Chapter 66 アイ ディズィール 特別閉鎖領域
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360度全方位に渡って、艦外に広がる超高空の景色が再現された特別閉鎖領域。
人工の灯を失い、漆黒に染まる地上とは対照的に、天上には無限の広がりを見せる星々の世界が広がる。
その光に海の中に有って、明らかに星と異なる動きを見せる光の数々。それに殆どのオペレーター達が目を奪われ、天を仰ぎ見ていた。
閉鎖領域内を浮かび上がるウィンドウ群は、ほぼ嘗ての姿を取り戻し、本土月詠とのネットワーク接続の復帰を果たした事を告げている。
それだけでは無い。失われたはずの情報収集衛星が齎すデータまでも完全復帰を果たしているのだ。
本来、残された僅かな衛星を使って、限られた時間でのみ、月詠との再接続が果たされるはずだった。
だがそれは、各々の衛星がポイント通過をするタイミングを待たずして唐突に起きたのだ。
予想外の完全復旧の理由をウィンドウから読み取ったオペレーターが、何かに導かれるようにして天を見上げると、それに釣られる様にして次々に他のオペレーターも天を見上げた。
起動上を夥しい数の光点が流れていく。
「ラグランジュ防衛艦隊……? いや、それ以前に、何故元老院直轄の護衛艦隊の旗艦が、あんな所に……!?」
砲雷長、ドルトレイ・アルギスの呻くような声が、静まり返った閉鎖領域内で、やけに鮮明に響き渡った。
事態は明らかに好転した。荒木によって行われていた電子攻撃すらも、軌道上に到達した、防衛艦隊所属の電子戦艦の保護エリアに入った為に、嘘のように消えている。
にも拘わらず、オペレーターの全てが動揺を顔に浮かべていた。副長ザイールに至っては、細い指先を顎にあて、半ば睨むようにウィンドウを見つめている。
「失われた衛星群の代り…… では、ないだろうな」
言いながら静かに瞳を閉じたザイール。それ以上言葉を発しない彼女が思案中であることは眉間に刻まれた深い皺が物語っていた。
得体の知れない強い不安を感じる。それがザイールを初めとした経験豊富な人員達との『思考リンク』を持ってしても拭い去れない。
それは異常な感覚だった。響生の事を除けば、『思考リンク』を発動している限り、自身がここまでの不安を感じる事は滅多にないのだ。
本来なら自分には艦長席に座る経験も最低限知っていなければならない知識すらも無い。
それでも此処に座り、それなりの指揮が取れるのは、この船のシステムの特殊性と『葛城 愛』としての能力が有るが故でしかなかった。
それは経験豊富なクルー達との『一方的な精神リンク』によって、他者の記憶を自身の経験の様に扱う事で、可能になっていた。
だが今回は、だからこそ大きな不安を感じるのだ。
自軍が異様な動きをしている。
その異常さは、閉鎖領域のオペレーターだけではなく、副長ザイールすらも動揺させていた。
脳内に直接伝わってくる彼等の動揺がより自分を不安にさせる。
唐突に閉鎖領域内に響き渡ったアラートと共に、空間に展開された一際大きなウィンドウ。
そこに、表示された上位命令は、閉鎖領域内の空気を一変させた。
各々が抱えていた漠然とした不安が弾けるように、どよめきが広がって行く。
「これって……」
自分でも驚く程の掠れた声は、途中で途切れてしまった。
「事実上の撤退命令…… ですね」
分かりきったその続きを口にしたザイール。その声は、僅かに強張っている。
砲雷長、ドルトレイ・アルギスが立ち上がった。それによって、ざわついていた閉鎖領域に静寂が戻る。
「これは、いったい……」
「見ての通りだ。我々の任務は終わった。後は元老院直轄の指揮のもとラグランジュ防衛艦隊が後を引き継ぐ」
そこで言葉を区切り、大きく溜め息をついたザイール。その声はいつになく、苛立たし気に聞こえる。
「――頼むから、『上は何を考えている?』などとは訊かないで欲しい。私とて、お前達と同じ情報しか持ち合わせていないのだからな」
普段の彼女らしからない言動に、砲雷長が顔を顰め、口を開いた。
「この規模の艦隊…… まさかとは、思いますが――」
ザイールは細い指を顎に当て考え込むように、瞳を閉じる。
「あり得ない」
暫く後、そう言い切ったザイール。
それに砲雷長が胸を撫でおろす刹那、再びザイールが口を開いた。
「――普通に考えれば…… な。倫理的にもそんな事は絶対に許されない。何より、元老院は荒木を生きたまま捕らえたがっている。
だが、エクスガーデンの状況がどうなっているのか把握できない現状、最悪は想定するべきであろうな。少なくとも上は『それ』を容易く可能にする兵力を軌道上に集結させた。この異様な動きの速さ…… これは想定されていた展開だったのだろうな」
「なっ!? なら我々は――」
瞬間的に声を荒らげた砲雷長だったが、その言葉は最後まで言い切ることなく飲み込まれてしまう。
――荒木を確実に誘き寄せるため餌として使われた……?――
ザイールの表情は僅かに歪んでいた。だがその僅かな表情変化の中に、強い感情を感じる。
その瞳は意にし得ぬ憤怒を宿し、歪んだ口元からは噛み締められた奥歯がギリギリと音を立てる様が伝わって来そうですらあった。
「……エクスガーデンに潜入した彼等はどうなるのです!?」
砲雷長の言葉に、胸を締め付けられるような、苦しさを伴った不安に襲われる。
――響生……――
ザイールはそれには答えなかった。静かに瞳を閉じると、そのまま黙り込んでしまう。異様なほど重い静寂が閉鎖領域を支配した。
やがて、静かに瞳を開けたザイールが、再び口を開く。
「顔色が優れませんね、艦長……」
「……え?」
唐突に発せられたその言葉の意味が分からずザイールを見つめる。彼女は口元を緩め微笑んでいた。
「大分ご無理が祟っているご様子、少し休まれてはどうですか? 最早、我等に出来ることはありません。ならば、撤退の指揮は私が取ります」
「なっ!?」
砲雷長が目を見開き一歩、歩み出た。ザイールが片手を軽く上げ、それを制し、口を開く。
「ナイトメアは既にエクスガーデンを中心に広がる量子場干渉エリアの中だな?」
その質問に、担当オペレーターが慌ててウィンドウに目を走らせた。
「はい」
「ならば『先の命令』は受け取れていないはずだ。配置したネメシスを帰投させる前に、それらを経由して光学通信で直接状況を伝えねばなるまい」
独り言のように呟いたザイールの言葉に、砲雷長が更に一歩前に出る。
「まさか、ナイトメアを帰投させるのですか!?」
「当然だ。命令には従わねばならない」
「ですが!」
遂に、此方に詰め寄るかの如く歩き出した砲雷長を見つめ、ザイールが口元に不敵な笑みを浮かべる。
「ところで、この場合、姫城中尉に与えた命令、『量子場干渉の発信源の破壊』を含めた任務はどうなるのであろうな?」
唐突なその質問に、砲雷長は足を止めた。
「……それは勿論、帰投命令が最優先になるかと」
「そうであろうな。私は量子場干渉が消えないまま、配置したネメシスを帰投させねばならない。だが、そうなると、ナイトメアとの通信は『それ以降』一切できなくなってしまうな。
そのような状況下でナイトメアの帰投に対し何等かの障害、もしくは対処せねばならない問題が生じた場合、ランナーはどの様に動くのが最善なのだろうな?」
砲雷長が考え込むかのように、顎に手を当てる。その口元は先までの物とは違い、若干緩んだようにも見えた。
「通信が出来なければ、当然ランナーの判断で対処し、帰投を目指すより仕方ないかと」
「そうだな。ランナーの判断に任せるより他ない。
仮にだ、ナイトメアが全波長域ステルスを展開しなければならないような事態に陥った場合、量子場干渉域のナイトメアの行動を把握する術は、上空の艦隊も含めて我々はない。そうだな?」
「はい、その通りです」
そう答えた砲雷長が、全てを悟ったと言わんばかりに踵を返し、自身の担当する席へと戻って行く。
それを見届けたザイールが、再び此方へと視線を移した。その瞳には何かを訴えるかの如く、強い光が宿る。
「艦長、エクスガーデンにはサミア、そして荒木がいるとみて間違いないでしょう。いざとなった時、サミアの力に対抗できるのは艦長だけです。
その上で撤退命令が出た以上、我々、いえディズィールに出来る事とは最早ありません。言っている意味が分かりますね?」
そこで、言葉を区切ったザイールが静かに瞳を閉じた。次の瞬間、
――行きなさい――
声が頭の中に響いた気がした。それは思考伝達とは明らかに違う異質なものだった。感情もしくは感覚に近い何か。だから『言われたような気がする』としか表現出来ない。
だが、確かに伝わった意志。それをザイールが意図して行ったのか、船のシステム、もしくは葛城愛の能力が齎したものなのか分からない。
けど、作戦行動中においてはログが残ってしまう思考伝達とは明らかに違うものだと直感する。
ザイールがゆっくりと瞳を開いた。そして、静かに口を開く。
「――ですから艦長、少し休まれてはいかがですか?」
強い感情の揺らぎが自身の中に溢れてくるのを感じる。それはやがて身体を震わせる程の強い波となって全身を襲った。
「はい」
答えた自分の声は僅かに嗚咽すらも交じっていた様に感じる。
ザイールは頷くと、力強く立ち上がった。
「ナイトメアとの光学回線を開け!」