界に弾ける火花。眉間に感じた衝撃。
ゆっくりと瞳を開く。損傷した生態部から流れ出た血が、眉間から鼻筋を通って滴り落ちた。
「嘘だ…… 嘘だと言ってくれ。全て嘘だと!」
ヒロがハンドガンを構えたまま激しく首を横に振る。
「あの日…… 俺は攫われたんじゃない……」
「それ以上言うな!」
至近距離で立て続けに放れた銃弾が、顔面を抉る。
「ヒロ…… その銃じゃ、俺は倒れない。倒れないんだ」
流れ込んだ偽りの血によって赤く染まった視界で、ヒロがその場に崩れるように蹲る。
「何故だ……」
自身の背後でネメシスの触手が動くのが分かる。
「あの日、穂乃果は明らかな致命傷を負っていた。必死で助けを呼ぶ俺に応えてくれたのが死霊達だった」
その言葉に再び首を横に大きく振ったヒロ。
「お前は…… 奴等に助けを乞う事がどういうことなのかを解っていたのか……?」
「ああ…… けど、それしかなかった。あの場にそれ以外の選択肢など無かったんだ……
決断したのは俺だ。穂乃果は関係ない。フロンティアに渡った時、穂乃果は意識が無かった。だから……」
「だから、穂乃果を助けろと言うのか!?」
感情をむき出しにした罵声が叩き付けられる。
「代わりに俺を好きにすればいい」
「ふざけるな!! それで納得すると思うか!? 俺がどんな思いで…… 俺だけじゃねぇ! 伊織や、お前のおふくろだって……」
叫び声に乗った言葉が胸を引き裂くかの如く突き刺さる。けど、だからこそ分かる。今の彼であれば、ここで自身の命を奪えば、決して穂乃果の命は取らないだろう。
「早くした方がいい。間もなく此処にフロンティアの戦艦が、ネメシスの大群を引きつれやってくる。そうなればチャンスは無い」
「なっ!? クソッ! お前は何処まで……」
自身の背後で燈る赤い輝きが、正面の構造物に映り込む。視界に現れる警告ウィンドウ。僅かな静寂。
「最後に教えてくれ…… 伊織…… 伊織をあんな姿に変えたのもお前の判断か?」
「そうだ」
言った瞬間、伏せられていたヒロの瞳が『憎悪などと言う言葉では到底表現しきれない感情』を宿し、自分へと叩き付けられる。
視界を埋め尽くした夥しい量の警告ウィンドウ。構造物に映り込んだ光が爆発するかの如く光量を増す。
――穂乃果、アイ、美玲…… すまない。俺は……