Chapter 69 アーシャ エクスガーデン ネットワーク隔離地区
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荒木の狂ったような笑い声が、空間に異様なボリュームで響き続ける。
――私と響生が…… 鍵?――
荒木が何を言っているのか解らない。だが、荒木の異常なまでの笑い声が、それが極めて重要な事を示していると直感する。
思考を巡らす間にも、ベルイードが連れ込んだ鉄器兵から流れ出た流体液を媒介にして、屍としか表現できない存在が、地中から這い出ては立ち上がり、その数が増えて行く。それはあまりにも悍ましい光景だった。
「――これほどまでに思った通りに事が進むのは、楽しいね。うん、とても楽しい。楽し過ぎて、大事な実験を一つ忘れてしまう所だったよ。それを忘れてしまっては、わざわざ君達の船に出向いた意味を失う。それはもったいない。うん、非常にもったいない。君もそう思うだろ? サミア。うん、思うはずだ。だから例のを試してみて。うん、試してみてよ」
言葉の最後で唐突に低くなった荒木の声に背筋を冷たい感覚が駆け上がる。姉が荒木の声に反応するかのように瞳を閉じた。
次の瞬間、断末魔の如き悲鳴が空間に響き渡る。見れば、逃げ場を失い、怯えるように隅に固まっていた人々が、頭を押さえ地を狂ったように転げまわっていた。
彼等はニューロデバイスを持たないが故に、荒木による支配を逃れた者達だ。強烈に嫌な予感がした。
――まさか…… けど、そんな事……――
だが、否定した現象が目の前で進行していく。苦しみ藻掻く人々の絶叫が、意思の虚ろな呻き声へと変わり、次々に不気味に身体を揺らしながら起き上がる。
『馬鹿な……』
小さなサソリが、身体に似つかわしくない程の、低く掠れた声を発した。
「こんな事が出来るはずない…… かね? 目の前の事象を疑うのは良くない。うん、とても良くない事だよ。こうして実際に起きている。うん、間違いない。
それに、これは君達の船に積まれていたシステムの応用だよ。そのシステム名に思わず笑ってしまったがね。まさかこんなものが『希望』とは。うん、本当に笑える。
だが、このシステムの発想自体は素晴らしいよ。うん、本当に素晴らしい。これを使えば、脳にニューロデバイスを導入していない者までも、君達のネットワーク管理下に置ける訳だ……」
『そんな事……』
「おや? 知らなかったのかい? その顔は知らなかったという顔だね。うん、間違いない。
この装置は君達の船に積まれていた。いや、あの船はこの装置の為に存在しているといって良い。うん、間違いない。だからこそ僕が君達の船に出向いた理由なのだからね」
そこで言葉を区切った荒木が、口元に歪な笑みを浮かべ、得体の知れない感情を宿した瞳を小さなサソリへと向けた。
「――さて…… 君達は、いや、『君達を動かしている者達』はこれを使って何をしようとしていたのかな? 興味深いだろう? そうだよね?
そもそも、君達の創始者、葛城智也は何のためにこんな物を構想したのかな? 考えてみると良いよ。ヒトは考える生き物だからね。自らがヒトと思うのであれば考えてみると良い。君は、自分の住まう世界が絶対的に正義だと思うかい?」
「飯島」
低い声を発した響生に、飯島が小さな頭で頷く。
『解ってる』
荒木が呆れたように大げさに首を横に振った。
「やれやれ、僕の言葉は聞くのが嫌かい? なら、さらに実演しよう。そうだ良い機会だ。これがいかに、『支配』に優れたシステムであり、その有効範囲が広いかを。
そこの彼。うん、彼に協力してもらおう。うん、これは丁度良いサンプルだ。これが、君には最も伝わるだろう。うん、間違いない」
言葉と共にゆっくりと持ち上げられた荒木の腕が、横たわる先代表を指さしピタリ止められた。
『やめろ……』
飯島から発せられた罅割れた合成音声。それにどれほどの感情が込められているかが、胸を抉る程に解る。
「馬鹿だね。僕が止める訳がないだろう? これは何度も言っている。本当にうんざりするぐらい何度も言っているよ。うん、間違いない」
意識の無いはずの先代表の身体が、一度大きく震えた。
片腕を失うほどの拷問を受けて尚、表情を変えることが無かったその顔が、目に見えて歪んで行く。
『アーシャ。お願いだ! 父を!』
「解っててよ」
理由は解らないが響生や飯島、ヒロをあんなにもあっさりと救えたのだ。自分と思考が接続されている限り、彼等の意識は正常に保たれる。それは荒木が言う『鍵』に関係が有るのかもしれない。
問題は思考接続の範囲を広げれば、流れ込む他者の思考に、自身が汚染されかねないことだ。そうなれば、今度は自身が正気を保っていられない。
だが、幸いにして響生と飯島からの思考の流入は殆どなかった。こちらが意識してその思考を読もうとしない限りは、無に等しいのだ。
恐らくそれは彼等自身が伝達の範囲を制御してくれているのだろう。
ヒロから激しい感情を伴った思考が絶え間なく流れ込んでくるが、それも姉から流れ込むそれに比べれば、遥かにマシだった。
――あと一人くらいなら行ける!――
恐らく、先代表も響生達と同様に接続に制御を掛けてくれるだろう。
が、先代表に接続を試みようとした瞬間、それが不可能な事を思い知る。
「駄目…… 先代表にアクセスする術が無い!」
あまりに当たり前の言葉が、絶望と共に口から洩れた。クローズド処置を受け、ネットワークとの接続の術を失っている先代表に接続する術が無いのだ。
地中から沸き上がる様に染み出た、血の色をした流体液に先代表の身体が飲み込まれて行く。
「これは、素晴らしい。うん、本当に素晴らしいよ。さらに範囲を拡大してみよう。サミア残りも全て取り込んでしまいなさい」
荒木が言った瞬間、今度は自分の後ろで断末魔の如き叫び声が上がった。
――今度は何!?――
見れば、自分が救ったはずの『元感染者』達が、両手で頭を抱え込むようにして、悶えている。
――こんな……――
これでは『自分が何のために行動したのか』すら解らない。誰一人として救えてはいないのだ。
胸を抉られるような感覚から、逃れるべく、彼等から瞳を逸らし顔を伏せる。
「君がそんな顔をする必要は無い。うん、無いんだ。だってそうだろう? 全ては君が発端だよ。君が居なければサミアがこうして僕に協力することも無かった。
そしてそれが無ければ、僕はこんな面白い実験ができることも無かったんだ。うん、無かったんだ。だから、誇っていい。それに君は何といっても僕の『鍵』なんだからね。顔をあげて誇るべきだ。うん、これは誇れることだよ。顔をあげて、目の前の光景を、実験の成果をよく見て。素晴らしいだろ? そう思うよね?」
――……全て、私が……?――
今まで感じた事の無いような激しい痛みが胸を締め上げた。それと同時に激しい混乱が自身を襲う。
――全部…… 私のせい……?――
苦しみ悶える者達の悲鳴が鮮明に聞こえる。嫌でも目に入る『屍としか表現しようの無い者達』の落ち窪んだ目の全てが、自分に向けられている気がした。
「ああ、そうだ。ここまでやったんだ。大事なゲストも登場させないとね。うん、間違いない。これは壊れずに、ここにこうして来てくれたヒロ君、君への僕からのプレゼントだ。現実世界に『彼女』を再び呼び戻したいのだろう? 僕がそれを叶えてあげよう」
荒木が大げさな動作で、何かを招くように片腕を前へと上げた。
その先に光の粒子と共に現れる少女。その瞬間、ヒロから流れ込んでくる感情が激しさを増した。
「伊織!」
走り出そうとしたヒロが、唐突に片手を額に当て崩れるように片膝を突く。
同時に彼から自分へと流れ込んだ、強烈な痛み。まるで脳を内側から焼かれるが如きその苦痛の凄まじさに、瞬間的に思考の一切が停止してしまう。
「焦っては駄目だよ。うん、駄目だ。彼女にはまだ実体が無いからね。彼女にも君のイメージから作った身体をあげないとね。嬉しいだろう? 嬉しいよね。自分のイメージで文字通り彼女を染めることが出来るんだ。こんなに素晴らしい事はないよね? うん、間違いない」
光の粒子と共に出現した少女の足元に湧き上がる血の色をした流体液。少女の顔が目に見えて恐怖に歪んだ。
「伊織!!」
再び叫ぶかの様な声を上げヒロが、身体を大きくふらつかせながら立ち上がる。
「来ちゃ、駄目や!」
少女が大きく首を横に振った。その瞳に既に恐怖は無く、何処か悟ったような強い憂いのみが浮かんでいた。
それでも再び走り出そうとしたヒロの進路を塞ぐように響生が片腕を上げ制す。
「どけ! クソッ!!」
張り裂けそうなまでに悲痛な感情が流れ込んでくる。そのあまりの強さに息苦しさまでをも感じた。
実体の無い少女の身体を伝うように、ドロリとした流体液が昇って行く。
流れ込む感情の激しさが更に増す。それはいつしか激しい憎悪へと変わり、姉から流れ込むそれを超えて膨れ上がった。
それでも雪崩の如く流れ込むどす黒い感情は膨らみ続け、此方の自我をも飲み込むが如きものへとなる。
聞こえた低い唸り声。
が、それはヒロのものでは無かった。気づけば自身を侵食するかの如く流れ込む感情もヒロのものでは無い。
唸り声はさらに声量を増し、ついには世の全てを呪うが如き咆哮となる。
響生が持つ大剣から、彼の持つ憎悪を具現化するかのような高エネルギー粒子の炎が吹き上がった。
僅かに体制を低く落とした響生。次の瞬間、地が波打つような衝撃に襲われる。
加速された思考レートの中、まるで何かが爆発したかのように陥没し、周囲がめくれ上がる地面。
広がった衝撃波と共に舞いがった土煙に視界の全てが飲み込まれた。