Chapter 28 穂乃果
本話は残虐シーンを含みます。
気分を害された方は申し訳ありません。
1
辺りを覆う余りに冷たい闇。それが侵食性を持つかの如く、身体にべったりと纏わりついてくる。誰かの感情が心に直接流れ込んでくるような感覚。果てしなく深く暗い負の感情。
激しい拒否感に襲われ、穂乃果は『それ』から逃れるように走り出した。天も地もはっきりしない闇の中を闇雲に走る。地面があることだけは、足に伝わる感覚から辛うじて分かった。
やがて闇に浮かび上がった赤い光。感じた僅かな安堵。そこを目指してさらに走る。
少しずつ近づく赤い光。が、それは唐突に照らす方向を変えた。まるで生き物の眼球のように動き、穂乃果を照らし出す。
瞬間的に身を強張らせて立ち止まった穂乃果。その視線の先で、赤い光が次々と増えていく。それはまるで獰猛な夜行動物が次々に瞼を開けるような光景だ。
闇の奥から伸ばされる鈍い輝きを放つ触手。その先端が僅かな赤い光を帯びている。開ききった赤く巨大な八つの眼球全てが穂乃果へと向けられた。
「ネメシス……」
そう呟いた瞬間、伸ばされた触手の先端から強烈な閃光が放たれる。それは、穂乃果の身体を掠め、遥か後方で何かに当たり炸裂した。
地を引き裂くが如き轟音が鳴り響き、発生した衝撃波に身体が宙を舞う。
硬質の地面に叩きつけられる感覚。体中を襲う痛み。それに何とか抗い上半身を起こそうと試みる。
その瞬間、今まで無かったはずの景色が闇に浮かび上り始めた。
廃墟と化した都市部。やがて耳に届くのは激しい雨の音。
だが、それは直ぐに、彼方此方で響き渡る人々の悲鳴に掻き消された。それは、否応無しに記憶の底に眠る恐怖を引きずり出す。
逃げ惑う人々の姿。崩れたビルの壁を突き破り、さらに別のネメシスが姿を現す。見れば至る所にその姿は在った。長い触手を八方向に束ね、それを足として地を徘徊するネメシス。
彼方此方で迸る赤い閃光。そのたび落雷の如き轟音が鳴り響き、壁状に火柱が上がる。
光が通り過ぎた後に残される裂け目は、溶融した資材によって真っ赤に染まり、まるで生物の傷口の如き様相を呈していた。
逃げ惑う人々に交じり、自動小銃で応戦する人達の姿が確認できる。けど、まるで相手になっていない。
無造作に薙ぎ払われるネメシスの触手。夥しい量の血飛沫と共に身体が千切れ飛び、肉塊と化して転がる。
何処を向いてもそんな光景が広がっているのだ。こみ上げる吐き気に、穂乃果は思わず口元を抑えた。
立ち上がる気力さえ奪われそうになる中、必死に嘔吐感に抗い、息を整える。そして、再び僅かに視線を上げようと試みた。
ここに居ては命が危ない。それだけは分かる。
が、その刹那、黒い塊が視界を遮った。と、同時に生暖かい何かが顔に飛び跳ねる。
自分の目の前に不気味な落下音と共に転った『それ』が、『何であるか』を本能的に確認しようとした瞬間、息すらも凍り付く感覚が全身を駆け抜けた。悲鳴すらも上がらない。
四肢の全てを失った男の身体。紫色の唇を震わせ、血走った眼を見開き、自分を見つめる男。何かを必死に言おうとしているのが分かる。
けど、あまりの恐怖に身体が強張り、微動すら叶わない。それでも、男性の形相に捕らわれ、必死に聞き取ろうと試みる。
が、それは男性の直ぐ脇に、地響きと共に着地したネメシスの駆動音に掻き消されてしまった。
八つの巨大な赤い瞳が男を見下ろす。
――無力化及び致命傷を確認。条項に基づき、お前に問う。生きたいか? 我等と共に来るか?――
ひび割れた合成音声が威圧するかの如き音量で響き渡る。
男性は恐怖しか読み取れない血走った瞳で、ネメシスを見上げるだけだった。が、その瞳から急速に光が失われていく。
――救命限界を突破。人道的処置を実行――
合成音とほぼ同時に動いた触手が、男の顔面を貫いた。自身の間近で、飛び散った生暖かい血が、脳漿と共に顔に飛び跳ねる。
先を遥かに超える嘔吐感、内臓が裏返るような感覚に目を見開き蹲った穂乃果。息ができない。
――女、顔を上げろ――
再び歪んだ合成音が響き渡る。それが、自分に向けて発せられていない事を本能的に願う。より身体は強張り、極度に緊張した筋肉は、如何なる意思すらも拒むかの様に動かない。
痺れを切らしたかの様に延ばされる血に塗れた触手。それが穂乃果の顎を救い上げるかの如く当てがわれた。
ヌルりとした感触。強引に上げさせられた顔を、巨大な八つの赤い瞳が覗き込む。
――我等が同胞か。なら、共に戦え――
罅割れた音声が頭の中に響き渡った。その瞬間、視界を激しいノイズが覆う。
2
視界を覆う夥しい数のウィンドウ。その向こう側には先と変わらない光景が広がる。折り重なるように倒れる人々を踏みつけ、ネメシスの群れが地を這う。打ち付ける激しい雨は、アスファルトの上に血の流れを作り出していた。
思わず目を背けるが、まるで視界を固定されたかの如く景色は変わらない。強制的に見せられ続ける凄惨な光景。
そして、視界の位置が先よりも遥かに高いことに気付く。逃げ惑う人々の姿が眼下にあるのだ。
そして、人々の内の何人かが走りながら、怯えたように自分を見上げた。
移動を開始する視界。その瞬間、人々が巨大な何かに蹴散らされたかの様に飛散する。
――まさか、これは私が――
強烈な拒否感が全身を襲う。
確かに身体が動いているような感覚があるのだ。
身体を停止させようとするが、意思に反して止ろうとはしない。
視界の中に多量に蠢く黄色いマーカ群、それらが全て逃げ惑う人々にマーキングされている事実に愕然と息を飲み込む。
マーキング群の一つが唐突に赤く変わった。その人物が直ちに拡大される。それは幼い少年だった。年齢は12、3ぐらいだろうか。少年より、さらに幼い少女の手を引き必死の形相で走っている。
が、ウィンドウは自分の興味と全く別の物をさらに拡大した。少女と繋がれた手と反対の手。そこに握られた自動小銃が拡大され、その輪郭を赤い光線が覆う。
ウィンドウに浮かび上がる『敵対分子』の文字。視界が速度を増して移動する。
少年の姿は直ぐに眼下に迫った。腰を抜かし、仰向けに倒れ、怯えた表情で自分を見上げた少年。
自動小銃を握った手が震えながら、こちらに向けられる。
途端にウィンドウの表示が変わった。
――敵対行動を確認――
「お願いやめて!」
穂乃果は思わず叫んだ。そして顔を両手で覆う。僅かに感じた振動。
恐る恐る指の間から、光景を確認する。その瞬間、目に入る全身から血を流し倒れた少年の姿。先の男性と同じく四肢の全てが千切れ飛び、胴体と頭部のみになった身体がそこにあった。
「何で…… 何でこんな酷い事を……」
引き裂かれそうな感情が悲鳴を上げる。頬を涙が伝った。
が、感情とは裏腹に自身から、身の毛の弥立つ様な合成音が発せられる。
――条項に基づき、お前に問う。生きたいか? 我等と共に来るか?――
少年が血走った眼を見開き自分を見上げた。そこに宿る激しい侮蔑と憎悪、そして恐れ。それは『人』に向けて抱く感情とは明らかに異質のものだと直感する。
そう感じた瞬間、ウィンドウがさらに表示内容を変えた。
『拒絶意思を確認。人道的処置に移行』
再び感じた振動。手に生暖かい何かを砕くような感触が広がる。
「いやぁぁぁぁぁ――」
発せられた絶叫。が、それはネメシスからは発せられない。止めど無く頬を伝う涙。ぼやけた視界に拡大されるウィンドウ。その中で少年に覆い被さるようにして、幼い少女が泣きすがっていた。
「……ごめんなさい。ごめんなさい! ごめんなさい!」
穂乃果は何度も、そう叫んだ。だが、その声は外部に一切届かない。
やがて少女は顔を上げた。そして、幼い瞳にありったけの憎悪を込めて自分を見上げる。少女の足元には、千切れた少年の手に握れられたままの自動小銃。
少女がそれを震える手で、拾い上げようとする。
「それに触っちゃダメ!」
だが、声は届かない。そして少女の小さな手がついに自動小銃に触れた。
――敵対行動を確認――
3
アスファルトを覆いつくす血の海。人であった者たちの塊が至る所に転がる。目の前には、10歳にも満たない少女であった者の頭部。左半分しか残らなかった『それ』の上で、見開かれた瞳が自分を見つめる。
憎悪などと言う言葉では到底表現できない感情を固定した瞳。
「ごめんなさい…… ごめんなさい……」
穂乃果は謝り続けた。表情を変えるはずの無い少女の片方だけの瞳に向かって。
4
何十分あるいは何時間そうしていただろうか。変わらない少女の表情。肘の辺りまで血にまみれた自分の手。感情が崩壊してく。
許されたい。ただ、その思いだけが強くなっていく。
やがて幻聴のような声が頭の中に響き渡った。
――お前等は『人』じゃない。こんな事をするのが『人』であって良いはずがない ――
肯定するしかなかった。
――言え、『自分達は人ではない』と
「私たちは『人』じゃありません」
それを言った瞬間、自分の中で何かが救われた気がした。それが、何故だが分からない。
――何処で間違った? お前は既に死んだ人間。違うか?――
視界の先に、何かが浮かび上がる。穂乃果はそれを虚ろな瞳で見つめた。
幼き日の自分が、胸から大量の血を流し倒れている。血の気を失った顔。そこには一切の生気が感じられない。
――これが、本当のお前だ。違うか?――
「その通りです。私はあの時、死にました」
――なら、今のお前は何だ? 『人』か?――
「いいえ、私は人ではありません」
――罪を、償いたいか――
「償いたい…… 償わせてください」
――お前だけが償って足りると思うか――
「いえ……」
――お前達全てが罪を償わなければならない――
「はい、その通りです」
――罪の償い方を知りたいか――
「はい……」