Chapter 58 飯島
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『これはこれは前代表殿……』
ネメシスの外部デバイスを通して閉鎖空間内に、多重に重なった独特の声が響き渡る。
それはこの上なく聞き取り辛いものだったが、それでも声に含まれた侮蔑がありありと分かるものだった。
明らかに動きを変えた大量のユニット群。その一部が一か所に大量に集まり、何かの形を組み上げ始める。
――ベルイード!――
やがて完全に形を整えたそれに、胃が裏返る程の激しい憎悪が湧き上がるのが分かる。通常のヒトの2倍以上の大きさで再現されたベルイードの姿。それを形作る大量の虫型ユニットが蠢く様は、吐き気を催す程に悍ましい。
色のない顔が宙吊り状態の父を一瞥すると、下劣な笑みを浮かべこちらを見下ろした。
『隠れていないで出てきたらどうだね? さもなくばどうなるか…… 分かるだろう?』
その言葉に在りもしない唇を噛み締める。ベルイードが何をしようとしているかはあまりに明白だった。
宙吊りとなり、苦痛に歪む父の顔。だが、その瞳は状況に不釣り合いな強い光を宿し、此方に何かを訴えるように見据えていた。
――ああ、分かってるよ、親父……――
こうなってしまえば父を見捨てなければならない。それが軍に身を置く者なら誰でも知っている人質が取られた場合の鉄則だった。
人質となり得る者が多量に居る状況下、その中で敵が人質が有効だと知れば、次に何が起きるかがあまりに明白なのだ。
ベルイードが最初に人質に取ったのが一般市民ではなく父であったのが幸いだったのかもしれない。
彼は一人しかいない最大の切り札を最初に使ってしまったのだ。普通に考えれば、ベルイードは父を直ぐにどうこう出来ないはずだ。
冷静に考える一方で、収まりきらない感情が小さな身体を小刻みに震わせる。
――響生早く!――
思わずそう願うが、響生は光の無い瞳で前を見据えるのみだ。
ウィンドウに刻まれた時間を確認すると、驚く程にそれが経過していない事実に愕然となった。
心を引き裂かれるような思いの中、ベルイードの言葉を無視し、必要な情報収集を行う。
正直、今の状況をどう打開すれば良いのか、戦闘が本職ではない自分には見当もつかない。
けど、響生が真面な状態で帰って来れば、彼は何かしらの判断を下すだろう。
今の自分に出来るのは、彼が判断するために必要だと思われる情報を集めることだ。そのう上で一番重要となるであろう情報。
それは、目に見えない『最大数の人々』の避難状況、つまりこのスラム街に存在する非正規サーバー内の人々の避難状況だ。
――良かった……――
幸いにしてサーバー内の人々の2次サーバー転送は大方完了していた。問題は2次サーバーの安定性だが、正規サーバーへのネットワークが断たれてしまっている現状、それ以上は望めない。
『聞こえていなかったのかね?』
集中しかけた思考を邪魔するかのように、悍ましい声が更に響き渡った。その声には此方が全くの反応を示さないことへの苛立ちが込められている。
ここで何かを言い、引き延ばしに掛かるべきかを瞬間的に考えるが、小刻みに震える小さな身体は一切の言葉を紡ごうとはしない。
それでも何とか絞り出した声は、到底外に聞こえるはずもない、小さくどもった喘ぎでしかなかった。
ベルイードの下劣な笑みを宿した顔が僅かに表情を変えた。
『どうやら、実際に見ないと分からないらしい……』
吐き気を催すような言葉と同時に、父の腕から一瞬鮮血が迸ると、それが異様に膨れ上がる。食いちぎった皮膚から大量のユニットが体内に侵入しているのだ。
腕の内側でユニットが這い回る様が、膨れ上がった皮膚が波打つ事によって分かる。そのあまりに悍ましい光景に、思わず目を伏せた。唯でさえ限界に近い精神状態が、更に揺さぶられる。
ベルイードの狂ったような笑い声が、多重に響き渡った。
外骨格に覆われた間接が軋むほどに身体を強張らせながら、愚行を行おうとする自分を制するしか出来ない。
恐る恐るウィンドウに再び視線に戻すと、父の腕は破裂寸前にまで膨れ上がり紫色に染まっていた。だが、それでも父の表情は殆ど変わっていない。それどころか蔑むかのような視線がベルイードを見据えていた。
「愚かな…… 拷問のつもりなのか? 生憎私の身体の神経はとうの昔に死んでいると言うのに」
父の声がはっきりと聞こえた。その声は息苦しさのためか、絶え絶えであり、いつも以上にゆっくりしたものだったが、はっきりと聞こえたのだ。
それによって僅かに取り戻した平静。父の身体は遺伝子疾患により神経系が侵され、首から下の感覚が殆ど失われている。その事実が今だけは救いに感じた。
ベルイードの顔から嘲笑が消える。
『また私を愚弄するかぁぁぁ!!!?』
多重に反響する声が魔獣の叫びを思わせるほどにけたたましく響き渡り、次の瞬間、父の腕が破裂するかのように弾け飛んだ。その内側から血飛沫とともに大量の黒いユニットが姿を現す。それでも父は表情を変えない。
痛みが無かったとしても自らの片腕が弾け飛んだのだ。そこに何も感じない筈がない。父の毅然とした態度に込み上げる強い感情。
腕を失い内部組織のむき出しとなった肩に、さらに大量のユニットが群がり、父の肩が膨れ上がる。だが、それでも表情を変えない父。
それに対してベルイードの表情はさらに激昂したものになった。
首の付け根の皮膚までも、ユニットに侵入され歪に膨らみ始める父の身体。
が、それはそこで止まった。
ベルイードの顔に再び下劣な嘲笑が浮かぶ。
『おっと…… ここで貴方を殺してしまってはもったない。私としたことが感情に任せて貴方を先に殺してしまうところだった』
不気味な響きを持った声が多重に反響する中、瓦礫の中さらに幾人かの人々が吊るしあげられる。その中には年齢幾何もない子供すらも含まれていた。
――最悪だ……――
考えられる限り最悪の展開が始まったのだ。
『さて、貴方は耐えられても彼等は耐えられるかな?』
ベルイードの口元に浮かぶ笑みが更に強いものになった。
「やめろ……」
ここに来て、初めて父の表情が強張った。
次の瞬間、響き渡った断末魔の如き叫び。その、尋常ではない絶叫に心臓を鷲掴みにされたかのような感覚が襲う。
全身を歪に膨らませ、内臓間をも食い荒らされ、口からは血の泡を吹き出し悶える人々。その見開かれた瞳を食い破り、黒いユニットが這い出てくる。
あまりの光景に、ありもしない胃が裏返り、大量の吐しゃ物が喉を駆け上がるかの如き感覚に襲われた。
再び狂ったような笑い声をあげたベルイード。
壮絶な死を遂げた人々の躯を、まるでゴミの様にその場に落とし、さらに瓦礫の上を逃げまどっていた人々を捕獲し、吊るしあげる。
『さぁ、次だ……』
常軌を逸した感情を宿した悍ましい声が響き渡った。
「やめろと言っている!」
父が嘗てな無いほどの大声を上げる。言葉を発することすら困難な身体から発せられた声が、悲痛な感情を宿して空間を走り抜けた。
『いい表情だよ、前代表殿。私が見たかったのは貴方のそういう表情だ……』
父の身体が強引にベルイードへと引き寄せられる。
『私は長年、疑問に思っていたんだ。何故、貴方の様な感染者がこのエリアの代表だったのかと。しかも失脚して尚、何故私のエリアで巣くっている? 何故、尚も貴方の様な者を支持する人間がこのエリアにいるんだ! しかもそれは消そうとすればするほどに増え続けた!! 何故だ!?』
父はそれに答えなかった。引き攣ったベルイードの口元が唐突に緩み、再び笑みが宿る。
『だが、もはやそんな事はどうでも良い。貴方が守ろうとしたこの薄汚いエリアも、貴方に付き従うウジ虫どもも、ここで一掃してくれる!
それをやめろと言うなら、お前の忌々しい息子に、そこから出てくるように伝えろ! そのうえで、地べたに這いつくばり、泣き叫び懇願しろ!』
ベルイードの悍ましい声が、捻じれた感情と共に多重に響き渡る。空間に取り残された人々が捕まり、さらに宙吊りにされた。
父の身体が無造作に放られ、ネメシスによって作られた隔離空間の脇に、ドサリと落ちる。
首から下の自由が利かない父は上半身を起こすことすら出来ない。だが、それでも首が僅かに動き、此方を見つめていた。父の口が僅かに動いた気がする。
だが、その声は意味をなさない程に掠れ、あまりに小さい。父の瞳からその意思を必死に読み取ろうとするが、分からない。
『さぁ、どうした? 前代表殿……』
ベルイードの声は、一種の歓喜を伴った高揚を帯び、此方を震え上がらせるには十分すぎるものだった。