Chapter 63 飯島
1 飯島
ウィンドウの中で、サミアから放たれた光がまるで空間に絡みつくように広がって行く。さらに空間自体に不鮮明なノイズが走り抜けた。
何が起きようとしているのか分からない。ただ意にし得ぬ恐怖だけが全身を駆け上がる。
荒木の得体の知れない感情を宿した瞳が、ウィンドウ越しに此方へと向けられた。それに、まるで頭の中の全てを舐め取られるような異様な感覚に襲われる。
蝋人形の如く血色のない口元に浮かんだ卑屈な笑み。
「……そういえばヒロ君もそこにいるんだったね。とっくに壊れてもう駄目になってると思ったんだけどね。うん、思ってたんだ。でも、こうしてまた会えたのがうれしいよ。うん、実にうれしい。これはまた君を使うしかないよね? そうだろう? そう思うよね? うん、間違いない。君の頭の中にある光景をまた使わせてもらう事にしよう」
荒木がそう言った瞬間だった。
「がぁっ!!」
短い悲鳴とともにヒロが頭を唐突に抑え、その場に崩れ落ちる。さらに響き渡る断末魔の如き絶叫。
目を見開き身体を捩るその姿は、彼が想像を絶する苦痛の中にいることを否応なくわからせる。
耳と鼻から滴り落ち始めた血。こんな事が長引けば彼の脳に重大な損傷が生じてしまうのは明らかだ。
自分がネメシスの触手によって形作られた隔離空間にいるのも忘れ、
『やめろぉぉぉ!』
と思わず叫ぶ。だが、その罅割れた合成音はあまりに小さく、外には届かない…… はずだった。
聞こえているはずの無いそれに反応するかの様に、口元の卑屈な笑みをより強調した荒木。
「君たちは本当に学習しないね。この僕が、やめろと言われて止める訳がないだろう。何度もこの言葉は言ったはずだけどね。うん、間違いない。
それに僕は君達の念願を叶えて上げようとしているんだよ。彼のイメージを使ってね。彼のイメージはこの実験にはピッタリだ。うん、ぴったりなんだよ。
ほら、そろそろ始まるよ。さぁ、喜びたまえ! 念願の現実世界への魂の帰還だ!」
その瞬間ウィンドウに凄まじいまでのノイズが駆け抜けた。
2 アーシャ
空間に迸るノイズ。空間の属性が変化するような異様な感覚と共に、身体が激しく震える。
視界の隅で何かが動いた気がした。
それが何であるか確かめようと本能的に、そちらを凝視する。そして目にしたあり得ない光景。
それは、黒い雪の如く降り積もったユニット群から突き出た『血だらけの手』だった。それが何かを求めるように動いている。
――まさか…… そんなはず無い!――
そんなはずは無いのだ。飯島は全員の転送が無事に終了したと言っていたのだから。激しい拒否感が全身を支配する。
やがてそれは、地を掻きむしるが如く激しくのたうった。更に突き出るもう一本の腕。何かが降り積もったユニット群の中から這い出ようとしていた。
そして遂に姿を現したそれに、全身の筋肉が萎縮し、再び身体が大きく震える。
それは紛れも無く『サーバーへと転送されたはずの少女』だった。だが、到底生きているとは思えない。
口から黒味を帯びた血の泡を吹き出し、悲痛極まりない呻き声を上げた少女。白く濁った瞳を見開き、必死で何かを訴えるが如きくぐもった声は、やがて絶叫と化した。
まるで縋るが如く身体を這わせ、少女が此方にずり寄って来る。それに本能的な恐怖と共に、胸を抉られるような痛みが襲われた。
「どうやら実験は成功したようだね。でも苦しそうだ。まぁ、既に生命体としての機構が停止し、息すら出来ない身体に意識が戻されたんだ。当然だろうね。うん、間違いない」
明らかに高揚した声でそう言った荒木。
それが意味する悍ましさに、胃が裏返るような感覚に襲われ、大きくむせた。自分の身体が生身であったなら、大量の吐しゃ物をぶちまけていたかもしれない。
だが、その苦痛に思考が正常を取り戻す。
――こんな事、あり得ない!――
あり得るはずが無いのだ。死者の身体が動くはずがない。
そしてこのあり得ない現象が起きる前に空間にノイズが走り抜けた事を思い出す。たどり着く一つの仮説。
――自分達はあの瞬間に荒木が作った仮想世界に引きずり込まれた?――
「惜しいね。けど、違うよ。うん、違うんだよ。『仮想世界の方を此方に召喚した』と言った方が正しいね。つまり今君達の目の前で起きている事は、まぎれもない現実だよ」
まるで此方の思考の全てを知るが如く、荒木の言葉が重ねられた。
――そんな事!?――
「出来る訳ないかね? 本当にそうなのかな? どうなのだろうね? まぁ、いい。どちらにしても君達は、それが真実かどうかを、知ることになる。うん、間違いない。ほら、次々目覚めるよ」
次の瞬間、至る所で、地に伏せていた者達が起き上がる。その全てが、悲痛極まりない呻き声を上げ、悶え苦しんでいるように見えた。
地獄絵図そのものと言って良い光景に、再び強烈な吐き気に襲われる。
「でもこれでは、少ないね。サーバーにいる全ての者に、このショーには参加してもらおう。うん、その方がいい……」
荒木がそう言った次の瞬間。
足元で、地を突き破り何かが飛び出した。それが何であるか分かると同時に、あまりの恐怖に後退る。
それは痩せこけた土気色の手だ。しかも、どう見ても生者の物ではない。至る所で骨が露出し、辛うじて干からびた皮膚が纏わりついているような腕。
まるで地面そのものが沼化したかの如く波紋が伝わり、腕に続く肩が姿を現し、朽ち果てた頭部が現れる。
落ちくぼんだ瞳に既に眼球は無く、頬の皮膚すらも剥がれ落ちていた。見れば至るころで、同様の存在が這い出ようとしていた。
全身を巡る強烈な拒否感。
空間に響き渡る悲痛極まりない呻き声。地に這い出た者達が、その場で身体を捩り苦しみ藻掻く様は、見る者の心を引き裂く。
「こっちも、やはり苦しそうだね。うん、苦しそうだ。滑稽だね。呼吸などする必要もない。もとより生命活動の一切をする必要が無い。なのに何故こんなにも苦しそうなのかね? 興味深い。うん、実に興味深いよ。それにしても、『死霊』と言う言葉に相応しい姿だよね。そう思うだろう? 思うよね? うん、間違いない」
荒木は自身の足元に這い出たそれを、愉快気に観察しながら言う。そして更に、しゃがみ込み、半ば白骨と化した顔を覗き込んだ。
「どうだね? 念願の現実世界は?」
荒木に向かって朽ち果てた手を伸ばし、何かを訴えようとしたそれから、まるで興味を失ったかの如く、視線を外し荒木は立ち上がった。
「どうやら喋ることすらままならないらしい……」
顔に狂気じみた笑みをありありと浮かべ、喉を鳴らした荒木。
「――それにしてもヒロ君の世界観は本当にユニークだね。君達に向けられた憎悪の体現が、まさかこのようなB級ホラー的なイメージとはね。うん、間違いない。でもこのイメージはそれなりに強烈なんだよ。現に彼はこのイメージで幾人ものネメシスランナーを精神崩壊へと至らしめてきたんだよ。そうだよね? うん、そうだったはずだ」
荒木の歪な笑い声に交じって、何処か遠くの方から悲鳴が聞こえた。それも一人や二人の声ではない。それはこの空間にネメシスが現れる前、人々が避難していった通路の方角だった。
――今度は何?――
「僕は言ったはずだよ? サーバーにいる全ての者にこのショーには参加してもらうと。うん、確かに言った。この施設の至る所で、君たちが今見ている光景と同じものが再現されているんだよ。凄いだろ? そう思うよね? うん、思うはずだ。間違いない」
限界に達した激しい拒否感。目の前の光景の全てを否定したいと言う意思が、無意識に怒鳴り声となって口から洩れる。
「こんな事、あり得る訳がなくってよ!」
全身を襲う激しい震え。荒木が呆れたように大げさに溜息を付く。
「やれやれ、僕の言っている事が信じられないかい? ネットワークにアクセスする術の無い先代表や、君が助けた者達の表情を見れば、『彼等』が今の君と『ほぼ同じ』光景を見ていると気づくと思ったのだけどね。うん、間違いない」
「ここが仮想世界なら、私が見ている彼等もまた、真実ではないのではなくて!?」
「なるほど、確かにそう言う考え方もあるか。うん、確かにね。仕方が無い…… 君たちがこれを現実と認識しないままでは、つまらない。うん、つまらないんだ。だからヒントをあげる事にしよう」
荒木が右手をすっと持ち上げ、ネメシスを指さした。
次の瞬間、空間を切り裂いた強烈な赤い閃光。それがネメシスの装甲を貫き、対角側の壁に突き刺さる。
「なっ!?」
――集積光!?――
でも一体どこからなのか。
荒木の頭上で空間が激しく揺らいだ。そこに浮かび上がる闇色の浮遊物体。その一部が集積光を放った余韻を示すが如く、赤熱している。
「馬鹿な…… それは……」
響生が低く掠れた声を上げた。
「気づいたかな? うん、その通りだ。これは君達がナイトメアと呼ぶ機体の、浮遊ユニットを模したものだ。
ああ、そういえばあの時、『彼女』にその機体を使うように誘導したのは君だったよね? うん、そうだった。間違いない。あの時は実に良いデータが取れたからね。感謝してるんだ。うん、してるんだよ。おかげで似たような物が作れた。これは防壁にもなるし実に便利だよ。素晴らしい」
愕然と目を見開いた響生へと、視線を向けた荒木が満足気に喉を鳴らした。
「これについてもっと知りたいかい? 知りたいだろう? いや違う。本題はこれじゃない。うん、これじゃないんだ。話が横道に逸れてしまうのは僕の悪い癖だね。僕が見て欲しいのはこれじゃなくて、あっちだよ」
荒木が視線を再びネメシスへと向けた。
集積光に貫かれた巨体が、血のような赤い流体液を噴水の如く吹き出し、崩れ落ちようとしていた。
その刹那、触手の間から這い出て来たヒロ、その手には鷲掴みにされたサソリの頭部が見えた。
それにほっと胸を撫で下ろす。
「重要なのはあの循環液だよ。もっと早く、あれについて詳しく調べていれば、僕はもっと先にこれにたどり着けた。うん、たどり着けたんだ。
残念ながら僕はあれを唯の冷却液程度にしか考えていなかったからね。けど実際は違った…… 君たちの技術は素晴らしい。うん、本当に素晴らしい。ゾクゾクするほどにね」
荒木の視線の先で、ネメシスから噴き出した流体液が、まるで意思を持ったかのように膨れ上がる。
そこに形成される人型の何か。それが這い出る様は、まるで血の海から亡者が這い出るが如き悍ましいものだ。
「大したことではない。君達はあの流体液の中に、様々な役割を持つ大量のマイクロユニットを仕込んでいるね? まさしく生物の血液の模倣だ。うん、間違いない。僕はそれを使ったんだよ。分かってしまえば大した事はないだろ? うん、大したことではない。それに拡張現実を重ねればこの通りだ。素晴らしい発想だろう? そう思うよね? うん、思うはずだ」
地を這う赤い人型物体が、まるで死体のような朽ちた身体を作り上げていく。同時に上がった悲痛極まりない叫び声。
『コアは…… あるのか……?』
罅割れた合成音が小さなサソリから上がった。その声は歪んではいるが、激しい感情の揺らぎを感じる。
「必要ない。うん、必要ないんだ。マイクロユニットだけでも、あのようにネットワークを組めば、それなりの容量になる。うん、なるんだ。まぁ、極端に不安定だけどね。そんな事も分からないで、あれを使っていたのかね? 君たちは」
『何てことを…… 何てことを!! 彼等を直ぐにサーバーに戻せ!!』
飯島の罅割れた叫び声に荒木は、大げさに溜息を吐く。
「だからこの僕が、こんな面白い実験を止める訳がないだろう。うん、何度も言っている。うん、本当に何度も言っているんだよ。
だからもう、この話はおしまいだ。うん、終わり。ネタ晴らしもしたことだし、仕上げに移ろう。サミア」
その、言葉を受けて姉が閉じていた瞳を、静かに開いた。次の瞬間、姉の放つ光が爆発的に増した。
それが、光の糸の如く『苦しみ悶える者達』に絡みつく。
次の『彼等』の呻き声が止まった。地を這い藻掻いて者たちが、一斉に不気味に身体を揺らしながら立ち上がる。
「さぁ、次のステージに移ろうじゃないか……」
大げさに両手を掲げた荒木の瞳が明らかな狂気を宿して見開かれた。