Chapter 54 『帰還』 響生
1
「うん、苦しんでるね。やはり苦しそうだ」
瞼の無い瞳がAmaterasuへと戻される。オブジェクト中に激しいノイズを走らせ、明らかに苦悶の表情を浮かべたAmaterasu。
異音とも悲鳴ともとれる歪んだ音が彼から発せられる度に世界そのものにまで、激しいノイズが迸る。それはAmaterasuの存在がこの空間法則そのものである事を暗示していた。
――まずい!――
このままでは空間そのものが荒木の支配下に落ちてしまう。そうなれば彼には手も足も出ないのは『先の空間での戦闘』で明らかだ。この特別閉鎖領域がAmaterasuの物である内に手を打たなければならない。
だが状況を理解していても身体が動かない。それはあまりに異質な存在への本能的な危機感、もしくは恐怖と言っても過言ではない。
荒木の隣で車椅子に座る幼い少女の視線が食い入るようにAmaterasuに注がれている。その視線が自分達に向けられた時、何が起きるのか。
「ところで亡霊君は君たちに自己紹介を何としたのかな? うん、興味深いね。『これ』は少々特殊な存在でね。一種のバグである事には違い無いと思うんだけどね。うん、違いない」
荒木の言っている言葉の意味が分からない。
言葉を発しない自分達を呆れるかの如く、大げさに荒木が首を横に振る。
「やれやれ、君たちは『これ』と話していて気づかなかったのかい? 本来AIには無いはずの意志が言葉の中に混じることに。
僕の知る限りは、少なくとも無いんだよ。うん、そんなAIは存在しない。それとも、君たちの世界には、これほどに良くできたAIが存在するのかな? 有ってもおかしくはないか。うん、おかしくない」
『私はバグなどでは無い! 私はAmaterasu。このサーバーのOSであり……』
空間に響き渡るノイズまみれの罅割れた声。
「OSであり何かな? 君は何故『葛城 智也』のオブジェクトを持っている? それは誰によって与えられた? 何のために? 君は何故、繰り返しログを閲覧する? その行為に意味があるのかね?」
『私は……』
口を開きかけたAmaterasuに更に激しいノイズが走り抜けた。そしてそのまま動きを止めてしまう。
「処理落ちしてしまったかな? 検索しても答えなど見つからないよ。うん、見つかるはずがないんだ。その行為に意味なんてないのだからね。そんな無意味かつ膨大なリソースを必要とする作業をプログラムする者などいない。うん、いないはずなんだ。
理由があるとすれば、それは強い自責の念からだ。繰り返し見るログの中に、いくつもの『違う可能性に辿り着けたかもしれない分岐』を見つけ、ただ只管に後悔する……。うん、極めて人間的だね。妙だと思わないかい?
まぁ、もっとも今の『それ』にはログを繰り返し見る理由すらも失われてしまっているかもしれないけどね」
巨大な瞳が停止したAmaterasuから此方へと向けられる。
「正しく亡霊だよ。思考の大半を失い思念の様な物だけがこのAmaterasu:01に残留し、彷徨う。
でも、この世界にも死神がいたようだ。おかげでその思念も解体され続けてる。大分面影が無くなってきているからね。僕がこのサーバーに電源を灯した時にはもっと不安定で魅力的な存在だったんだけどね。うん、魅力的だったんだ」
やはり、荒木の言っている言葉の意味が分からない。言葉を発しない自分達をまるで嘲笑するかのよに喉を鳴らした荒木。
「分からないかな? うん、分かってなさそうな顔をしているね。馬鹿だね。うん、本当にバカだ。
『葛城 智也』の思考…… いや、思考と言うにはあまりに単純だ。うん、単純なんだ。だから思念と言った方がしっくりくるんだよ。
とにかくその様な物がそのAIに焼き付いてしまっているんだよ。まったく君たちの創造主のやることは凄いね。うん、本当にすごい。もしくは偶然の産物なのか。
『彼』はサーバーダウンするその瞬間まで、意識をそのOSに繋いでいたはずだからね。何が起きても不思議では無いか。いや、おかしい。ありえないのかな? いやでも、起きてしまった現象が目の前にある。うん、有るんだよ」
その言葉にアイが目を見開いた。
「智也…… 父の思念……」
「でも、どちらにしても、『それ』は自らの存在を正しく把握していない。それに酷く不安定なんだよ。いや、少し安定してきてるかな? 大分AI化が進行しているね? 自らが持つバク排除機構に作り替えられ続けてるとでも言うべきかな? どちらにせよ僕の興味の無い方向に進んでるね。残念だよ。うん、本当に残念だ。
だから『これ』は諦めるよ。そもそもこれがあっては閉鎖領域が僕の物にならない。だから書き換えるしかないんだ。うん、それしかない」
「……止めて……」
アイから震えた声が漏れる。
「バカだね君は。止めないよ。止める訳ないだろう? うん、止める訳がない」
荒木の口元に下劣な笑みが浮かぶ。
「声を聴いた! 声を聴いたの! ここに来てからずっと頭の中に声が聞こえてたの! だから……」
ついにアイが叫び声をあげた。それを喜ぶかの様に荒木が声を上げて笑う。
「何を言っているんだい? 君は? 意味が分からないよ。でも、表情は良い。僕はそう言う表情が大好きなんだ。うん、本当に好きだ。もっと君のそう言う表情を見ていたいな。でもね、もう直ぐ終わっちゃうんだよ。うん、本当に後ちょっとだ」
心の底から渦を巻いて湧き上がる激しい憎悪。
「そんな……」
クシャクシャに歪められたアイの瞳から涙が零れ落ちる。
それを見た瞬間、何かが自分の中で弾けた。無意識に動いた身体。背の大剣を抜き放つと同時に荒木めがけて跳躍する。
「No.1854」
荒木から発せられた短い言葉。次の瞬間、空間を突き破り現れた太い触手が視界を一瞬にして奪った。身体に感じた鈍い衝撃。
身体が宙を舞い、予期し無い方向へと弾き飛ばされる。そして対角側の壁に背中から叩き付けられた。肺を潰されたかのような激しい苦痛に襲われる。
「この空間なら、何とかなるとでも思ったのかい? うん、本当にバカだ。先の空間での出来事を直ぐに忘れてしまう。なんかそんな小動物がいたよね? ニワトリだったかな」
痛みに抗い顔を上げ、荒木を睨み付ける。その視界で、空間に固定されるかの如く不自然な体勢で固まっていたはずのAmaterasuが、崩れ落ちた。
オブジェクトを覆う記号の羅列がいつの間にか消えている。
「おや、メルを巻き込んでしまったようだね」
その言葉に無意識に視界内を探る。床に散乱した拉げた車椅子の部品。そこから遥かに離れた場所で俯せに横たわる少女を中心に血溜まりが広がっていく。
「あぁ、やり直しか。やり直しだね。いや、続きからかな? どちらにしても面倒臭い。うん、本当に面倒臭い」
荒木の隣に出現する光の粒子。倒れた少女をそのままに、全く同じオブジェクトが召喚されようとしている。一切の表情を変えることなくそれを行う荒木に感じた激しい嫌悪感。
「貴様は命を何だと思っている!?」
美玲から上がった罵声。
「おや、僕のメルがああなったのは君の仲間が、余計な事をしたせいだよ?
まぁ、答えてあげてもいい。哲学には興味は無いんだけどね。うん、ないんだ。
僕にとって命も思考も『現象』にすぎないんだ。それが人工的か自然発生したのものか。もしくは由来が何なのかには興味がない。もちろん自分と言う存在すらも含めてね。僕は言ったよね? 『死霊』と『人』を区別していないと。うん、言ったはずだ。
だから軽んじてる訳じゃないんだ。うん、決してない。生命の基本は自己保存本能だよね? それこそが数多の生物が生きる理由そのものと言って良い。その最も原始的なやり方は自己の複製だよ。
だから理に適ってると思わないかい? まして自己に何があっても、必ず同じ存在がいつでも呼び出せる。何度でもね。究極だとは思わないかい? 思うよね? うん、思うはずだ」
「黙れ!」
「酷いな…… 本当に酷い。答えを求めたのは君なのにね。まぁ、僕もお喋りには飽きてきた所だ。No.1988から1991、彼等を捕まえといてくれるかい?」
空間に漂い始める夥しい量の光の粒子。それが四方に集まりオブジェクト化をし始める。それが構造物に対してあまりに強大なために崩壊を始めるフロアー。召喚されようとしているオブジェクトの重量に耐えかねて床の四方八方に亀裂が駆け抜ける。
――無茶苦茶だ!
跳ね上がる思考レート。その中で形成を終えた無数の触手が衝撃波を纏い自身に迫る。それに対処するべく大剣を薙ぎ払おうとした刹那、複数の触手の先端から放出された多量の糸状物体。あまりにあっけなく絡めとられてしまう身体。
「抵抗するようなら、四肢をもいでしまっても構わないよ。どうせこの空間にオブジェクトの損傷による死は定義されていないだろうからね。うん、間違いない」
荒木から発せられた身の毛もよだつような言葉。視界上では美玲やアイまでが、別の個体の触手に囚われていた。
「そうだ、一つ実験をしてみよう。その結果次第では僕の興味も変わるかもしれない。うん、確かに変わるかもしれないんだ。そしたら『それ』の処遇については、少し考えてみてもいい」
荒木の口元に浮かんだ笑みが凶悪性を帯びる。
Amaterasuに伸びた荒木の触手。それが首に巻き付き彼を宙吊りにした。
「これなら、娘の姿が良く見えるよね? もっとも、その認識が君にあればだけど。さぁ、見ものだよ。『それ』にどれほどの思念が残されているのか、これで分かるはずだ。うん間違いない。No.1989、お前が最も好きな遊びをしなさい。ただしゆっくりとね。直ぐにむしってしまっては、悲鳴を上げる前に彼女が気絶してしまう」
その言葉に、こみ上げる吐き気。
「やめろ……」
自分から漏れた低く掠れた声に荒木がより笑みを強くする。
歯を食いしばり身体を捩るが、びくともしない。
「だから、止める訳がないだろう。君たちは本当に学習能力がないんだね。うん、本当にない。うんざりしてくるよ」
強引に大の字に開かれたアイの身体。
「そう言えば、遥か昔にこんな拷問があったよね。知ってるかい? 罪人の足をばらばらに縛り、その縄を別の方向を向いた牛に引かせるんだ。文字通り股が裂けて死んじゃうんだけどね。
いつの時代の拷問だったかな? うん、忘れてしまった」
恐怖に歪んだアイの表情。それが全身に掛けられた負荷により一瞬にして苦悶に歪む。
「ああっ!」
漏れた細い悲鳴。
心の底から渦を巻き湧き上がる激しい憎悪。
「ああ、そう言えばこの実験で君のオブジェクトに埋め込まれた、二つ目の人格ソフトウェアが起動する可能性があったね。けど、それは期待しない方がいい。私の予測が正しければ、この空間はそれを許していないんだ。うん、そのはずだ。一つのオブジェクトに二つ意識が宿った場合の定義が無いと言うべきかな?」
身体中の筋肉が軋む程に震え、噛みしめられた奥歯がギリギリと音を立てる。それでも、微動だにしない身体。
――止めろ……――
今直ぐに。
「や……」
「やめなさい!」
声にならない叫び声が自身から上がる刹那、Amaterasuから強いエフェクトの掛かった声が上がった。
同時に彼を中心に広がった衝撃波の様な『何か』。彼とアイを含め、自分達を捉えていたオブジェクトが一瞬にして光の粒子と化し消失する。
現象はそれだけでは収まらない。『それ』が通過したエリアで『ヒューマン』を除く全てのオブジェトが消失したのだ。
加速された思考レートの中、さらにそれは世界そのものを飲み込むかの如く凄まじい勢いで広がり続ける。
2
「アイ!」
糸が切れたかのように崩れ落ちようとするアイに駆け寄り、その身体を支える。その瞬間しがみ付くように抱き着いてきたアイ。小刻みに震え続ける細い身体から、彼女が感じた恐怖の強さが伝わってくる。
それでもアイが腕の中にいることによって広がった僅かな安堵。状況を確認するべく辺りを見渡す。
『何か』が通過した後に残されたのは、全てのオブジェクトが排除された白一色の世界だった。唯一の別の色は、緑色の光線によって描かれた永遠と続く無数の平行線だ。それが規則正しく交差することで、地上と空間の区別だけは認識できる。
無限を感じさせる空間に取り残されたかの様に存在する自分達。その中には荒木と二人の幼女の姿もあった。
うち一人はうつ伏せに倒れ、一度は消失した血だまりを新たに広げ続けている。異様な光景だった。
「成程、随分思い切った事をしたね。うん、僕には考え付かない手段だ。いや考え付くけど選択はしない。うん、絶対に選択しない手段だ」
触手を顎に当て、瞼の無い巨大な瞳をギョロリと動かした荒木。
「まさか自身の初期化を施行するとはね。それに伴う、オブジェクトヒューマンの『物理回路型・不揮発性領域』への強制退避。確かにこの空間の法則は何人たりとも改変不可能だ。メルをもってしても。それに僕の子達も消えてしまった。あの子たちの定義はヒューマンとしていなかったからね。
初期化に伴うシステムチェック中の君も書き換え不可能と言う訳だ。うん、なかなかだね」
瞼の無い瞳がAmaterasuへと向けられる。
「けど、その後はどうなる? 間もなく君は自身の選択によって消滅する。僕は新たに立ち上がった初期OSのアドミニストレーターとして自身を記述するだけで目的を達成できる。うん、出来るんだ。君がした選択は極めて無意味な行為だ。いや、僅かな時間稼ぎにはなったのかな?うん、なってるね。でもそれだけだ。うん、間違いない。
その証拠に失われたオブジェクトは呼び出せばいいだけだよ。おいでNo.1994から1998」
言い終わるのとほぼ同時に出現を開始する5体の巨大なオブジェクト。
「ほら、これで元通りだ。いや、さっきより数が多いかな? うん、確かに多い」
会話を拒否するかの如くAmaterasuが瞳を閉じた。
「だんまりを決め込む気かい? でもね、僕は君の声が聴きたいんだよ。それにはやはり『これが』効果的だよね? うん、間違いない。No.1995」
荒木の言葉に呼応するかの様に、八つの瞳が一斉にこちらへと向けられる。振り上げられた粘液に塗れた巨大な触手。それが振り下ろされる刹那、Amaterasuが目を開いた。空間に響き渡る衝撃音。触手が不可視の壁に弾き返される。
「君が存在している間は、僕に打つ手は無いと言う訳か。仕方ないね。うん、仕方がない。けど後、どれくらい君が存在していられるかな?」
Amaterasuが再び瞳を閉じる。次の瞬間、彼の身体にノイズが走り抜け、その身体がぐらりと揺らいだ。
荒木の口元に浮かぶ笑み。
「言ってる傍から始まったね? 後どれくらいな?」
Amaterasuは瞳を開かない。
瞼の無い巨大な瞳が諦めたようにAmaterasuから、此方に向けられる。
「もうすぐだ。もう直ぐ今度こそ全部僕のものだよ。うん、楽しみだ」
――どうすればいい?――
視界に浮かぶウィンドウ。メニューリストにあるログアウトの文字。特別閉鎖領域に入ると同時にリストに復帰した機能。
これを使えば少なくとも自分は現実世界へと逃れられる。他者に転送提案を出すメニューをたどりアイと美玲を表示させる。だが、可能な転送先リストに表示される文字は無かった。
後、残されているとすれば、自分だけが現実世界に戻り、荒木の本体を叩くこと。
――いや、ダメだ――
Amaterasu:01は現実世界に比べ1000倍の速さで時間を刻んでいる。現実世界での1秒が、この世界では16分にも相当してしまうのだ。
――どうすればいい!?――
荒木が時間を持て余す子供の様に触手をグルグルと振り回わしていた。Amaterasuを走り抜けるノイズが激しさを増す。時間が刻一刻と過ぎていく。
3
「繋がったわ! 量子ネットワーク網復帰完了! ついでに貴方の制限とやらを拡張しておいたわよ。ウィンドウ越しに英語の会話はやりにくくて仕方ない。聞こえてる?」
突如として空間に響き渡ったこの空間にいない者の声。
――サラ!?――
視界に強制展開されるウィンドウ。表示されるディズィールとの通信復帰メッセージ。開始されるデータの自動同期。
Amaterasuが閉じていた瞳をゆっくりと開く。
「よくやってくれた。これで最悪は避けられる」
「貴方がAmaterasuね? ようやく声が聴けたわ。予想に反して随分と偉そうな喋り方をするのね?」
会話を遮るかの如く空間に響き渡る炸裂音。本能的に音がした方向を確認する。苛立たし気に弾き返された触手を地に叩き付ける荒木。
「次から次へと…… 生身でこの思考レートでのアクセスが可能って事は、彼女は『適合者』だったようだね。これもレアサンプルだ。でも、流石にイライラしてきたよ。うん、本当に嫌だ」
継ぎはぎだらけの顔に血管を浮かび上がらせ荒木が此処にきて初めて声を荒らげる。
Amaterasuがまるで『見る必要が無い』とでも言うかのように、アイと自分の視線上に移動する。
「さぁ、ここを離れなさい。今のうちに。君達にはこのサーバーに縛られる理由はもうないはずだ」
「いいのかな? いいのかな? 其処の彼にはサーバーからは出られても、この施設から離れられない理由があったよね? 君達がわざわざこの施設に出向いた理由がそれだったよね? うん、そのはずだ。僕は確かにその記憶を見たよ。うん、間違いない」
その通りだった。自分は此処をまだ離れる訳には行かない。穂乃果を連れ帰らなければならないのだから。
けど、残らなければならないのは自分だけだ。このサーバーからの離脱手段が無い彼女達まで残る必要は無い。
――俺は一度現実世界に出る。アイと美玲はディズィールへ――
――そんな!?――
途端にアイの声が頭に響き渡った。が、次の瞬間、Amaterasuが罵声を上げる。
――アイ、お前がいるべき所はここではない! このままでは誰も助からんぞ!――
目を見開いたアイ。
――お前がやるべきことは艦に戻り、そして軍を率いてこの施設を制圧することだ。お前は艦長なのだろう!?――
明らかに今までのAmaterasuと違う口調。
――と……もや?――
その問いに答えることなく瞳を閉じたAmaterasu。そのオブジェクトが光の粒子を飛散させながら消失していく。
見開かれたアイの瞳から零れ落ちる涙。
殆ど空間に溶け込んでしまったAmaterasuの瞳が再びゆっくりと開かれた。底知れぬ愛おしさと慈愛に満ちた眼差しがアイへと向けられる。
――お前はお前の必要だと思う事をすればいい。その先にきっと答えは訪れる。……今まで、すまなかった――
光の粒子を飛散させ完全に消失するオブジェクト。まるでその粒子の一粒をつかみ取ろうとするかの如くアイが手を伸ばす。
その手の平に舞い落ちた一粒の光。それを両手で抱えこむかの様に自身の胸へと押し当てたアイ。
止めどなく流れ落ちる涙が白一色の大地を濡らしていた。やがて強い決意を宿し、その瞳が開かれ自分へと向けられる。その思いに応えるべく大きく頷く。
再び閉じられたアイの瞳。
「『葛城 愛』の複製に与えられた寿命は2時間。なのに君は何故、自分だけが生きているのか? と疑問に思ったことはないのかな? 僕は知ってるよ。うん、知っているんだ。それを聞きたくはないかい?」
――奴の言葉を聞くな!――
――分かってるよ。もう、大丈夫。私は迷わない――
アイの顔に宿る微笑み。それに広がる強い安堵。
――私は必ず戻ってくる。だから待ってて――
――あぁ――
――Transfer Request to Desire(転送、ディズィールへ)――
途端に光に包まれるアイの身体。それが残光を残して消失する。
4 独立潜航艦ディズィール 特別閉鎖領域
「艦長、響生、美玲シグナル復帰を確認!」
オペレーターの報告を受け、俄かに活気だつ特別閉鎖領域。が、その雰囲気は報告を続けようとしたオペレーターが言葉を詰まらせたために一変してしまう。
「発信元は…… こ、これは!?」
そのまま沈黙してしまったオペレーターにザイールが片眉を上げた。
「どうしたの?」
それでも、答えないオペレーター。まるで自身の目を疑うかの様に、ウィンドウに表示された短い単語を何度も読み返している。さらに、始まる何かの作業。ウィンドウ上に走り抜けたプログラムが彼女の要求した問いに答えをはじき出す。その結果に彼女は唯でさえ大きく開いた瞳をさらに見開いた。
「量子コード一致率、99パーセント以上。間違いない……発信元は…… 発信元サーバーはAmaterasu:01です」
オペレーターの言葉と共に閉鎖領域を僅かな混乱が襲う。
「でも、どうして……」
ザイールは思案気に手の甲を顎に当てた。静まり返る特別閉鎖領域。誰もがザイールが導き出す答えを待ち、彼女を見守る。
が、その静寂は突如空間に大量に出現した光の粒子によって打ち破られた。形成されたオブジェクトが輝きを失うと同時に宙に舞うシルバーブルーの長い髪。転移時の風圧によって舞い上がっていたそれが静かに背中へと流れ落ちる。
「……艦長」
オペレーターの一人が掠れた声を漏らし立ち上がる。それに釣られる様にして次々とオペレーター達が立ち上がった。
軽く閉じられていた瞼が開かれると同時に露わになる澄んだ光を称えた青い瞳。それが嘗てないほどの強い意志を帯びている。
「皆さん。本当に心配をおかけしました。ですが、もう私がこの空間を離れることは決してありません。ザイール、全権限を私へ返還してください」
その言葉に閉鎖空間を走り抜けるどよめき。
「よろしいのですか? それをすれば、艦長が望んだ民間人になる事は遥かに遠のきますよ?」
「分かっています。それでも…… 私は、もう逃げません」
細められるザイールの瞳。そして規則正しい足音を立て、アイに近づく。
「可愛い子には旅をさせろとよく言ったものです。何を経験されたか存じませんが艦長…… 見違えました……」
囁くように発せられザイールの声。が、それは彼女が踵を返すのと同時に、威厳に満ちた強い物となる。
「皆の者、聞いたな。私は元より全権返還に異論はない。艦長の経験不足の全ては私が全力で補うと誓う。異論がある者は?」
静寂に包まれる閉鎖領域。僅かな間。ザイールがオペレーターの一人一人の表情を確認するかの様に視線を走らせる。
「よろしい。では、この場に居る全員の承認を持って全権返還の簡易手続きを行う」
オペレーター全員の前に開くウィンドウ。そこに一斉に手がかざされた。色が変わると同時に次々にウィンドウが閉じられていく。
「ありがとう…… ございます。皆様には報告しなければならない事が沢山あります。ですが、今は一刻を争うのです。どうか、皆さんの力を私に貸してください。お願いします」
言葉と同時に深く下げられた頭。それが、ゆっくりと持ち上げられる。オペレーター達を見渡す瞳に更に強い光が宿った。
「――当艦はこれよりJT―34地区の再制圧及び、Amaterasu:01の回収に向かいます。ザイール、作戦指揮を。私はディズィールとの理論神経接続を試みます」
「はっ!」
アイに向かい見事な敬礼姿勢を取ったザイール。それを受けて全てのオペレーター達が一斉に自身の担当するウィンドウに向き合う。
5 アイ
艦長席に座る。長らく苦痛でしかなかったこの席に座れることが、今は唯一の希望といっていい。
瞳を閉じ意識を集中する。船との理論神経接続は今まで、真面に成功したことが無い。自分が果たしてきたのは、独りよがりの我侭な欲求ばかりだった。でも、これからはそれではいけないのだ。今回は絶対に成功させなければならない。
――お願いディズィール! 私の思いに応えて!――
全身全霊の思いを込めてシステムアクセスを試みる。途端に押し寄せる膨大な情報量の波。消え入りそうな意識を辛うじて繋ぎ留める。だが、それでも濁流の如く流れ込む情報に、溺れるかの如く翻弄され意識が食い荒らされていく。
闇に沈んでいく視界。それに抗い歯を食いしばり目を見開く。けど、それでも視界から光が消えていく。
――残念ながら今の貴方がディズィールの全てを受け入れるのには力不足です。ですが――
心に響く女性の声。けど、聞き覚えのあるその声が誰のものなのか思い出せない。
――貴方の覚悟は確かに受け取りました。私が貴方とディズィールの仲介に入ります。さぁ、私の手を――
情報の濁流の中に差し出された白く細い手。それに触れた瞬間、荒れ狂っていた激流が穏やかなものになる。握った手の平から伝わる温かい温もり。何もかもを包み込むようなその温かさに、例えようのない安らぎを感じる。
――貴方は……?――
――私は……――
6 ザイール
特別閉鎖領域に無数の光が走り抜けた。空間に仮想形成された情報伝達網。それが複雑な軌跡を描きながら、艦長であるアイへと流れ込んでいく。
手足や顔、身体の露出部に浮き上がった独特の幾何学的な紋様を、光と化した情報が駆け上がる。シルバーブルーの髪が重力から解放されたかの如く、僅かな光を宿し浮き上がった。
90パーセント以上の高深度同調を果たした時にのみ現れる独特の現象だ。このクラスの戦艦のシステムにこれほどの深度で同調出来る者はそうは居ない。
空間に浮かんでいた夥しい数のウィンドウが自動的に閉じられていく。唯一残されたウィンドウに浮かび上がる『Starting Collective Consciousness System』の文字。それは集合意識化システムの起動を意味していた。
この領域に踏み込んだ者だけが使用できるシステム。もはや視覚的な情報表示など必要ない。
艦長アイから流れ出た光が空間を伝い自身に流れ込む。その瞬間、感じた超高空の風。視界一杯に広がるのは、月明りを浴びて青白く輝く雲海を遥か眼下に臨む風景だ。
目を凝らすと、視界はヒトの限界を遥かに超えてクローズアップし、地平線すらも通りこし目標地点へと至った。
それは紛れもなく本来なら艦長しか感じえない、ディズィールが持つ各種センサー群が捉えた情報の五感干渉フィードバックであった。
衛星が捉えた情報を含め、ディズィールが持つ全ての情報と、艦長アイを通してリンクされたことを知る。
ヒトを遥かに超えた演算能力と五感を手にした感覚。それは神にでもなったかような錯覚すら覚える程に快感だった。
同時に敵施設マップを始めとする彼女が地上で経験した全ての記憶が流れ込んでくる。そして何よりも強く伝わる彼女の意思。成したい事。
その意思にのっとり必要な情報から最も的確な作戦を瞬時に組み立てていく。
それを口に出すまでもなく始まるオペレーター達の復唱。
――電子戦部隊へ通達。Amaterasu:01の制圧を開始――
――ディズィール強襲形態に移行。動力炉、戦闘出力での運転開始――
――自動追従型・浮遊ユニット群展開。全兵装安全装置解除。シールド出力増大――
船を中心に自動巡回していた兵装シールドユニットが、巨大な翼を形成するかの如く配列されていく。
――ネメシス電磁射出開始。目標へ先行させます――
艦の前方では連続射出された夥しい数のネメシスが、その装甲をオレンジ色に輝かせ艦から遠ざかろうとしていた。
――メインエンジンへの励起動力接続を開始。物理エリアに滞在中の乗員はパルス衝撃に備えてください。始動まで10…… 9……――
――2……1…… メインエンジン起動を確認。機関最大出力。ディズィール第一戦闘船速前進!――
激しい振動と共に後方へと線上に伸びる景色。船尾からは船体の長さを遥かに超える推進排気の輝きが伸びあがる。
配置を終えた浮遊ニット群が作り出す超磁場が、艦と大気との摩擦で発生したプラズマを後方へと加速して押し流す。それによってさらに速度を増す船体。超高空の空に流星の如き輝きを放ち加速して行く。
艦長の船への同調深度が更に増せば復唱すらもいらなくなり、自身の自我は曖昧になるはずだ。
――ここまでとは……
『女王の器』大それた名前だが、そこまで離れていないのかもしれない。
が、僅かに抱いた雑念は艦長から流れ込む圧倒的な意思に直ぐに押し流されてしまう。今必要なのは彼女の意思に全力で応えることだ。悲鳴の如く心に響き渡るその声に応えなければならない。心に響き渡る純粋なまでの、あまりに単純なこの思いに。
――お願い! 間に合って!――