Chapter19 アイ ディズィール 特別閉鎖領域
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特別閉鎖領域に再現された超高空の景色。眼下に広がる雲海は僅かな月明りを浴びて、それ自体が青白く輝く。
その景色に溶け込むように消えていく光点をアイは不安そうに見つめた。
――響生
響生に言い渡された捕虜追跡任務。口を挟もうとしたが、そこでザイールは驚くべきことを口にした。
捕虜が逃走のために使用したネメシスの核には『穂乃果の意識が捕らわれている可能性が高い』と。それを聞いたとたんに目の色を変えた響生。自分は完全に響生を止める術を失った。
「ここまでは順調ですね」
聞こえたザイールの声に、アイは感情を剥き出しにした視線を彼女に叩き付けた。
「順調? 穂乃果の意識が奪われたことも想定の範囲だったと言うことですか?」
ザイールは正面に顔を向けたまま、思案するように口を開く。自分の感情など彼女にとっては興味の対象外なのかもしれない。
「いえ、ただ誰かの意識が捕らわれる可能性については、想定していました。そして可能性が有るとするなら、ネメシスの操縦技術を持つ者であろうと。
なので、美玲を初めとしたランナーの意識は閉鎖領域へと退避させたのですが、まさか民間人の、全くネメシスについての知識が無い者の意識を連れ去るとは……
ですが、これで分かった事もあります。敵はネメシスの操縦に『非人型オブジェクトに対する理論神経接続が可能なランナー』を必要としない。そこに宿る依り代さえあれば良いと言う事です。ただ、何故そのような事が可能なのか――」
淡々と状況を分析するザイール。
「私が訊いているのはそういうことではありません!」
ついにアイは声を荒らげた。オペレーターの一部が、肩を震わせ振り返る。
ザイールは蔑むかのような瞳を自分に向け、見下ろした。
「艦長、もし私のやり方が気に入らないと言うのであれば、私はいつでも全権を艦長に返還いたします。それこそが私の望みなのですから」
挑戦的な色を増したザイールの瞳。それを真っすぐと見返す。
「いえ、今はそれを望みません。けど、換わりに此処をお願いします」
アイは立ち上がった。それによってザイールの視線が自分と同じ位置になる。
「どういう意味でしょうか?」
「私は響生の元へ行きます」
言った瞬間、落胆と失笑が混じりあう表情を浮かべたザイール。
「そんな事が可能だとでも?」
それでもアイは視線をザイールから離さない。
「これは私の船のなのでしょう? 私が本気で望めばそれが叶う。違いますか? 響生が乗っていた『ディオシス』。あれぐらいの容量があれば、私一人分の仮想世界を構築するには十分です」
ザイールがついに目を見開く。
「確かにそうですね。ですが、艦長は、そんな不安定な領域に自分の意識を転送すると?」
「問題ありません。私はもっと不安定な領域で幼少期を過ごしました。それこそ、いつ機能を停止してもおかしくない、小さな端末に設けられた領域で育ったのです」
――響生と共に
だから、自分にとっては自身を失うより響生を失う方が怖い。
ザイールは暫く自分を見つめ、やがて諦めたように瞳を閉じた。
「本気のようですね、艦長。分かりました。この船は私が七二時間あずかります」
「お願いします」
それだけ言って、意識を集中するべく瞳を閉じる
今まで、自分の意志によって船とのリンクを成功させた事は一度もない。けど、それでも出来ると感じた。
今まで船との不用意なリンクは全て響生と関わりがあるのだ。だから、今回ばかりは成功するという確信がある。
――お願い、応えて! 私を響生の元へ
その瞬間感じた超高空の冷たい風。景色が凄まじい勢いで一点に向けてクローズアップされていく。やがて見えた小さな光点。それが推進排気の尾を引きながら雲間に降りていく様が、はっきりと視認できるレベルまで拡大される。
それに跨る装甲ジャケットをまとった響生の姿。
――見つけた!
――私も、今行くよ
自分は誓ったのだ。今度は響生も穂乃果も私が守ると。
2 ザイール
ザイールは艦長=アイが先までいた空間を険しい表情で黙って見つめていた。
が、しばらくすると、その表情は笑みへと変わる。それはまるで、親が子に対して見せるような慈愛に満ちた笑みだ。
「大分『葛城 愛』らしくなって来たじゃありませんか。艦長......」
「大丈夫でしょうか。艦長が不在となれば、この船の動力は七二時間で停止します」
オペレターの一人が不安そうな声を上げた。
「案ずるな。七二時間で船の動力が停止するのではない。逆だ。
船の動力が動いている限り、艦長の意識が船を離れられるのは七二時間しかない。これが真実だ。
考えてもみろ、船は艦長にとって現実世界における自身の身体だ。離れられる訳がなかろう。
それが、いつのまにか艦長への意識づけのために、定義が逆転して浸透しているにすぎない」
「そう...... なのですか。けど、艦長の身に何かあった場合は......」
不安が消えないオペレーターの表情。
「何かあってたまるものか。美玲を呼べ。彼女に艦長の護衛をさせる」