Chapter 29 響生
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「目標ロストポイントに到達する」
美玲が言うのと同時に、突如として再構築を開始する仮想空間。奥床しさを漂わせていた純和風の室内は、壁どころか床までもが一瞬にして消失した。残された空間の光景に、全身の毛が逆立つような錯覚に襲われる。
ネメシスの周囲の光景が360度にわたり再現されただけなのだが、自分たちにとっては高空にあった構造物が突然消えたかの如き状態だ。『その中に居る設定』であった自分達はたまったものではない。
空に身一つで投げ出されたかのような感覚に襲われ、在りもしない全身の筋肉が萎縮する。
「ひっ!」
アイに至っては露骨に悲鳴を上げ、サラは目を見開き、悲鳴すらも上げられない状況のようだ。
美玲はそんな自分たちの様子を冷ややかな瞳で、一暼し、
「――話を続けたいのだが?」
と告げた。
一度、瞳を閉じ息を整える。
周囲に広がる絶景。高度は3000メートル位であろうか。激しい雨のせいか、眼下に広がる地上が霞んで見える。
埋建てによって直線状に整えられた海岸線。数多くの人工島が規則的かつ複雑な運河を形成し、それらを巡るように建設されたハイウェイの痕跡が視認できる。そして密集した高層建築群の跡。旧時代の繁栄を色濃く残した地形。
だが、その全ては無残に崩壊していた。
込み上げる居た堪れない感情。見ればアイとサラも沈痛な表情で眼下を見つめている。
けど、今はそんな感傷に浸っている時ではない。一刻も早く確認しなければならない事がある。
その思いに応える様に、風景の一部がマーキングされ拡大された。そこにネメシスの姿はない。
「ロストポイントだ。残念だが…… 衛星情報の履歴も追ってみたが、やはりここで途絶えていた。可視光映像はこの天気だ、役に立つまい」
覚悟はしていたとは言え、希望が絶たれるような感覚に唇を噛みしめる。
「サラ、君はこの場所を『知っているかも』と言っていたよね?」
言った瞬間、表情を明らかに強張らせたサラ。そして彼女に集中した視線から目線を逸らすように俯いた。
「言いたくない……」
瞬間的に感じた苛立ち。
「お願いだ!」
声量に感情が乗ってしまう。その、瞬間サラは、一瞬おびえたように肩を震わせた。
「私の知ってることが、貴方達の役に立つとは限らないでしょう?」
「それは、こちらが判断することだ」
美玲の高圧的な言葉にサラが顔を上げた。
「なら、尚更嫌よ。何で私があなた達に協力しなきゃ、ならないの」
「貴――」
口を開きかけた美玲を、手を挙げて遮る。そして、一歩サラの方へと歩み寄った。
「な、何よ……」
自分を睨み付けたサラ。その瞳を見つめながらゆっくりと『不可視の床』に膝をつける。そして彼女から視線を外すと、地に頭を擦り付けるように下げた。自分に出来る事はこれしかない。
「止めてよ。そんな事されたって!」
声を荒らげたサラ。
「お願いだ! 穂乃果の…… 妹の命が掛かっている。どんな些細な情報でもいい! この通りだ!」
だが、彼女から返事は返ってこない。
「私からもお願い……」
アイの声が聞こえた。そして自分の隣に膝を落とす。
「わ、分かったわよ。昔、この辺に住んでたことがあるってだけよ。これで、気は済んだ?」
嘘だと感じた。住んでいた事があるのなら、『かも』なんて曖昧な表現にはならないはずだ。
そして、そこまでして拒む理由があるとしたら、状況を打開するヒントになるかもしれないと、彼女自身が思っているからに違いない。
――ダメなのか――
一体どうすれば良いのか。
彼女の心を開くには、それこそ長い時間が必要なのだろう。けど、そんな時間は無い。
――どうすれば良い!?
焦る気持ち。だが、こうして頭を下げる事しかできない。時間が過ぎていく。こうしている間にも穂乃果の状況は悪い方へと向かっているかもしれないのだ。
「私からも頼む」
美玲の声が聞こえた。そして彼女が自分へと近づいて来るの分かる。あれだけプライドの高い彼女が自分ために頭を下げようとしている。その事実に湧き上がる感情。
――美玲……
が、その刹那、地面が波打ったかのような違和感が伝わる。
目の前でサラが転倒した。それによって『感じた違和感』が錯覚等ではない事を知る。
顔を上げた瞬間、空間全体に激しいノイズが走り抜けた。
「がっ!」
美玲が短い悲鳴を上げた。そして頭を片手で抑え膝をつく。ただ事ではない。
「美玲!」
思わず叫ぶが、返事がない。苦悶の表情を浮かべる美玲。空間を覆うノイズはさらに激しさを増し、仮想空間の維持が困難な状況になりつつあることが目に見えて分かった。
――何が起きている?
だが、知るすべは無い。何が起きているかを一番把握しているのは美玲だ。けど、彼女は話せる状態にない。
ノイズだらけの空間に展開し始める多量のウィンドウ。コード羅列がすさまじい勢いで流れて行く。
が、それは、唐突に止まった。そして全てのウィンドウに同一メッセージが浮かび上がる。
『Starting Collective Consciousness System』
「なっ!?」
美玲が愕然と目を見開いた。そして、苦痛に満ちた声がうめくように発せられる。
「そ、そう言うことか…… 道理で…… だが、何故!? あああぁぁぁっ!」
言葉は途中で裏返り、絶叫に変わった。彼女が尋常じゃない苦痛に耐えているのが分かる。
「美玲!」
そう叫んだ瞬間、美玲の身体は光の粒子を残して消失してしまった。彼女の存在自体が消えってしまったかのような強烈な不安に襲われる。
――響生――
ノイズに塗れた美玲の声が頭の中に響き渡った。
――お前達をログアウトさせる…… ――
雑音だらけの歪んだ思考伝達にあって尚も伝わる苦痛。
――現実世界に戻ったら――
途切れてしまう声。頭が割れそうな程に不快なノイズだけが脳内を占領した。それに必死に抗い美玲に呼びかける。
――美玲! おい!――
――現実世界に戻ったら…… この機体の触手を破壊してでも此処を離脱しろ! 私から出来るだけ離れるんだ! 私が私でいられるうちに――
――なっ!?――
直後、視界に激しいノイズが走り、景色の全てがブラックアウトした。瞬間的に意識が跳ぶような感覚が全身を襲う。