Chapter 54 ザイール ディズィール 特別閉鎖領域
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黄金色に輝いていた光の筋はいつしか消え去り、辺りは完全に夜の闇に包まれていた。人工の灯を失った地上とは対照的に、天上には無限の広がりを見せる星々の世界が広がる。そこに本土『月詠』の姿がない事に意にし得ぬ不安を感じずにはいられない。
閉鎖領域内を浮かび上がるウィンドウ群は、いつにも増して多い。突如として始まった情報攻撃に対し、電子戦部隊を総動員した対処は未だに続いている。
相手が本気を出していない事が明白な中で、月読との通信可能時間が迫る。そこまでは何としても耐えきらなければならない。
些細な情報も見逃すまいとして、無意識に細めた瞳。その先に唐突に新たなウィンドウが開いた。自身の視界のみに表示されたプライベート・ウィンドウである。
そこに表示された『暁』の名。このような状況にあって、普段の自分であれば彼からの思考伝達要求に応じるなど決してなかっただろう。
だが、今回ばかりは違った。この回線は特別閉鎖領域内の、極めて重要なエリアからの通信なのだ。そこは唯一この船で、心臓とも言える制御機構にアクセスできるエリアなのだから。
――おお、やけにすんなり出たじゃねぇか?――
要求に応じた瞬間、頭の中に響き渡った緊張感の無い声に、思わず片眉を上げる。
――貴方には重要なお願いをしておりますので。こうして連絡をしてきた以上、解析が済んだのでしょうね?――
あろうことか船を荒木によって掌握されかけた。それによって仮想世界を含めた船の制御機構に重大な改変が加えられていないか。
既に行われた検証において99パーセントを超える領域で意外にも大きな問題は見つかっていない。そして見つかった改変もすでに修正済みである。
だが、残りの1パーセントの部分についてそれを検証できる人物はこの船において『彼』以外にいなかった。
それはフロンティアの世界法則を司るプログラム、『多重理論分枝型 生体思考維持システム』の主鎖プログラムだ。
絶対秘匿とされる『それ』にアクセス権を持ち、その構造を知る人間はフロンティア全土に僅か数名しかいない。そこには思考伝達を含む人の精神同士の接続プログラムも含まれている。
――ああ、まだ全部じゃねぇが、恐らく汚染はねぇ。だが、他の部分でちょいと気になる所があった。まぁこの船が普通じゃねぇのは分かってはいたが…… で、アイの様子はどうだ?――
最初に比べ明らかに脳内に響き渡る暁の声のトーンが落ちた。
――全回とは程遠い状態と言って良いでしょうね。彼女は大したものです。それでもディズィールとのリンクも通常深度は維持していますし、戦闘は十分に可能です――
極めて当然の事を言ったつもりだったが、
――馬鹿野郎が! こんな状態で仕掛けるってのか!?――
脳内に響き渡った返答のボリュームは思いの他大きく、それが反響を繰り返したせいで、軽い頭痛に襲われる。不快極まりないその感覚にザイールは思わず顔をしかめ額に手を当てた。
――必要とあれば。ですが、現状は待機です。と、言うより動けません――
――全く無茶しやがって。アイの人格が崩壊したらどうするつもりだったんだ?――
回答に安心したのか、声のトーンを戻した暁。だが、それに返す言葉が見つからない。瞬間的に止まってしまった会話が齎す間が、重たい緊張感を作り出す。
しばらくの後、暁が深いため息を吐いた。
――まぁ、この件ではお前だけを責めるのは、お角違いってもんだろうが……
俺も含めてアイに何かしらの期待を寄せる人間は全て同罪だ。特にこの船が普通じゃねぇって解ってる連中はな――
胸をえぐる様な痛みに瞳を閉じる。
――かの創始者『葛城 智也』の設計したシステムを根底にしたと言われている船です。それを起動出来る者が遂に見つかったのです。期待をするなと言う方が難しいでしょう――
気持ちに反して、思考伝達に乗った自身の声は、驚く程に冷淡だった。長年に渡り染みついた癖が、言葉に乗せる感情を殺す。
――『かの創始者』……か。お前等が『我が師』を神格化するのは無理もねぇ。なにせお前等にとっては300年以上も前の人間だ――
何処か感慨に浸るかの様な声と共に、再び深いため息が吐かれる。
――だが同じ時代を生きた俺にとって師は、尊敬こそしてるが優秀な一科学者にすぎねぇ。それもある意味でお前等が敵視する『荒木』に極めて近い考え方をする人間。それが本来の『葛城 智也』だ。
自らの信念のもと、肉体から魂を抽出する術を編み出し、このフロンティアを作り上げた。さらにこの世に魂すら創造する術をもたらした。すげぇ男だった――
暁の声が更に懐かしさを伴ったものに変わる。普段であれば、このような取り止めの無い話に付き合う事は一切しないのであるが、この日ばかりはそれを黙って聞き流すと決めた。
恐らくは『葛城 愛』との問答によって自身の精神は思いの他、疲弊しているのかもしれない。
暁の言葉は更に続く。
――でもな、当時それがいかに倫理を無視した方向の研究だったかは…… いや、この話をするのは止めよう。本筋からずれてるしな。
何が言いてぇかって言うと、この船は言わば『希望』と言う名のエゴの塊だ。我が師、『葛城 智也』そして『愛』の時代を超えて、今に至る巨大なエゴの塊。俺たちはそれをアイに背負わちまったんだ。それが、今回の解析で良く分かった――
ようやく止まった暁の言葉。だが、聞き流していた事もあって、彼が何を言おうとしているのかが全く分らず失念に似た感情すら覚える。
――話が良く見えてきませんが――
――この船の理論神経接続回路の設計だ。それを見たとき正直、俺は震えが止まらなかった――
もったいぶった暁の言葉に、僅かな苛立ちを感じつつ、次の言葉を待つ。普段なら彼に対して溢れる様に出てくる小言が、今は一切出てこない。
――艦長へと続く情報伝達経路が普通じゃねぇ。各種センサー群の情報、瞬間、瞬間に多重の結果がもたらされる戦略的短期未来予測パターン情報、それだけじゃねぇ、全ての情報が、艦長とクルー経由の2系統存在するんだ――
――それが何だと言うのです? 私は技術者ではありません。もっと端的に説明願いませんか?――
ついに出た現状自分が出来る最大の抗議であったが、暁には届かない。全く悪びれる様子も無く。
――まぁ、聞け――
といなされてしまう。思わず出る溜め息。
――それがCollective Consciousness Systemの起動時に如実に現れる。具体的には普通なら上位階級から下へ向かって一方向へのみ向かう意識伝達が、『艦長に限り』双方向にプログラムされてる。艦長にはディズィールに繋がる全ての人間の意識が流れ込む設計だ。
これは意識融合における到底不可能な理想、初期型の構造に近けぇ。お前ぇも体感したはずだ。ディズィールと同化するような独特な感覚を――
その言葉に鮮明に思い出される感覚。船が持つ情報が五感へと接続され、自身がこの巨大な船と化し、人を遥かに超える力を手にしたかの如き爽快なものだ。
自身も艦長であった事があるからこそ解る。それは超深度接続状態の艦長のみが持ち得る感覚だ。副長である自分が本来持ち得る感覚ではない。
――システムが発動した瞬間、全てのクルーはアイを中核としたディズィールのシステムとして取り込まれるんだ。
それによってこのクラスの戦艦の運用ではどうしても起こるラグがゼロになる。情報を得てからの判断、行動を行うまでに複雑な指揮系統を通らずに処理できるんだからな。
そしてアイは経験豊富なクルーの感情を伴った意識、記憶と共に全ての情報を見ることになる。アイが短期間で異様な成長を見せたのはそのためだろう。
だが、こんな回路にフル神経接続するなんて正気の沙汰じゃねぇ、記憶の混乱程度で収まってるのが不思議なくれぇだ。普通なら一瞬にして自我が崩壊するだろうよ――
ようやく出てきた暁の批判的な真意に、僅かに感情が逆立つ。
――ですが、実際はそうなってはいません。つまりそれが艦長の才能、『葛城 愛』が持つ能力なのでしょう――
それを思考伝達に乗せた瞬間、再び脳内に響き渡る罵声。
――馬鹿野郎! アイは自身を見失うほど記憶の混乱を起こしてるじゃねぇか!?――
その声量の大きさに再び頭痛に襲われる。
――葛城 愛なら確かに出来たのかもしれねぇ。だが、アイはまだ未熟だ。その程度で済んでるのは、システムの中核に倫理を無視した悍ましい物理回路が存在するが故だ――
額に手を強く押し当てたまま無意識に行った思考伝達が、
――悍ましい回路?――
と完全な鸚鵡返しになってしまった事実に、自身で落胆してしまう。
――お前ぇは、アイに降臨した『葛城 愛』と話したって言っていたな? 俺はそれを聞いた時、正直、お前ぇが狂ったのかと思っちまった。だが、これを見た後の今ならそれが真実だと解る。
このディズィールを制御する中核エリア。その不揮発性領域に物理回路として刻まれているのは活動状態の脳神経ネットワークを司るデーター、『葛城 愛』の意識だ。この船は『葛城 愛』の魂を人柱に設計されてるんだ!
道理でアイ以外の人間がシステムを起動できないはずだ。恐らく彼女がアイとディズィールの中継を担ってる――
――なっ!?――
無意識に見開かれた瞳。今まで暁の言葉の大半を聞き流し、重要な部分だけを抜き取ることに努めていた思考が、一気に回り始めるのを感じた。
――その反応。流石のお前ぇも知らなかったって感じだな――
聞かされた事実の衝撃の大きさに、次の言葉が出てこない。
――だからこの船は『葛城 智也』そして『愛』の時代を超えて、今に至る巨大なエゴの塊と言ったんだ。
この船は『葛城 智也』によって実現不可能な理想として創造され、葛城愛が自身を人柱にすることで不可能を可能にした。そして遥かな時を超えて積み上げた技術が、この船を実際に世に生み出した。
皮肉なもんだ、お前等はアイを使って伝説の『女王』を再現しようとした。だがこの船には初めから『女王』は存在したんだ。もっとも彼女が目覚めたタイミングはAmaterasu01から、アイがログとしての彼女の記憶を持ち帰ったころだろうがな――
――なら、陛下はそこまでしていったい何を……――
思考伝達に乗る自身の声は驚く程に掠れていた。
女王『葛城 愛』と行った問答が鮮明に思い出される。彼女は自分の申し出を全て断ったのだ。それだけではない。彼女は自分を『死者』と表現し、一切の干渉を拒んでいるとすら感じられた。
なら、何故そこまでして、彼女は自身を残したのか。彼女はそれをアイの意識を守るためだと言った。そして自分の犯した過ちを繰り返させないためだと言った。
だが、だからこそ在り得ない。この船の存在そのものが、彼女が防ごうとする事態を拡大して再現する機構を持った船なのだから。
なのに何故彼女は、人柱となってまでこの船のシステムを完成させたのか。
――さぁな。それは分からねぇ。ただ、俺は師とその娘『愛』を良く知っている。彼等の人間性から推測は出来る――
――それは、何なのです!?――
思考伝達に乗った自身の声の声量が思いのほか増した。
――恐らく…… 目的なんてねぇ――
帰ってきた言葉に絶句する。その意味の解らなさに考えることすらも放棄したいほどの強い拒否感に襲われた。
――俺が思うに、『彼らはただ、それぞれの理想を託した』んだ、この船にな。故に『希望』と名付けられた――
静かに発せられた暁の声は、ある種の重みを伴い、それが決して的外れな推論ではないことを伝える。
――……つまり、何を成すかは、運用する我等が自分たちで決めろと言う事ですか…… それはまた随分な――
途中で途切れた言葉。
――お前ぇは選択を誤った。先も言ったがそれについては俺も同罪だ。だが、まだ取り返しのつかねぇ事態にはなってねぇ――
暁の声のトーンが更に落ちる。彼が何を思ってるかが分かった気がした。
静かに瞳を閉じる。
――貴方は今のうちにアイに艦長を辞めさせたいのですね?――
――違ぇよ。俺自身の本心としては確かにそうだ。だがアイは自分の意志でそこに座ってんだろう?――
その言葉に自然とアイへと移される視線。今の自分以上に疲弊しているはずの彼女の瞳には、今も尚、年齢に似つかわしくない強い意志が灯る。
――お前ぇは、アイが必要以上に無理しねぇように止めてやれ。人格崩壊なんて事がおきねぇようにな。それはアイの隣に座っているお前にしか出来ねぇ――
暁の言葉に再び胸をえぐる様な痛みが走った。
――ですが私はすでに……――
言いかけた言葉は、被せる様にして伝わった暁の思考伝達に遮られてしまう。
――お前ぇ、ディズィールを降りるつもりでいたんじゃねぇのか?――
その言葉に息をも詰まる感覚に襲われた。
――突然何を!?――
それ以上言葉が出てこない。
――図星だろ。お前ぇとは付き合いが長げぇからな。これでも誰よりもお前ぇの事は理解しているつもりだ――
――またこんなタイミングで戯言ですか……――
思考伝達に乗った言葉が、いつの間にか彼に対する何時もの小言になっている事に気づく。
――戯言なもんか! はっきり言うぞ!? お前は確かにやり方を間違えた。だが、その理想は潰えてねぇ。だったら、そのエゴをこの船に刻んで、次へ確かに繋げ。そして俺等の償いはそれを継ぐ者が壊れてしまわねぇように支える事だ!――
これでもか、と言わんばかりの感情の籠った声が脳内に響き渡る。それに思わず漏れてしまった溜め息。同時に口元に僅かな笑みが浮かんだ。
――全く貴方は随分と暑苦しい事を、恥ずかし気も無く言うのですね?――
――わ、悪いかよ――
その声は、先の熱の籠った言葉が嘘のように、羞恥心に塗れていた。その滑稽さに口元の笑みが更に強くなるのを感じる。
――まぁ、でも確かに響きましたよ。貴方の言葉、しかとこの胸に刻んでおきます。ですが、私は私の考えのもとに行動します。故に今は考える時間が必要です。……それで、よろしいですか?――
――ったく強情な女だ――
吐き捨てられるとも、困ったともつかないトーンで紡がれた言葉。ウィンドウの向こうで髪の無い頭を掻きむしる暁の姿が、自分には容易に想像できる。
僅かながらに救われた気がした。同時に数多の修羅場を潜り抜けて尚、自分は弱いと実感してしまう。
けど、今はそれに浸っている時ではない。目の前の問題に対処しなければならないのだ。意識して目を開き、ウィンドウへと手を伸ばす。そしてあえて何時ものように、
――通信を切って宜しいでしょうか?――
と冷たく言い放つ。
が、それを言った瞬間、
――ちょっと待て!――
と語気を荒らげた暁の声が脳内に響いた。
――まだ、何か?――
――実はな、もう一つ相談してぇ事がある。響生の事だ――
思考伝達に乗る暁の声は、先までとは比べ物にならないほどに低く掠れていた。
――アイの一連の騒動を見ていて気付いた事がる。それは俺がよかれと思って響生に対して行った処置についてだ――
暁の言葉に思い当たるのは一つしかない。フロンティアが犯した最大の過ち。それが齎した『苛烈極まりない歪み』を僅かにでも修復するために彼が行った処置。
――それは二宮軍曹の人格統合処置を指していますね?――
――ああ、そうだ。俺はお前ぇより遥かに重大な過ちを犯したかもしれねぇ。こっちは、もう、取り返しがつかねぇかもしれないのだからな……――
普段の暁からは想像すらも出来ないほどに、重く動揺を含んだ声が脳内に響く。それはこれから話されようとしている事が、自分が想像するよりも遥かに深刻な事態である可能性を示唆していた。