Chapter 83 『--Direct Brain Link-- Logを刻みながら』 響生
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照明を落とした薄暗い自室。ベッドに横になりながら、目的も無く視界上のウィンドウを操作する。見ているのは無限に広がる情報の海だ。最近の大きな出来事から、個人の日記のようなもの、意味の分からない悪ふざけの様なものまで、ありとあらゆる情報がウィンドウの向こう側に広がる。
その中から、たいして興味は無いが、何となく目を引いたものを選び出しては、中途半端なタイミングでそれを放り投げ、また別のものを選び出す。
そんな事をここ2時間ほど続けていた。
自室の重力設定を低めに再設定するほど疲れてはいる。けれど眠れないのだ。いや、寝たくないと言った方が正しいのかも知れない。恐らく自分が今やっている行為は、暇つぶしなのだ。アイが帰ってくるまでの。
とは言え、アイがいつ帰って来るのかすら分からない。状況から考えれば、今日は帰らない可能性すらあった。
深いため息と共に身体を起こす。すると思考と連動したシステムが、照明の光量値を上昇させた。
身体を起こした所で何が変わる訳でもない。必要最低限の品で構成された六畳程の自室。あるのはベッドと小さな机くらいのものだ。これと言って出来ることなど殆ど無い。
結局やったことと言えば身体を起こし、壁にもたれ掛かるように座っただけで、ウィンドウを眺めると言う行為自体は変わらない。
気がかりな事だらけだった。けれど、それに対する答えをウィンドウは教えてはくれない。自分の知りたい情報は一般閲覧が可能な情報では無いのだから。
事情聴取のあるアーシャとヒロ、そしてヒロに付き添うと言った伊織を、諜報部員に引き渡したのは4時間ほど前だった。
くれぐれも高圧的な取り調べをしないように念を押したところ、担当諜報員は、
「彼等はディズィールが客人として迎えたと聞いております。なのでどうかご心配なく」
と笑顔で言った。その張り付いたような感情の読めない笑顔を、何処まで信用できるのか、と不安になったが、ディズィールの特別閉鎖領域から立ち合い者が付く事を知り、思い直す事が出来た。
不安そうな表情を浮かべる一同を、安心させるためにも意識して笑顔を作り「大丈夫だから」と言い見送った。
彼等は事情聴取が続く間、閉鎖領域の軍管理施設で過ごす事になるが、早ければ3日ほどで解放されるらしい。もっともアーシャに至っては解放後も監視が付くことは避けられないようではあるが。
フロンティア共通基底時間で丸一日ほどの任務だったとは言え、体感時間では数日ぶりの帰宅を出迎えてくれたのは穂乃果だった。
メルは既に寝ていた。ドグは緊急の呼び出しを受け、出ていると言う。何となくそれはアイ絡みであろうことが想像が付いた。
先にディズィールに帰還したはずの美玲に穂乃果は顔を合わせていないらしい。
まぁ、美玲に関しては彼女のプライベート領域に直結したドアが、単に廊下にあると言うだけで、一緒に住んでいるのとは少し違う。美玲がログハウスを経由せず自身のプライベートエリアに戻る事は珍しくはなかった。
共に帰宅したサラはと言うと、穂乃果がダージリンティーを用意している僅かな間に、リビングのソファーで寝てしまっていた。
無理もない。彼女は自分の生身の肉体で出撃したのだ。物理的な肉体疲労の無い自分とは比較にならない程に疲れたのだろう。起こすのも気が引けるため、仕方なく此方の操作で彼女の部屋のベッドへと転送した。
そのためには彼女の部屋が転送可能な状態か、確認する必要があったのだが、勝手に部屋を覗いた事は後で謝れば済む事だろう。
サラ程では無いにしろ自分自身も相当に疲れていた。いかにリアルの肉体を動かしていなかったとしても、体感として義体を駆り、身体を酷使した感覚は有るのだ。
穂乃果が入れてくれたダージリンティーを飲み終えると、話も程々に自室に戻り今に至る。
再び、大量の情報の中から一つを選ぶ。先から何となく選び出しているのは、フロンティアの政治情勢に関する記事だ。
中央立法議会において、純血派が占める議席数が増えたことに対する議論や、『全人類強制電子化』に関する議論、現状選挙権を持たない『アクセス者』に対し、選挙権を与えるための運動の記事。
そしてそのどれも言えることが、自分にとって都合の良い現実世界寄りの意見ばかりを拾い上げて見ている。
純血派寄りの記事は、それが純血派寄りの記事と分かった時点で見るのを止め、他の記事を無意識に探しているのだ。
アクセス者に選挙権が無いのは、一定の理由がある。彼等は感染者や流入者と違い、技術的な問題で、フロンティアに最大深度でのダイブが出来ない。それが故に一般国民と同等のシステムアクセス権が得られず、フロンティアにおいての義務が果たせないのだ。
それだけでは無い。タイムレート加速を使用した職に就くことはおろか、長距離のサーバー間意識転送も行えない。咄嗟の状況判断に必要な思考レート加速も出来ない。
これではフロンティアにおいて、大抵の仕事で大きな足枷となってしまう。結果的に低所得となる彼等はこのフロンティアでは法律的な弱者であり、保護される対象だ。だが、同時に心理的な意味での迫害対象でもある。
ウィンドウを操作する指が重い。瞼が落ちてくるのを感じる。
――まだ、起きてる?――
唐突に脳内に響き渡った思考伝達に、ビクリと身体が震える。いつの間にか寝てしまったらしい。
――……あぁ――
――ゴメンね。待っててくれたんだよね?――
――いや…… まぁ、何となくな――
――有難う。今からそっちに行っても良い? 色々、伝えたいことが有って……――
――ああ――
返事をすると直ぐに空間に漂い始めた光の粒子。やがて集合を果たした光が、急速に形を成して行く。華奢なラインをもつ身体が形成され、続いて細く長い手足が伸びあがる。
実体を結んだ身体が輝きを失うと共に、背中へと流れ落ちる長い髪。それが特徴的な青みがかった偏光を放ち始める。温かい光を宿した青い瞳がゆっくりと開かれた。
いつ見てもアイの空間転移は優雅であり美しい。まるで女神の降臨を見ているかのような錯覚を覚える。
いつもなら無意識に見とれている光景。だが、今回は実体化したアイを直視することが出来ずに視線が泳ぎ始めた。
原因は全く予想すらしていなかったアイのキャミソール姿にあった。
光沢のある淡い青色の生地で作られたそれはあまりに薄く、ただでさえ整い過ぎた細い身体を、儚く感じられる程に強調させていた。露出した肩を初めとした白く透き通るような肌が視界に入れることを躊躇うほどに眩しい。
「変、かな?」
俯き加減のアイが発した強い不安を宿した小さな声に慌てて首を振る。それが精いっぱいだった。
「本当に? こういうの着るの初めてで…… えっと、最初は普通のパジャマを買おうと思ったんだよ? けど、サラがこっちの方が良いって言うから…… やっぱりちょっと私らしくなかったかな……?」
再び慌てて首をふり、今度こそ言葉を紡ごうと必死で口を動かす。
「なんて言うか、凄く眩しい…… 似合ってるよ」
そう言った瞬間、アイの表情が目に見えて変わった。
「良かった」
嬉しそうな笑みを照れるように浮かべ、此方へと歩き出したアイ。
が、一歩踏み出した瞬間、身体が浮き上がり大きくバランスを崩してしまう。
この部屋の重力値は、通常の六分の一程までに下げられているのだ。普通の感覚で歩けるはずがない。
殆ど飛び上がるような状態で、短い悲鳴と共に此方へと突っ込んできたアイを慌てて受け止める。だが、自分自身も通常設定と異なる環境変数に対応しきれず、バランスを崩してしまった。
結果的に、自身が下敷きになる形でベッドに倒れこむ形となる。こんなハプニングだと言うのに、意識は密着したアイの身体から伝わる心地よい体温に奪われてしまった。
本来ならアイを受け止めた腕を解放しなければならないのだろう。けれど、愛おしさに負けて逆に腕の力を強めてしまう。
すると、アイがそれに応えるかのように此方へと体重を預け直してくれた。表現しようの無い何かが自身を満たして行くのを感じる。それは今回の出撃の疲れはおろか、今まで自分が背負ってきたものの全てを溶かしてしまうのではないか、と感じられるほどに心地の良い感覚だった。
どれくらいそうしていたのだろうか。暫くして顔を僅かに上げたアイ。流れ落ちた特徴的なシルバーブルーの髪が顔をくすぐる。
「なんか、不思議だね。響生にこうやってくっ付くの、初めてじゃない筈なのに…… なんか、照れくさい……」
自分を至近距離で見下ろし、はにかむような笑顔を見せたアイ。その仕草に、再び抑えようのない愛おしさが込み上げてくる。
けれど、アイの表情は直ぐに真剣なものへと変わってしまった。それはある種の覚悟を宿したものだ。
「伝えないといけないことがあるの……」
そう切り出したアイの声は、僅かに震えていた。
「私の女王即位が、明日フロンティア全土に発表される事になった……」
ゆっくりとした口調でそう言ったアイ。その瞳が不安を宿して揺れる。
「おめでとう…… で良いんだよな?」
そう答えると、アイはまるで緊張の糸が解れたように表情を崩した。その瞳にはうっすらと涙が浮かんで見える。
「驚かないんだね…… 本当に全部受け入れてくれるんだ……」
「アイがどんな立場になっても俺の気持ちは変わらないって言ったろ? それに何となくそうなるような気がしてたんだ、あの時アイが指輪の意味を再確認した時から」
細められた瞳から、ついに涙が零れ落ちる。
「ゴメンね。泣くつもりなんて全然なかった。でも…… 響生を信じてた…… 信じてたけど、やっぱり怖くて……」
アイの涙をそっと親指で拭いながら口を開く。
「実を言うと、俺も不安だったんだ。輸送船の警護に就いたネメシスのランナーがアイの事を『陛下』って呼んでただろ? 何となくこうなる事分かってたはずなんだけどさ。なのにその時、凄い不安になったんだ。なんかアイが遠くに行ってしまった気がして…… もう、逢えなくなる気がして…… だから、こうして起きて待ってた」
再び静かに自分へと預けられたアイの体重。
「ごめんね……」
僅かに嗚咽が混じる声が耳元で聞こえた。
「謝る事じゃない。今こうして一緒に居るんだから。それに、不安になった分だけ、余計に幸せと言うか…… けど、俺ももっと強くなんないとな。生活も劇的に変わるんだろうし。今までのように、逢えるのが当たり前じゃなくなるのかもしれない」
「強くならなくていい。響生に我慢なんてさせたくない」
「けど……」
「響生にもっと私を知って欲しい。もし会えない期間があったとしても、響生が不安を感じないくらい私を知って欲しい。今の私の事、これからの事。今の私が何を考え、これからどうして行きたいのか。私の想いも気持ちも全部。
そして私は響生の事をもっと知りたい。今の響生が何を思ってて、何をしたいのか。何が不安で、何が安心なのか。響生の気持ちも想いも、喜びも悲しみも怒りも憎しみも全部知りたい。私が、不安にならないように」
知らない事があるから不安になる。確かにそうなのかもしれない。アイの全てを知ることが出来たなら、きっとそれは揺らぐことのない安心に繋がるのだろう。
――けど……――
そんな事が出来るはずがない。
――そんな夢のような事を可能にする方法が……
「あるよ一つだけ…… 互いの想いの全てを伝えあう方法が……」
まるで、此方の思考に反応するかのように、アイが静かに言った。
「……え?」
「ダイレクト・ブレイン・リンク…… システムを介さない直接の思考接続」
それは名前こそ知っているが、自分には馴染みのないものだった。
極親しい者達の間のみで行われるコミュニケーション手段であり、フロンティアにおいては、広く行わているらしいのだが、自分は一度も行った事が無いのだ。
五感の共有から始まり、徐々に感情から思考、更には記憶までもが最終的に共有されるそれは、作戦行動時に行うシステムを介した情報ログ中心の疑似的な意識共有とは、根本的に異なるものであり、ある種の快楽を伴った別次元の感覚を伴うという。
「けど、あれってリンク切れたら、共有時の記憶は断片化されて互いの深層心理の中に沈むんだろ? 行った回数が多いと鮮明な記憶が定着することもあるらしいけど」
「普通はそう。でも私なら、互いの記憶にそれを焼き付けることが出来る…… と思う」
「思うって…… そっか、アイもやったことないのか……」
「当たり前だよ。条件を知ってるよね?」
言いながら少し怒ったように頬を膨らませたアイ。
「ああ、家族以上に信頼し合う仲だろ? だからさ、サラとかとやった事があるんじゃないかって」
「ちょっ! サラとって!? そんな訳ないじゃん!」
アイが驚いたように身体を起こした。
「ほら、お前等仲いいじゃん?」
「だからって! サラは親友だよ!?」
「だからだよ。親友も場合によっちゃ家族以上に信頼し合う仲に入るだろ」
「それはそうだけど…… 多分、響生は根本的な勘違いしてるよ……」
「そ、そうなのか?」
そう言えば、このシステムについての自分の知識は美玲から聞いた話が全てだ。その時も自分の無知さ加減から、美玲を怒らせてしまった事を思い出す。どうやらフロンティアにおいて『それ』を行う事は、特別な意味を持つらしいのだ。
自分の中でそれは『それが男女間で行われた場合』だと理解していた。だが、どうやら違うらしい。
「その、俺、何て言うか。フロンティアの事情が分かってるようで分かってない部分も未だにあるって言うか…… 特にこの件に関しては……」
美玲の時のような失敗を繰り返さないために、そう前置きを入れる。その上でこの際、聞ける事は全て聞いておこうと思った。
「その、例えば俺が穂乃果とするのは有りなのか?」
「ええ!? 何言ってるの!?」
半ば軽蔑するような非難の混ざった驚きっぷりに、むしろ自分の方が驚いてしまう。
「え? 駄目なの? だってほら、家族以上ってことは穂乃果は家族なんだし、条件は満たしてる事になるんだよな? 兄妹の仲も悪くないと思うんだよなぁ」
「思わず大きい声出しちゃったけど…… 本当に響生はなにも知らないんだね…… 『信頼し合う家族以上の関係』って言うけど、それは学術的に捉えた場合の一般論だよ……」
深い溜め息と共にそう言ったアイ。
「どういうこと……?」
「その…… 好きな人とじゃないと駄目なの。もちろん例外もあるけど。それは、良くない事だと思う……」
何となく分かってきた気がする。けど、その上でもやはり思うのだ。
「なんか勿体ねぇな。せっかくヒト同士が真の意味で分かりあえるシステムがあるのに恋人限定ってのはさ。まぁ、そういう文化なんだろうけど」
言ってしまってから、自分がとんでもない事を言った可能性がある事に気付き、慌ててアイの表情を確認する。そこに宿っていたのは自分が想像した呆れでも非難でも無く、純粋に困っているよな表情だった。
「それも違うよ…… 確かにそういう文化と言えばそうなのかもしれないけど。でもこれは響生にも私と共通の倫理観があるはずだよ。良い? システムを介さない直接接続だよ? 五感から全部、共有するんだよ? このままの状態で思考伝達の域を五感から、感情、記憶まで拡張したら大変な事になるよ?」
「それは、記憶から全部、共有するから倫理的にまずいって事?」
「それも少しあるけど、根本的に違う。もっと技術的な問題。普通は相手の思考を受け入れられない」
「だから信頼し合う家族以上の仲って事なんだろ?」
「じゃあこのまま試しにやってみる? きっと発狂するよ?」
「そ、そうなのか……」
アイの表情が増々困ったものになる。そして戸惑うように視線を泳がせた。
「シンクロが必要なの…… 少なくとも繋がる初めの瞬間はお互いの感情と思考がある程度一致してないと駄目。それも他の事を全く考えていないくらい真っ白で一途に強くと言うか。そういう状態を作り出す前段階が必要なの。それで、それに一番適した行為と言うのがあって…… 分かる…… よね?」
何故か、言葉の最後で視線を此方から逸らしたアイ。だが、言葉の意味は分かった気がする。
「意識統一とくれば、やっぱ座禅とか瞑想とかの類か……? けど、それでもそれって相当に難しくないか?」
「全然っ分かってない! それこそ迷走だよ! 迷走も迷走の大迷走!」
「……いや、何で怒るんだよ?」
そう返した瞬間、アイは「もう、知らない!」とでも言うように、布団を掴み上げ被ってしまった。
――ここ俺の部屋なんだけどな……――
そんな事を考えつつも、どうして良いか分からず困り果てている。
「妖怪鈍感男」
布団の中から、ぼそりと呟く声が聞こえた。
「ええ!? いや、そりゃサラにも言われたけどさ……」
頭を掻きむしりながら、アイが被ってしまった布団をめくりあげる。するとアイがクスリと笑った。
「なんだよ……」
「なんか、響生らしいって思っちゃった。でも、去年の私だったら怒るか泣くかして帰ってたよ?」
「それは…… 何て言うか…… 非常に、申し訳ない……」
言いながら、視線を逸らし更に頭を掻きむしる。
「うん、許すよ。何が悪いか分かってないと思うけど…… きっとこれからもずっとこんな感じなんだろうね、私達は。ううん、むしろずっとこんな感じで居たい。だからそのために、今は少しだけ変わろう…… 前に進むの」
透き通るような深い蒼い瞳が、此方を見つめていた。それが何かを決意するかのように静かに閉じられる。
次の瞬間、視界に開いたセキュリティー警告。その内容に目を見開く。それは一種の犯罪抑止力として存在するシステムだった。
オブジェクト環境設定とプライベートエリアのアドレス設定をワンセットにした変更要求、更にそこに一つの重要な『意思の確認』が加えられた警告ウィンドウ。
それは他と隔絶されたメニュー、もしくは他のコマンドラインと隔絶された思考入力コマンドによって相手へと送られ、その意思を問うものだ。
それを受託すればこの部屋のアドレスは外界と切り離され一時的に閉鎖領域へと移行すると同時に、オブジェクト同士の接触に対する制限が解放される…… はずだ。
そういうものが存在することは知っていても自分にとっては、都市伝説級のシステムだった。それが、今目の前で展開されたのだ。
思考が一気に混乱して行くのが分かる。こんなにも早くこのような状況になるなど夢にも考えてなかったのだ。
さらに不幸な事にサラに未経験であることを弄られた事を思い出し、半分パニックになる。
が、それは再び開かれたアイの瞳を見た瞬間、嘘のように落ち着いた。揺らぐことのない強い意志が宿った瞳が此方を見つめていた。
「私達はこれから繋がるの。まずは五感から、互いを強く感じながら、意識を一つにするの。もう一度言うよ、響生。貴方に私の全てを知って欲しい。そして私は貴方の全てが知りたい。例え離れている期間があったとしても、何があったとしても、お互いがお互いを信じ合えるように、決して不安にならないように……」
差し出された手を強く握り絞める。すると緊張の糸が解れるようにその瞳が、恥らいながら逸らされた。見ればその顔が真っ赤に染まっている。
そして気付いた。自分が鈍感なばっかりに、こんな瞬間にまでアイに無理をさせてしまった事に。
視界に放置された警告表示を一度キャンセルし、此方から送りなおす。アイが僅かに驚いたように瞳を開き此方を見た。
「その、何て言うか…… 一応な。俺も男だからさ……」
「馬鹿……」
今まで、そしてこれからの一生を通して、これほどまでに強烈に記憶に残るひと時は無いのだろう。それは脳に焼き付いて離れない『あの日』の記憶すらも超える程に強いものとなるに違いない。幸福な時間がゆっくりと静かに流れて行く。ただ、静かに、確かなログを刻みながら。
2
数日後、フロンティア首都、月詠『王帝宮』にて玉座に就いたアイ。その即位式を初めとする様々な式典の様子が連日のように報道され続けている。
今やアイは、このフロンティアにおいて最も有名な人間であり、尊ぶべき存在となった。
ウィンドウには、王帝宮に集まった数百万人規模の群衆の前に立つアイの姿が映し出されている。その堂々たる姿は、自分が知るアイとは全く別ものだった。
この日、葛城愛以来300年の時を開けて女王に即位したアイから、450億人にも及ぶフロンティア全国民に向け、初めての演説が行われた。
後に新たな時代の幕開けのきっかけとなるそれは、『葛城愛』としての能力を使った前代未聞の演説手法によってなされ、これ以上ない程の説得力をもって『女王の復活』をフロンティア全土に知らしめた。また、その演説内容は国民の心を鷲掴みにし、熱狂的な支持を得ることとなる。
同時に、元老院配下の官僚達が数日をかけ作成した原稿と全く異なる内容の演説は、政治勢力及び経済バランスに大きな影響を与え、フロンティアの現権力者達を大いに混乱させる事となった。
ウィンドウの中のアイは、何よりも気高く、そして強く見える。それは折れることを知らない研ぎ澄まされた鋼の剣の如く美しく、自分などには触れる事など許されない遠い存在のようにすら思えた。
けれど、それでも自分には分かる。その本質は、自分の前で泣き、そしてはにかむように笑ったアイと何も変わらないと。堂々たる王としての振る舞いの裏に、年齢相応の弱さがある事を自分は知っている。だから自分はアイを支えるのだ。
ウィンドウの中で、アイが群衆に向け訴えかけるかの如く手を伸ばす。その薬指には、あの日に送った指輪が静かな輝きを放っていた。