Chapter 59 飯島
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何が其処までベルイードにさせているのかが分からない。ただ多重に響き渡る声に込められた異様なほどの負の感情が、噎せ返るほどに伝わってくる。
苦痛とは別の理由によって激しく歪んだ父の表情。
――分かってる――
分かってはいるのだ。何か、手を打たねばならない。それも今すぐに。でなければ、ベルイードはこの場にいる全ての人間を殺しかねない。
だが、それは奴の言葉通りに、自分達を守るネメシスを退けたところで同じだろう。
それが分かっているからこそ、猶更何をすれば良いのか分からないのだ。
焦る気持ちに反して、時間だけが刻一刻と過ぎていく。
『何も出来ないか…… 諸君、これが現実だ! どうやら先代表殿は、君達より自分の息子の方が大事らしい。君達が身を内側から食い殺されようとも己の息子一人を救いたいようだ……
どうだね? 諸君。これが君達が付き従った感染者だ。なんの力もない。だから誰も救うことなど出来ない。動きもしない肉体などというものに執着した感染者の末路だ。こんな男に付き従った君達も哀れだな』
ベルイードは口元に下劣極まりない笑みを浮かべそう言うと、宙吊り状態に捉えた人々のうち二人を自身の前へと引きずり出した。うち、一人は明らかに10歳にも満たない少女だ。
二人を強制的に向かい合わせるような姿勢で高々と吊るし上げたベルイード。
『こんな男に付き従った故に君たちは命を落とす。それでもこの男は自分の子に出てくるように言えない。ねぇ、先代表殿。
私としては息子の方が自ら出てきてくれても構わないんだがね。それも無いようだ……』
その言葉と同時に空間に響き渡った断末魔の叫び声。壮絶極まりない絶叫。それは聞く者の心をズタズタに引き裂く。
『目を瞑ってはいけない』
目を固く閉じ顔を背けようとした少女の瞳を、虫型のユニットが強引に抉じ開けた。少女から一メートルも離れていない空間で、吊るし上げられた男が、その体を何倍にも膨らせ、口から大量の血を吐き出し尚、壮絶極まりない悲鳴を上げ続ける。
男の悲鳴は唐突に途絶えた。次の瞬間、破裂するように弾け飛んだ男の肉片交じりの血が、大量に少女に浴びせられた。
赤く染まった少女の顔をベルイードが覗き込む。極度の恐怖から全身の筋肉を限界以上に強張らせた少女の身体が、痙攣したかの如く激しく震える。
『怖かったかね? でも次は君だ』
「いや……」
少女が恐怖に引き攣った顔を一心不乱に横に振った。
『可哀そうに…… なら、君から先代表とその息子にお願いしてみるといい。私の声は彼等に届かなくても、君の言葉なら届くかもしれない』
ベルイードが放った場違いな程の猫撫声が多重に重なり、より不気味さを煽る。
少女の身体が宙吊り状態のまま、強制的に此方に向けられた。
『さぁ、お願いしてごらん。心を込めてね』
「助けて…… お願い」
涙を流し、返り血で真っ赤に染まった顔をクシャクシャに歪め、震えた声を上げた少女。
『もっと大きな声で。ほら』
「死にたくない! お願い助けて! お願い!」
少女から上がった悲痛なまでの叫び声。恐怖に引き攣った口を必死で動かし、あらん限りの力で吐き出された言葉が心を抉る。自分よりも遥かに短い時しか生きていない少女の魂の絶叫。
自身の身体が底知れぬ怒りを伴ったやるせなさで、小刻みに震えるのが分かる。
『先代表もその息子も、君よりは長く生きているはずなんだけどね。それでも、どうやら君を見捨てるようだね。残念だ。だから君は死ぬ……』
「いやぁぁぁぁぁぁ!!」
少女の悲鳴と共に自身の中で何かが弾けた。限界だった。どんなにそれが愚行だと分かっていても、放置できる訳がない。
――響生…… ゴメン……――
響生の依然として意識の宿らない瞳がこちらを見据えていた。それが消し飛びそうになっていた理性を僅かに思い出させる。
自分の愚行は誰も救えないばかりか、大切な仲間すらもきっと死に至らしめるだろう。
――なら、どうしたら良いんだ!?――
目の前の凄惨過ぎる光景と、分かり切った答えの中でヒトとしての感情が悲鳴を上げた。
『うむ、十分待ったと言える時間が経過したね。先代表とその息子を恨みながら、苦痛に沈みたまえ』
少女の身体に纏わりつくユニット群が明らかに動きを変えた。ただでさえ恐怖に歪んだ少女の表情が、更に危機的なものになる。
次の瞬間、響き渡った断末魔の如き悲鳴。
「待て!」
無意識に自身から上がった叫び声。それと同時に、ネメシスに対し実行されてしまった思考イメージ入力。
球状空間を形成しているネメシスの触手が僅かに緩んだ。それを切っ掛けにして自身の中で張りつめていた何が崩壊してしまう。
その精神状態を物理空間に再現するかの如く、球状空間が崩壊を始めた。
『そうだ。それでこそ正しい。君達のような蛆虫は私にただ従っていればいいんだ』
ベルイードの多重に重なり合う奇怪な笑い声が、崩壊寸前のドーム状空間に響き渡る。
「その子を放せ!」
叫んだ声は声帯ユニットの損傷のせいで歪に歪み、ヒトの声とはかけ離れていた。ベルイードは更に声量を増し狂ったように、笑い続ける。
が、それが唐突に途切れた。
『手こずらせやがって…… 全員死にたまえ』
その言葉は、余りに無感情に発せられた。
と、同時にベルイードの黒い身体が弾けるように、大量の虫型ユニットに拡散させ、それが凄まじい勢いで迫って来る。それは絶望そのものだ。
こうなると分かっていたはずだった。ならば、せめて次の手を打っておかねばならないはずだった。それが出来ないほど非力なら、何もするべきではなかったのだ。
目の前では救おうとした少女が、ユニット群に飲まれて行く。
――つくづく俺っちは……――
自分への怒りと悔しさで身体が強張り、外骨格で覆われた関節が激しく軋んだ。
押し寄せた大量のユニット群によって視界の全てが、真っ黒に染まる。
その刹那、逆に視界の全てが目も眩むような光に覆われた。同時に身体が宙に浮かぶような感覚が襲う。
が、それを最後に全ての感覚が唐突に途絶えた。強烈な光の中、身体の一切の自由が効かない。
そして気づく、視界のウィンドウに表示された思考レートの値が、通常では考えられない値を示していることに。
――強制同期!?――
異様な思考レート加速によって生じた外界の時間停止。物理ユニットである光学フィルターの作動が追い付かず、ホワイトアウトしたままの視界。おかげで何が起きているのか一切分からない。
――俺が出たら、直ぐに球場空間を再構築しろ。それが終わり次第、此処に残る全ての人間のデスフラレンス・システムを強制起動するんだ。そのための時間は俺が稼ぐ――
次の瞬間、脳内に響き渡った思考伝達特有の方向性の無い声に、表現しようのない安堵が広がって行く。
が、その言葉が示す事の重大さに気づき、息が詰まるような感覚に襲われた。
――デスフラレンスってそんな事すれば!――
――責任は俺がとる――
――責任って……――
確かにこうなってしまえば、それは自分などには到底思いつかなかった最善の策なのかもしれない。
――けど……
責任など取れる訳がない。それは軍規や法的な意味での責任ではない。それが分からない彼ではないだろう。彼は、『フロンティアで長年世代を重ねてきた生粋の純血者』では、無いのだから。
白色に染まった視界の隅に見えた赤熱した装甲ジャケットの背。
――響生…… 君は更に背負うと言うの?――
無意識にその背に向かってそう問いかけた。
だが、それに対する答えは、
――早くしろ――
と、あまりに短いものだった。