エピローグ --New daily life-- 3/3
1 響生 管理自治区 墓地
管理自治区のはずれの丘の斜面に市街地を見下ろすようにその霊園はあった。
「親父も喜んでくれてると思うよ。まさか女王夫妻が、こうして手を合わせてくれるなんて、光栄の極みだろうさ」
そう言った飯島の笑顔には隠しきれない憂いが宿る。
自治区の視察と会談を終え、此処を訪れた時には既に日が傾きかけていた。真新しい墓標が夕日の光を浴び、オレンジ色に染まる。
そこに眠る人物と話した時の記憶は今でも鮮明に残っている。ほんの僅かな時間を共にした。だがその僅かな時間だけでも、その人物が尊敬に足る人であり、多くの人間の支持を集めている事が十分すぎる程に理解出来た。それほどに印象深い人物だったのだ。
彼を始めとしたエクスガーデンで救う事が出来なかった多くの命が此処で眠っている。
「私達はそんな……」
アイが言いながら首を横に振った。飯島が再び墓標に視線を戻す。
「本当はエクスガーデンに埋めてやるのが良かったのかもしれないけど、あそこも結局直轄エリアになっちゃったし、何よりも親父が守りたかった人達の殆どが、こっちに移り住んだからね。きっと納得はしてくれてると思う」
そう言って飯島は静かに瞳を閉じた。
「まぁ、このご時世、墓があるって事だけでも幸せな事だぜ? そこら辺で野垂れ死んで身包み全て剥がされた挙句に放置ってのが殆どだからよ。だから喜んでねぇはずがねぇ」
「ちょっと、ヒロ! やめてやりや!」
その言葉にたまらず伊織が声を上げた。
「わってるよ! これでも、オッサンには感謝してんだ。だからこうやって墓見に来てやってんだろうが」
そのやり取りに、飯島が困ったような笑みを浮かべる。
「大丈夫だよ伊織っち。君等が居て、俺っちも大分救われてるんだよ。有難う。親父も俺っちに新しい友達が出来たことを喜んでくれてるに違いないよ。親父は生前、俺っちに友達が出来ないんじゃないか、って心配してたからね」
「そう、言われると、何か…… よぉ」
ヒロが視線を逸らしながら頭を掻きむしる。
「まぁ、俺っちに心残りがあるとすれば、親父には生きてこれを見てほしかったかな。そうすれば少しは親孝行も出来たのかも知れない」
言いながら飯島が自分の手の平を軽く握り絞める。そしてこちらに目を向けた。
「アイッちは、今日半日ばかり使ってみた感想はどう?」
「ちょっと、反応が鈍いというか、普段より身体が重い感じはするけど、許容だとは思う」
「ずっと使い続けてる伊織っちは?」
「最初は違和感あったけど、もう慣れたわ。エリアから出たら使えないって制限があれやけど、今の所出て行く理由も無いし」
「ヒロは一緒に住んでみてどう?」
「今までに比べりゃあ、大分人間らしい暮らしをしてるとは感じる。一応、一緒に飯くらいは食えるようになったしな」
「え? 食事ができるの?」
驚いたように目を見開いたアイ。
「厳密にいえば、伊織が食えるのは仮想世界側にあるものだけだけどな」
「ああ、そういう事」
「けど、同じ内容の飯が食えるって言うのはでけぇよ。今まではそれすら出来なかったから……」
「そっか、じゃあ第一弾としてはまずまずかなぁ」
飯島は満足げに笑った。
不定形物理干渉デバイス。それは飯島が、エクスガーデンで目撃した荒木の技術を応用して作り上げたシステムだった。そう、飯島は荒木が流体液から多量の屍を生み出したあのシステムを解析、そして応用したのだ。
エクスガーデンの至る所に大量に付着した流体液は、その組成が本来のものと大幅に異なっていたという。さらに流体液中に存在する自立駆動ナノ構造体に至っては原型を留めない程に変異していたらしい。
「でも、まだ課題は多いかな。ディズィールが戻ってきて、『希望』を本格的に展開したことで、どうにか運用までこぎつけたけど。表情補正、おもに血色の変化だけどそれは拡張現実にたよってる部分が多いからね」
少し考え込むような仕草で飯島はそう言う。
飯島の構想。それは、直轄エリア化してしまったエクスガーデンから溢れてしまったアクセス者や、クローズド処置を受け、フロンティアへのログイン手段を失った感染者、更に流入者や純血者を含め、現実世界寄りの考え方をする者達を、この管理自治区で受け入れ、新システムを通じて、彼等と管理自治区の人間の共存を試みるものだった。
そのための要は二つ。一つはディズィールに積まれた装置『希望』を使い、ニューロデバイスを持たない者達が拡張現実に接続できる環境を用意すること。
もう一つは肉体を持たない者達が、現実世界に物理的な影響を及ぼせる環境を用意することだった。
拡張現実のみを使用した仮想世界の住人と現実世界の人間の接触では、どうしてもクリアできない問題が存在する。それは全て、拡張現実において仮想世界側から現実世界に物理的な影響を及ぼせないが故に起きる現象だった。
触れることは出来る。脳に干渉し、触れたと言う感覚を再現する事は出来る。だが、例えば転倒しそうになった者を支えるなどの行為が出来ないのだ。そのような現象が至る場面で起きる。
それでは現実世界の者にとって彼等は亡霊に等しい。それを解消するための手段が不定形物理干渉デバイスだった。
ヒト型を成し、完璧に現実世界にアイを再現しているように見えるそれは、一見『義体』に見えるが、発想自体が根本的に異なり、義体ではない。単純に仮想世界のアイの容姿を再現しただけの『型』なのだ。
そこには義体であればあるはずの感覚器に相当するものが一切存在しなければ、意識をロードするための核も存在しない。
つまり飽くまで仮想世界に存在する自分自身の行動を、寸分たがわずリンクされた現実世界に再現するためのデバイスであり、現実世界に物理的な影響を与えるためのデバイスなのだ。
いわば拡張現実をよりリアルにするためのオプションなのである。だが、それ故に、通常の汎用義体ではあり得ない精度でヒトの表情を再現していた。
まして、そこに拡張現実による補正が加えられた場合、最早それが現実世界の人間なのか仮想世界の人間なのか区別がつかない。
小高い丘に位置し、管理自治区の市街を見下ろせる位置に存在するこの霊園からは、自治区の営みがよく見える。
行きかう人々のいったいどれほどが、エクスガーデンから移り住んだフロンティアの人間なのだろうか。
市場で買い物をし、何気ない雑談を行う人々が、実は全く違う立ち位置に存在し、本来なら交流など出来るはずの無かった関係だったとしたら、その変化はとても大きな一歩に違いない。
そして開始された十数万人規模の移住を可能とする大規模サーバー建設。中立エリアや直轄エリアであれば、エリア中心にシンボルタワーの如き構造体を築き、その中に納められるのが通例であったが、管理自治区においては飽くまで主役は現実世界に生きる人々とした上で、その生活への影響とセキュリティー的なリスクを最小限に抑えるために地下に築くこととなった。
そこには同時にアクセス者の為の、2万人を収容可能とするダイブ施設も設けられることになる。
明日をも生きれるかどうかも分からない外界から、生活の安定を求めて増え続ける人口に対応するため、管理自治区はそのエリアを拡大していた。
この止まる事の無い膨大な人数の流入が、管理自治区が何時まで経っても自立出来ない理由ではあったが、ある意味自立出来ないからこそフロンティアは彼等に干渉できているとも言えた。
彼等が完全に自立を果たした時、フロンティアは管理自治区構想から手を引き、管理自治区は、フロンティア公認の自治区となる。そう言う約束なのだ。
支配権がフロンティアから現実世界に移る日がそのうち来ることが解っていて尚、このエリアへの移住を希望するフロンティア国民が、流入者やアクセス者、感染者を中心に多くいる事実も、また希望の一つのように自分には感じる。
「にしても、荒木が残した技術を使うなんてな……」
無意識に出た言葉は賞賛であったのだが、それは思いの他否定的とも取れる言葉となった。飯島は喉を軽く鳴らす。
「俺っちは使える物は何でも使う主義だよ。それに俺っちは奴の主張の全てを否定はしない。出来ることは何でもやるべきだと思ってる。
『肉体を失って尚、人は人以上になれない』こんな言葉が、フロンティアに戒めとしてあるけど、俺っちはこの言葉が嫌いだ。だって、所詮ヒトは何処まで行ってもヒトでしかないって聞こえるだろう? それじゃ悲し過ぎる。
奴は言ってたらしいね。ヒトは進化の方向性を自分で選ぶまでに至ったと。俺っちもそう思うよ。持てる技術の全てを使って好きに進化するべきだ。
倫理なんて、それを望むヒトがどれくらいいるのかで変わってしまう。このフロンティアが現実世界の倫理観にそぐわないのに存在しているようにね」
まるで、何かに思いを馳せるかのように天を仰いだ飯島。飯島の言葉に強い拒否感を覚える。その発言に荒木が被って見えたのだ。
「けど、超えちゃいけない一線ってあるだろ?」
「確かにね。それでも奴の言葉は時に魅力的に聞こえる。それは技術者としての本能のようなものかもしれない。
まぁでも、フロンティアは法治国家だからね。俺っちはその範疇で出来ることは全てやるよ。もちろん変に歪めて解釈するつもりもない」
「なら、良いけど。たまにぶっ飛んでる時があるからな、お前は。荒木の様な事をやるとは思っちゃいないけど、『え? これ駄目なの?』みたいな大ボケかましそうな気がするって言うか」
その言葉に飯島は大げさに苦笑する。
「そうならないように、色々な手続きがあるわけだし、サラっちが俺っちを見張ってるからね。それに何よりも道を間違いそうなったら君が止めてくれるだろう?
でも、俺っちは親父とは違うんだよ。もちろん親父を尊敬してる。だからこそ、親父が成せなかったことをこの管理自治区で実現したいと思ってる」
言いながら、飯島が再び父親の墓標に瞳を落とした。そして瞳を閉じる。
「親父は旧時代の古典SFが好きでね。そんな話をしてなかった?」
「あぁ」
エクスガーデンで彼と話した時の事を鮮明に思いだす。彼は言っていた。現実世界とフロンティアが戦い続ければ、滅びるのはフロンティアだと。この世界が物語であるなら自分達は悪役だと。
「けどね、俺っちは嫌いだ。あの頃の古典SFの結末が嫌いだ。俺っちたちは悪役かい? このまま戦い続けたら滅びるのは俺っち達かい? 俺っちはそうは思わない。このまま衝突を続ければ、滅ぶのは確実に現実世界側だよ。それは揺るぎない事実だ。今の現実世界にフロンティアを滅ぼすのは無理だよ。それは分かるだろう?」
「おい!」
飯島の言葉にヒロが声を荒らげた。それを伊織が制する。
今の状況を考えれば確かにそうだ。今の現実世界は生産能力も無く、過去の遺物を消費し続けるだけだ。そして地上のサーバーをいくつテロで落としたところで、それがフロンティアの滅びに繋がるとは思えない。
だが、果たして先代表が伝えたかったことはそういう事なのか。
「俺っちはフロンティアが好きだよ。全ての行動にログが残るが故に、犯罪が少ない。病気も無い。量子演算回路中に広がる世界の中で俺っち達は果てしなく自由だ。
勿論この世界は不完全な所が多くて、俺っち達のような流入者と感染者の間に生まれた子に対する風当たりも冷たい。現実世界とフロンティアの間にある溝は、絶望的なまでに深い。
だからより完璧を目指すべきだと思う。それこそ、古典SFでディストピアとして描かれた、ああいった世界が俺っちは必要だと思ってる。あの世界の中では、大多数の者が幸せだ」
「全くもって賛同できねぇ。付いて行けねぇな」
吐き捨てるように言ったヒロを一瞥し、飯島は頷いた。
「うん、そうだね。だから大抵の物語の場合、この手の思想を掲げた人物、もしくは団体は、『より人間らしさを望む者達』によって潰える。『現状でかまわない』と言う結論が出されるんだよ。『ヒトはそんなに愚かではない。だからきっと上手くやれる』と言う希望を残してね。
けど、俺っちはそんな結末が嫌いだ。そんなものは結局なにも行ってないのと同じだ。それに上手く行くわけがない。今までだって上手く行かなかったんだから。そうだろう?」
ヒロは下唇を噛み締め飯島を睨みつけるだけで口を開かない。飯島の言う事は一部で正しいように感じる。
だが、古典SFで描かれるディストピアには決定的な問題があるのだ。
「だがそれでは、俺たちの様な少数派は常に犠牲になる」
「なら、その少数の人達が、集まって自分達の世界を作り出て行けば良い。そしてこのフロンティアはそれが可能だ」
「その結果、相容れなかったらどうする?」
「干渉しないのが一番だろうね。宇宙は俺っち達にとって十分に無限だろう?」
あまりに当然のようにそう言った飯島に再び感じた強い拒否感。その言葉は奴のそれと全く一緒なのだ。
「荒木の言うように、この星を捨てろと言うのか」
「違うよ、そうしたい人達が集まって、旅立てばいい。重要なのはそう言う『選択』が出来ることだよ。まぁ、そうなったら俺っちは旅立つ方を選ぶだろうね。その方が面白そうだろう? 祖先の悲願なんて俺っちにはどうだって良いし」
そう言い切ってしまった飯島。自分には到底理解できない。だが、確かに飯島であればそう考えるのかもしれないとも思えた。
「なるほどな。お前らしいと言えばお前らしい考え方だ」
「まぁ、でもそんな上手くはいかないよね。実際、現実世界とフロンティアでこのちっちゃな星を取り合っちゃてるんだから…… まぁ、でもそれはアイッちが何とかしてくれると信じてるよ」
言いながら自嘲気味に笑った飯島であったが、その顔が嘗てない程に真剣になった。
「――でなければ、先も言ったように、確実に現実世界は滅びる。『全人類強制電子化計画』も同じだ。そうなってしまったら、それは俺っち達が現実世界に帰る手段を永遠に失うという事だ。心理的にね。そしていずれは技術的に。
それは致命的だよ。最悪だ。だってそうだろ? 俺っちたちの世界は現実世界に比べて酷く不安定だよ。なにかあれば世界そのものが一瞬で無くなるんだから。その時現実世界にヒトが残っていなかったら、そうなったら、人類という種がこの世から消える。正義も悪も無い。全滅だ。こんな未来は誰も望まない」
大げさとも言える仕草で首を振った飯島。その言葉だけは賛同できると感じた。そんな未来は誰も望まない。絶対に起こしてはならないのだ。
「俺っちは荒木とある意味で同じだ、何も顧みずただひたすらに先へ進みたい。そこにどのようなリスクがあったとしても、俺っちはそういう選択をしたい。許されるならフロンティアが持てる技術の全てを使って寿命に抗い、自身を可能な限り拡張してヒトの領域を超えたい。アイッちですら想像も出来ない領域にたどり着きたい。そしてこの世の果てを見たい」
その言動に強い不安を感じる。
「お前……」
「理解できないよね。けど、こういう人間が世の中には必要なんだよ。でなければ可能性が開けない。
けど、同時に踏みとどまる選択をする者がいる事、さらには戻る選択をする者がいる事も同じくらい重要なんだ。
先に進む事で予想も出来ない事態によって滅びるかもしれない。留まった事で災いに巻き込まれるかもしれない。戻ったところで、そこにはもう未来が無いかもしれない。けど、全ての者が同じ選択をすれば、等しく同じ滅びを迎えてしまう。
あらゆる事態に備えてあらゆる方向に広がり、多様化する。それでこそ未来に繋がるんだ。俺っち達人間はこの星で、そうやって生き残って来たんだよ。これが、親父とは違う俺っちの考えだ」
そこまで、言い切り大きく息を吸った飯島。そして、墓標へと再び目を落とした。
「もう一度言う。重要なのは『あらゆる選択が出来る』ことだと俺っちは思う。だから『フロンティアの者が現実世界で生きる』。そんな『選択』が出来る世界に俺っちはしたい。それは…… 『親父が考えてた世界』ともそんなには外れてないだろう?」
場が静まり返った。飯島の大演説に対して、どう返して良いのか分からない。
「お前ぇよ。いっつもそんな事ばっか考えてんのか?」
ヒロが頭を掻きむしりながら、心底疲れたように言った。
「まぁ、それなりにね」
飯島が自嘲気味に笑いながら振り返る。
「途中から良く分からなくなって聞いてなかったけどよ。うんなもんよ。『今までお疲れ様! 後は俺に任せろ!』の一言で済んだんじゃねぇのか?」
「そうかもね」
あっさりとそう言った飯島に一同が、大きな溜め息を吐いた。
「まぁ、ほら、世界をこれからどうして行くのか決めるのはアイっちだからね。そんな女王陛下様に俺っちの妄想じみた意見を聞いて欲しかったってだけだよ。少しは影響があるかもしれないだろ?」
瞳を泳がせ、そう言った飯島に、再び一同が溜め息を吐く。けど、アイだけは飯島を真っすぐに見つめていた。
「貴方の思い、しかとこの胸に刻みました。それは私がこのフロンティアを運営していくうえで、確かな糧となるでしょう。飯島さん、貴方に感謝を」
アイがそう言った瞬間だった。背後の茂みで何かがガサガサと音を立てた。本能的に一歩前に出て、アイを庇う位置に立つ。
同時に後ろに控えていたアーシャが立ち上がり、茂みとアイの間に入った。
だが、武器はまだ構えない。敵である確証がないのだ。むしろ可能性はかなり低いだろう。それでも、中立地区を初めとした不特定多数の出入りを許容する地区はテロの標的になりやすいのだ。油断は出来ない。
視界上の熱感センサーに反応は無い。生体反応も無い。だが、確かにそこには何者かが存在していた。
女王の警護者としては有ってはならない事なのだが、この場において誰を最優先に守るべきなのかを瞬間的に考えた。この場に置いて守るべきはアイではない。そう結論づけた瞬間、
――響生、ヒロを――
と頭の中に響き渡ったアイの声。
――すまない。もしもの時は離脱してくれ――
そう、この場に置いて命の危険があるとすれば、唯一生身の存在であるヒロだ。不定形デバイスで行動しているアイや伊織、飯島に至っては、その意識の本体はディズィールにあり、命の危険はない。ただし、撃たれでもすれば、相応の痛みが再現される事にはなるが。
マップ上には此方を目指し真っすぐに移動してくる何かがはっきりと記されている。接触まで後3秒、2、1……
緊張の瞬間。が、茂みから姿を現した者に、一気に脱力した。
姿を現したのは年齢幾何もない少女だったのだ。恐らく10歳前後と言ったところだろうか。
「お花、あげる。あの時、助けてくれたでしょう?」
そう言って、両手に抱え込んだ白い花束を差し出した少女。泥だらけの様相からして、その花は少女自身が摘んできたものなのであろう。
「君は……」
その少女には覚えがあった。エクスガーデンで、ベルイードによって瀕死の重傷を負わされた少女だ。
その時の悪夢のような光景が鮮明に呼び起こされる。彼女を肉体がある状態で救う事は出来なかった。強制的に起動したデス・フラレンス・システムにより電子化強制回収をしたのだ。
その命だけは救う事が出来たのかも知れない。だが、同時に彼女の尊厳の全てを蔑ろにしてしまった可能性があった。
崩れる様に膝を突く。同時にその決断に関わった飯島、ヒロ、アーシャまでもが崩れ落ちた。アーシャの瞳にはうっすらと涙が浮かんで見える。
「有難う……」
一同を代表するように、一番近くにいたアーシャがそれを受け取る。すると、少女は屈託のない笑顔を満面に浮かべた。
2 マリアナ海溝 直轄エリアNo.3 『ディープ オーシャン』 物理エリア
空間を照らすあまりにまがまがしい赤い光。それは吸い上げた灼熱のマントルが作り出す光だ。
エリア内を大河の如くそれが流れて行く様は、さながらこの世に地獄の光景を人工的に再現しようとしたかの如きものだった。
およその生命が存在出来ないその灼熱のエリアに男は立っていた。そもそも肉体持ちが存在するはずの無い直轄エリアである。
あまりの高熱のために、激しく変化する大気密度によって可視光が歪められ、空間全体が煮えくり返っているかの如く揺らいでいた。
そのような空間にあって熱対策の一切の装備を持たない男が、そこに立ち赤銅色に輝く大河を見下している様は、あまりに異様な光景だった。
その顔は滾るような赤い光に照らし出されて尚、血色の一切を感じさせない程に青白い。だらしなく延ばされた黒い癖毛が男の整った顔を台無しにし、その陰湿な雰囲気をより際立たせる。
「採掘には決して適した場所ではなかろうに…… 海溝は岩盤が沈み込む場所だからね。他を掘るよりよっぽど大変なはずだ。わざわざこんな場所を選んで掘らなければならない彼等が哀れにすら感じるよ。うん、これは哀れだ。
だが、それを成す技術は称賛に値する。うん、間違いない。だが、そんな技術を持って尚、こんな陰湿な海の底に隠れる様にある拠点が、他のエリアよりも規模が大きいとはね。いささか滑稽だとは思わ無いかね? 思うよね? うん、思うはずだ。宇宙と海底、いったいどっちが住みやすいのだろうね?」
男は言いながら大げさに首を横に振った。
フロンティアによる地表制圧以降、このエリアは比較的初期に置かれた直轄エリアだった。一万近くあるサーバー設置エリアの中でも、5本の指に入る程の規模を誇る。
人口に至っては固定接地型のサーバーとしては、地球上で最大数を誇っていた。このエリアが此処まで拡大したのは、テロによって落とされる危険性が皆無であることが最大の理由だ。
「興味無い」
男の隣の空間が不意に揺らいだ。それは空間全体が常に揺らいで見えるこの場において尚、はっきりと分かる強いものだ。
その現象の後に残される少女の姿。長く伸ばされた髪は、紅蓮に染まる光を受けて尚、青みがかった強い光を反射する。
「まったく君ってやつは、本当に詰まらないね。うん、詰まらない……」
男はそこで言葉を区切り、隣に唐突に現れた少女に訝し気な視線を向けた。
「――それにしても、慣れ親しんだ自分の容姿を捨ててしまうとはね」
「容姿をころころ変える貴方には言われたくない」
「僕は元に戻したのだけどね。これが嘗て日本と呼ばれた国に生を受けた僕本来の姿だよ。もっとも肉体を捨てた時よりも大分若返ってはいるがね。うん、間違いない」
そう言って荒木は喉を軽く鳴らした。
「君はビックサイエンスが嘗て量産したキャラクターの容姿がそんなに気に入ったのかい? 確かにそれは良く出来てる。万人うけする容姿だろう。まぁ、そのように設計されてるのだがね。うん、間違いない」
「これが、この身体の本来の容姿ってだけ」
サミアは荒木の言葉がうっとおしいとでも言うように短く答えた。だが荒木は更に続ける。
「それは違っているよ。本来の容姿は僕と同じ日本人のものだよ。それはそれは綺麗なお嬢さんだったのだけどね。うん、とても綺麗だった。ああ、君もディズィールの中で彼女に会っていたね」
「私はオリジナルではない。もはやサミアと言う名すら、意識の識別名称程度にしか意味は無い」
「ああ、そういう事か。なるほど。妹と対峙して、心境の変化でもあったのかな? まぁ、僕にはどうだって良い事なのだけどね。うん、間違いない」
ここまで引っ張っておいて、そう言い切った荒木。毎度のことではあったが、うんざりせずにはいられない。
「――さて、そろそろかな……?」
不意に荒木が空間を見渡すように首を捻った。その、瞬間だった。
空間をまるで押しつぶすかのようなプレッシャーが駆け抜けた。それは、空間の特性自体が変異したのではないかと思えるほどに強力であり、異様な感覚が全身を支配する。
サミアは無意識に自身の周りに大きく展開していた浮遊ユニット群を引き寄せた。
――我等は統べる者。我等は実行者。我等は刻む者。我々は刻み続ける者。我々は忘れない。我々は決して忘れない。我々は、我等は我等は……――
空間そのものが振動しているような、発生源も解らない得体の知れない声が、多重に反響を繰り返す。それは聞いているだけで頭がおかしくなりそうな程に強烈だった。
空間に黒いシミのようなものが広がって行く。強い気配を感じる。それはヒトではないあまりに異質な『何か』だった。単純な言葉で言い表せるようなものでは無い。しいて言えば、『存在』という『概念をそのもの』を気配に置き換えたとでも言うべきものだ。
荒木にも近い気配がある。だが、荒木が持つそれよりも、遥かに強く同時に曖昧だ。
「やぁ、待っていたよ。そろそろ来る頃だとは思っていた。うん、思ってたんだよ。僕の『鍵』は無事そちらに渡っているよね? まさか殺してはいないだろう? あれは貴重だよ。うん、本当に貴重だ。ところで…… 僕のパフォーマンスは気に入ってくれたかな? 元老院諸君……」
荒木がこんな状況にも関わらず、腕を大きく振りながら茶化すかのように大げさな礼の姿勢をとった。深々と下げられた頭ではあったが、そこには微塵の敬意も込められていない。
再び空間に響き渡る得体の知れない声。多重に反響を繰り返すそれは、数千人の人間に同時に全く違う事を話されているかの如き耐えがたさだ。しかもそれが頭に直接流れ込んで来るような感覚がある。
一瞬にして異常な量の情報が叩き込まれ、その全てに理解と回答を強制させる圧力のような何かが、思考に限界を超えて対応させようとして、激しい混乱に襲われた。
「なるほど。君等は八人で一人かな? いや違う。もっと遥かに多い人数の人間を飲み込んでいるね? 千かな? 二千かな? どうやら君達は僕と同じらしい。うん、間違いない。それにしても300年以上に渡る歴代を全員取り込んでいるのかい? どうやら、そのようだね。うん、そうに違いない。
『開戦の切っ掛けとなった君達の悲劇』から『今に至るまでの戦争の全て』の記憶をそうやって、繋げ続けて来たのだね。いや、溜め込んで来たと言うべきか。それは凄い執念だね。いや怨念と言った方が良いのかもしれない。うん、これは正しく怨念だ。間違いない」
再びけたたましい声が響き渡る。それも先ほどの比ではない。頭が掻き乱され、精神そのものが蝕まれて行く感覚に襲われる。こんなものが会話と言えるのだろうか。こんなものを理解できる者がいるのだろうか。
「ふむ。なるほど…… で、どうするのかい? 君達が出来ることは限られている。僕を殺すか、もしくは僕を取り込むか。さもなければ僕が君達を滅ぼすか…… まぁ、でも君達を殺すのは相当に骨が折れそうだ。そう、僕を殺すのと同じくらいにね。うん、間違いない。逆に言えば君達にとっても僕を殺すことは、相当に厄介だと言う事だよ。しかも、君達はサミアが欲しいのだろう? さぁ、どうする? どうするのかな? どうしたい? どうするべきなのかな?」
再び多重に響き渡る声。いったい後どれくらいの時間こんな事が続くだろうか。こんな事を続けられれば、此方の精神が壊れてしまうと感じた。
思考伝達と聴覚の全てを遮断する。臨戦態勢を取らなければならないこの状況において、それは愚かな行為であろう。だが、そうでもしなければ発狂し灼熱のマントルに自ら突っ込んでしまいそうだった。
それによって訪れた静寂。ようやく冷静な思考が戻ってくる。得体の知れない『存在』という概念を具現化したような『蠢く黒いシミ』を改めて観察する。見れば見る程に悍ましい『何か』だった。
荒木はそれを『怨念』と言った。
自身を世の全てを呪う怨念の如き存在だと定義したが、目の前のそれは自身の比ではない。自分のその定義がいかに小さいものだったのかを知らしめる程に、強く、暗く、何よりも底が見えない程に深い。そこから闇色をしたドロドロした何かが常に溢れ出ているような気がする。それが、身体にべったりと纏わりついて来るような感覚に、意図せず震えた。
荒木がこんなものと交渉を行っている事が信じられなかった。
やがて荒木が、大げさとも言う動作で両手を広げ、陰湿極まりない笑みを浮かべた。そしてその卑屈な口元が徐々に開かれ、ついには身体を仰け反らせるようにして限界まで開かれる。荒木の身体が激しく震えていた。
――笑っている……――
目の前で蠢いていた闇が急速に広がって行く。何もかもを飲み込んで行く。赤銅色に輝く灼熱のマントルも、空間も、そして意識さえも。
全てを飲み込んだ虚無を思わせるような闇の中で、荒木の狂ったような笑い声だけが、何時までも響き渡っていた。
END
大分長いこと書いて参りましたが、これにて第2部終了です。
ですのでここまで付き合っていただけた方々には感謝しかありません!
お楽しみいただけましたでしょうか?
是非感想を頂けると、作者の生き残り確率があがります! 泣いて喜びます! 第3部の執筆速度が上がるかもしれません!
さて、第3部の予定ですが、もちろん予定しています! というのも、もともと本シリーズは3部作構成の予定でした。つまり予定通り!
これにて、2度目の完結設定をさせて頂きますが、また長めの休憩(長ければ年単位)をとり続けたいと思います! ごめなさい。大分他に書きたものも溜まってきているため。
とは言えこの作品はネットと言う場を使い、公募等などの文字制限もなく、私の書きたいものをとことん書いて来たつもりです。ですので、この作品の完結に掛ける思いはとても強いのです。
このような作品をここまで読んでくださった皆様には本当に感謝です。
それでは皆さんまた会う日まで!
第3部気長に待っていてください!!
本当に本当に有難うございました!!!