Chapter 40 ディズィール 特別閉鎖領域
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静まり返った特別閉鎖領域-理論高次空間。その中ザイールの声だけが、静かに響く。
彼女が語る『人の愚かしさ』を象徴するかのような話とは裏腹に、閉鎖領域に再現された風景は相も変わらず美しく神秘的だ。月明りによって照らし出された雲海が青白い輝きを伴なって何処までも広がり、その上を銀河をも臨む満天の星が埋め尽くす。
それは、遠い日に『人』が想像した天界そのものの風景だ。神によって創造された風景。
それから遥かな時が流れ、『人』は自身の手で『死後の世界』と呼ばれる空間を創造した。だが、それはあまりに理想とは程遠い。
砲雷長は艦外に何処までも続く幻想郷のような風景から、ザイールへと視線を戻した。
「――訓練の参加者を襲った恐怖は、想像しがたいものだっただろう。もしくは、あまりに理不尽かつ常識外だったために受け入れられなかったのかもしれない。
戦闘は、加速空間の時間軸で2年もの月日にわたって記録されていない。恐らく彼らが最初に選んだのは『戦闘の放棄』であったのだろう。最も賢く、人の尊厳に準じた決断。
だが、戦闘が行われないまま、月日は半年、一年、と過ぎていく。徐々に上げられて行く時間加速レート。
自分達が何年耐えようと、外の空間では一瞬に過ぎない事実。彼等も『奴等』が本気である事を受け入れざるを得ない状況に陥ったのかもしれんな。
2年後、唐突に再開された戦闘。それはネメシスの奇襲により始まる。それによって感染者側の生き残りは僅か2名となった。美玲と響生の2名。
その後は極端に頻度の少ない戦闘が、断続的に行われている。広大なフィールドだ。僅か2名となった『感染者側』とネメシスの遭遇率が極端に低下したのだろう。
ネメシスの攻撃は記録されているものの、感染者側からの攻撃は記録されていない事実を考えると、感染者側からは積極的にネメシスを探していなかったのかもしれない。
彼等にしてみれば、自分達が勝っても加速空間からは逃げられない。ならば、その空間で逃げ続ける事のみが生きる手段であるのと同時に、生き残ることそのものが『奴等』に対する最大の抗議だったのであろうな。
そんな状態で、さらに3年が過ぎ。『奴等』はとうとうフィールドの縮小を始める。増し始める遭遇頻度。
そしてついに、美玲の戦死が記録された。その直後だ。残存しているネメシス全ての破壊が記録されたのは。
訓練における死者は15名にも上る。生き残ったのは、響生と訓練初期にネメシスを破壊され、リタイアしたランナー四名だけだ」
「ちょっと待ってください! 美玲の戦死って!? なら、今の彼女は何なのです!?」
たまらず受託者の一人が声を上げる。ザイールは視線を落とし瞳を閉じた。
「ログだ」
彼女から漏れた驚くほど低く掠れた声。
「……え?」
その言葉の意味がもつ重大さが、逆に理解の範囲を超えさせてしまったかの如く言葉を失う受託者。
瞳を再び開いたザイールがさらに続ける。
「――彼女だけではない。この訓練における戦死者の内、ネメシスのランナーの全てが、秘密裏にログから複製された。本人すらも気付かない所で…… それも訓練参加以前のログからな」
「そんな……」
受託者数人の声が重なった。そして訪れる重々しい静寂。それを破ったのは砲雷長だった。
「でも、そんな事が可能なのですか!? このフロンティアにおいて、それはソフトウェア上出来ないはずでは!?」
「無論簡単ではない。だが、可能だったのだ。
ランナーは名家の出の者が多い。流石に『奴等』も事態の重大さに気付いたのであろうな。
『奴等』の一人が事態を軍上層部に報告した。
本来は、その時点で事件は明るみとなり、奴等の断罪をもって事件は終了するはずだった」
「そうは、ならなかった…… のですね?」
何かに耐えるかのように頷いたザイール。
「上層部はこの事件を隠蔽しようとした。結果、このフロンティアにおいて『最も犯してはいけない罪』を犯してしまう。『ログからの死者の再生』。
それは、権限の乱用と電子部隊への指示によって、実現してしまった。
同時にそれを行ったが故に、フロンティア根源たる『主鎖プログラム』に対するアクセス記録が残される。それがフロンティア上層部に事件が発覚した理由だ。
そしてこの悍ましい事件は『元老院』によって隠蔽される。つまりそれがフロンティアの意思だ」
言葉を区切り、再びザイールは瞳を閉じた。
「フロンティアの全ての民は潜在的に『自身が複製である可能性』に怯えている。だが、それでも前に進めるのは、それだけは『絶対に行われない』と信じるが故だ。
それは『この世界』が誕生して以来、固く守られてきた『命に対する尊厳』であり、肉体を持たない思考体になり果てようとも、自分たちが『人』であることの『証』でもある。
だから、一度でもこれが破られてしまった事実は、絶対に公開されてはならない。
同時に、内部の犯行とは言え、フロンティアの『世界法則』たる主鎖プログラムに不正アクセスを許してしまった事実を認める訳にはいかなかったのだろう。いや、内部の犯行だったからこそかもしれないな……」
「ランナー以外は…… 肉体を持つ『感染者』はどうなったのです?」
先を促す砲雷長の声は震えていた。
「彼らの肉体にはすでに『死』がフィードバックされてしまっていた。
だが、彼らはフロンティアにオブジェクト化された脳を肉体とは別に持つ。彼らの『意識』はログからの復帰が可能だった。『犯してはならない罪』が今度はフロンティアの手によって行われる。『肉体は『箱』の生命維持装置の暴走より失われた』とされた」
再び訪れる静寂。砲雷長すらも言葉を失い、次を促そうとはしない。やがて、ザイールが自らの意思で再び口を開く。
「事件の全てが悍ましい。だが、この事件最大の犠牲者は響生なのであろうな。フロンティアの過ちが生んだ矛盾そのものだ。
生存者である彼の記憶は、本来全て本体である『生体脳』にフィードバックされるべきだ。
だが、事態がフロンティア上層部に知れ渡り、時間化加速空間が停止されるまでに、内側ではさらに3年もの時が過ぎてしまっていた。その膨大な記憶を生体脳にフィードバックする事は不可能だったのだろう。
彼は『訓練を経験した脳との同期』が行われないまま目覚めさせられてしまった。ある意味で彼もまたログから復帰されたような状態だ」
その言葉の意味にいち早く気づいた砲雷長が目を見開いた。
「そ、それでは、『複製とオリジナルの双方が同時に存在している』ようなものでは!?」
その声色は、行き場の無くなった感情をザイールに叩き付けるかの如きものだ。それを正面から受けて、僅かに耐えるかのような表情をしたザイール。
「その通りだ。
そして、そのような状態で目覚めさせたが故に、彼は別の経験を蓄積していく。
そうなれば、もはや同期など不可能だ。同期すれば、彼が目覚めて以降蓄積した記憶は全て消えてしまう。
それはこのフロンティアおいて『死』と同等だ。そうかと言って同期しなければ、もう一つの意識の『死』を意味する」
「そ、そんな事って……」
響き渡る受託者の震えた声。
「『彼』は自身の意識を置き去りにして、本体が目覚めたことを知ると、自ら消滅を望んだそうだ。だが、その希望すらも叶っていない。答えが出せないまま凍結された意識」
「何故、上層部は彼の希望を叶えないのです?
オリジナルが存在する世界で、複製が生きていくことがどれほど残酷な事か! まして『彼』は『事の全て』を知る人物なのでしょう!?」
ついに拳を震わせながら声を荒らげた砲雷長。
「恐らくは『彼』がネメシス5機を一人で破壊するほどの能力を持つが故。それと、事件の収拾の付け方だけを見れば、理念を捻じ曲げているとは言え『誰もが不幸にならない』方法が取られている」
「誰も不幸にならないって…… そんな馬鹿な」
吐き捨てるかのように発せられた砲雷長の声が閉鎖空間に響き渡る。
「そうだな…… だが、希望はある」
「……希望?」
ザイールが大きく頷いた。
「上層部は『彼』に処遇について一人の『アクセス者』に相談を持ち掛けた。それによってこの二つの意識の統一の可能性が見えてくる。一定条件下で意識融合を重ねる事による『意識の統一』だ」
「アクセス者に相談って、このような重大な機密を外部の者にもらした……!?」
まるで「気が狂ってる」とでも言いたげな表情をした砲雷長。
「無論ただの『アクセス者』ではない。
彼はこのフロンティアで数少ない『肉体を持つ者』に対する治療が行える医師の一人であると同時に、『多重理論分枝型 生態思考維持システム』の開発に深く関わった経験を持つ。つまりフロンティア創世にも関わったほどの人物だ」
その言葉に受託者全てが目を見開いた。
「フロンティア創世って!? その人物とはいったい……」
砲雷長に促され、口を開きかけるザイール。
が、それは唐突にサイレンの如き音量で響き渡ったコール音によって飲み込まれてしまう。そのあまりの音量に受託者数人が肩をビクリと震わせた。
緊急コールによって、強制的に通常空間に引き戻される受託者とザイール。
「緊急回線コール!」
「そんな事は分かっている! 誰からだ?」
「『暁[ドグ]』医師です!」
「繋ぎなさい」
「了解、繋ぎます」
『おお! 嘘みてぇだ。本当に繋がった』
その瞬間、閉鎖空間の雰囲気を全てぶち壊すような緊張感の無い声が、閉鎖領域に響き渡る。ザイールが僅かに片眉を上げた。
「暁、作戦行動中の特別閉鎖領域への緊急回線コール。当然それなりの事態なのでしょうね?」
ザイールが艦長以外の人物に艦内で敬語を使った事実に、僅かなどよめきがオペレーターの間を走り抜ける。
『固てぇこと言うな。俺と副長の仲じゃねぇか』
その言葉に、さらにオペレーターの数人がギョッとした顔をしてザイールを見つめた。
「冗談は言う相手を選ばなければ、時に寿命を縮める結果を招きますよ? 急用でないのであれば、回線を閉じます」
口元を引きつらせ、明らかな苛立ちを浮かべたザイール。
『まぁ、そう言うな。急いでるのは事実だ。『例の流入者(伊織)』が肉体の凍結保存を希望してな。凍結するなら少しでも良い状態で保存してぇ。一刻も早くだ』
「ならば、早くなさい。わざわざ私に許可を求める事ではないでしょう?」
『けどなぁ、現実はそう簡単にはいかねぇ。そこで相談なんだが…… 凍結保存に掛かる費用を軍で負担しちゃくれねぇか?』
とんでもない内容。しかもそれを公の場で、あろうことか副長に対し、まるで友人に個人的なお願いでもするかの様に響き渡る声。オペレーターが動揺を有り有りと浮かべた顔をお互いに見合わせる。
ザイールに至っては目に見えて呆れた表情をした。そして、その表情のまま口を開きかける。
が、彼女は出かけた言葉を唐突に飲み込み、細い指を顎に当て何かを思案し始めた。僅かな静寂。先ほどまでとは別の緊張が閉鎖空間を支配する。
「彼女の肉体は現時点で『人型義体の生態部』を構築するための過剰培養に耐えられますか?」
『あぁ、現時点ならな…… ってちょっと待て! 人型義体って、ひょっとして響生と同型のバトルユニットか!?』
大音量で響き渡る太いシャガレ声。
「それ以外に何があるのです?」
『お前ぇ、またろくでもねぇ事考えてるんじゃねぇだろうな!?』
あまりの物言いに再びオペレーターの全てが目を見開きザイールの表情を見守る。彼女は僅かに口元に笑みを浮かべていた。
「人聞きの悪いことを言うものではありませんよ? 軍が費用を負担するとなれば、当然理由が必要です。
『義体製造に必要な肉体を保存するため』 これ以上ない理由だとは思いませんか?」
『だが、一度凍結しちまった肉体じゃ、とてもじゃねぇが、過剰培養には耐えられねぇ』
「ならば、凍結する前に培養を開始なさい」
『それじゃ、凍結する意味がねぇじゃねぇか!』
「そうかもしれません。ですが、書類を見る側はそれに気づくでしょうか? 医師でもなく、専門知識も無い彼等が。理由など尤もらしければ、それで良いのです。
けど、人型義体が実際に作られたと言う事実は必要ですよ?」
『おめぇ、やっぱり、またろくでもねぇ事考えてるだろ?』
「暁、この条件が飲めないのであれば、この交渉は決裂です」
『なっ!? まったくお前ぇは、そうやっていつも人の弱みを……
義体を作れたとしても一体だけだ。すでに彼女の身体は死に向かってる。響生とは違げぇ。それは分かってるな?』
「無論です」
『一つだけ約束してくれ。彼女を戦闘には参加させないと』
「そんな事が頼める立場ですか? 私は言いましたよ? 条件が飲めないのであれば、交渉決裂だと」
『頼む』
太いシャガレ声に真剣味が増した。その途端、口元に勝ち誇ったかのような笑みを浮かべたザイール。
「分かりました。良いでしょう。彼女を戦闘には参加させません。『戦闘』にはね。
それと、これは『貸し』にカウントさせて頂きますよ? 宜しいですね? 後でこれまでの分も含めてまとめて請求させて頂きます」
『……たく、ろくでもねぇ女だ』
「何か言いましたか? 暁」
『いや、何も』
回線が途切れる寸前、何かを蹴飛ばしたかのような衝撃音と意味不明なボヤキが紛れ込み、オペレーター達が再び顔を見合わせた。
「あの、彼は一体……?」
砲雷長が言いづらそうに口を開いた。その瞬間オペレーター達が嘗てないほど顔を引きつらせる。
「過去に捕らわれた唯のだらしのない男ですよ。彼は……」
誰にともなく呟くように発せられたザイールの声を、どう扱ってよいのか混乱するオペレーター達。
一転してしまった閉鎖領域の空気を、これでもかと言うほどに吸い込み、深い溜息をつくとザイールは副長席にその身を沈めた。