Chapter 52 アイ
1
夕闇に染まる超高空の空に放たれた一筋の光を、アイは静かに見つめた。
――美鈴、サラ、お願い、どうか響生を……――
祈るような思いに答えるが如く、新たに空間に浮かび上がったウィンドウ。そこには漆黒であるはずの装甲を赤熱させ、プラズマ化した大気を纏い飛翔するナイトメアの姿が映し出されていた。
フロンティアの兵器としては異例なほどに細く華奢なデザイン。それは美鈴の容姿をそのままトレースするかの如く女性的な印象を放つ。
浮遊ユニット群が形成する6枚の翼を従えたそれが、神々しいまでの光を纏い飛翔する姿は神話に登場する女神、もしく大天使すらも連想させた。
漆黒の戦闘妖精。ネメシスのランナー達の間でナイトメアがそう呼ばれる理由が、その姿を見ていると良くわかる。
その中で背に付けられたバックパックだけが異様に浮いて見えた。それは本来のナイトメアの装備ではない。ましてナイトメアの性能を拡張するための装備でもない。むしろそれはナイトメアの機動性を大きく制限してしまうだろう。
そこに収められているのはサラの生身の肉体なのだから。
民間人、しかもアクセス者の生身の肉体を搭乗させての異例の出撃。それに伴う大きなリスクを背負って尚、彼女にしか頼めない程に状況は切迫していた。
正規の電子戦要員を割くことが出来ない中で、彼女であれば確かに並みの電子戦要員の数倍の働きをしてくれるだろう。それほどに彼女の持つサイバースキルは優れているのだ。
「惜しい人材です。彼女に『感染者』となる意思さえあれば、我等は相応の報酬をもって彼女を迎え入れる事が出来るのですが。それに今回のような生身の肉体での出撃などというリスクも背負わずに済んだでしょう」
「サラは恐らくそれを望みませんよ」
ザイールの言葉に短く答え、再び視線を遥か遠方へと向ける。そこには既にナイトメアの姿は無かった。
暫くの後、不意に感じた視線。本能的にそちらを向くと、ザイールが静かにこちらを見据えていた。
「どうかしましたか?」
目が合って尚、視線をそらそうとしないザイールにそう問いかけると、彼女は僅かに瞳を細めた。
「思い出しておりました。今と似たような状況で、艦長が私に船を預け飛び出して行ってしまった日のことを」
「そんな事もありましたね」
静かに瞳を閉じる。すると途端に本調子でない体調を反映してか、空間全体が揺れているような不快な感覚に襲われた。
「本当は、今もそうしたいのではないのですか?」
心に広がった不安を、ピンポイントで突かれるような鋭い言葉に、意識してザイールの瞳を見返す。
「そのような思いはもちろんあります。ですが私はここにいてこそ、彼等を守ることが出来ますから。此処を離れた私はあまりに非力です」
そう自分で言ってしまってから、胸を抉るような感情に襲われる。
自分には美鈴のようにナイトメアを駆る事も出来なければ、響生のような戦闘スキルもない。サラのようなサイバースキルも持ち合わせていない。自分が彼のそばで行えることは何一つないのだ。
――けど……――
脳裏に浮かんだ響生の姿。張り裂けそうな感情が胸を突き上げる。
――響生を、いえ、全員を必ずディズィールに連れ戻してみせる――
そのために、自分はここに座っているのだ。
「貴方は、この短期間で本当に立派になられた。私がここを去る日は近いかもしれません」
視線を前に戻し、静かに放たれたザイールの言葉に感じた強烈な違和感。そこに重要な何かが隠されている気がして、思わず会話を思考伝達に切り替える。
――そんな事を言わないでください。私には貴方が必要です――
――私に、その決定権はありません――
頭の中に返って来た声は、ある種の感情を強引に抑え込んだかの如く、不自然に無機質なものだ。
――……命令が下ったのですか?――
ザイールが静かに瞳を閉じる。
――いえ、ですが遠くないうちに、そうなるでしょう――
まるで確定した未来を告げるかのように、その言葉は重みを帯び、覆すことが不可能に思えた。
何故、このタイミングでザイールがこんな事を言い出したのか。それに対する心当たりは一つしかない。
――それは、オリジナル『葛城 愛』が貴方の申し出を断った事に関係がありますね?――
返ってこない返事。ザイールは再び開いた瞳を細め前方を見つめ続けている。そこに宿る感情が何なのか分からない。
止まってしまった会話。それに絶望的なまでに強い不安を感じてしまう。彼女の中から自分に対する興味が無くなってしまったのでは無いか。とすら感じた。
――私ではダメですか? 『女王の器としての私』では無く、『私』では駄目なのですか?――
思わず出た言葉。ザイールが驚いたように目を見開きこちらを見つめた。
――艦長……――
――私は、葛城愛にはなれません。なろうとも思いません。ですが、私には私のしたいことがあります。そのために貴方は必要です――
それは、偽りのない本心だった。どんなにネットワークに繋がる他者の記憶を垣間見、それを自身の経験のように使用して、それらしく振舞おうとも、ザイールと自分では圧倒的にその力量に差があるのだ。
彼女のフォローがあってこそ、自分はまがいなりとも此処に座っていられる。
――……艦長は私が怖くは無いのですか? 貴方は私の、いえ、我等の望みを知ったはずです。そして我らがそのために貴方に何をしたのかも――
頭に響き渡るその声は僅かに震えていた。
――前にも言いましたが、私はこの船と超深度接続を果たした時、全てを知りました。貴方達が私に何を求めているのかも、薄々気づいてはいたのです。
けど、これはそれでも尚、私自身が求めた力です。全ては自身の理想を叶えるために。そしてこの命に代えてでも守りたい『もの』のために。私は私の意思で父の思いも、オリジナル『葛城 愛』の思いも継ぎました――
そう、どうしてもそれが必要だったのだ。
いずれ響生に迫られる決断。それがどのようなものであったとしても、彼がこれ以上何も失わなくて済む世界を実現したい。そして自分は『その先』も一番自然な形で彼の隣に居たい。
――それを叶えるためになら私は何にでも縋ります。例えそれがこの命を削る結果になったとしてもです――
確固たる意志をもって紡がれた言葉が、思考伝達を伝わる。ザイールの瞳が静かにこちらを見つめていた。
2 響生 数分前
「これで、ベルイードっちも今度こそ終わりだね」
目の前でベルイードの部下であった男が自らの意思で語った全てを、飯島が本サーバーを含めた多チャンネルでばらまいたのだ。
それが凄まじい速度でサーバー内を駆け巡り拡散されていく様を、ウィンドウ上から読み取った飯島は、誇らし気にハサミを突き上げて見せる。
「何を終わったみたいに。振り出しに戻っただけだ」
と溜息交じりに言ったものの、心に安堵が広がっていくのを感じる。
辺りでは避難を中断した人々による負傷者の救助が始まっていた。ウィンドウを見つめ歓声を上げる者もいるせいか、瓦礫だらけの空間を人々の活気ともとれる騒めきが支配していた。
「嫌な事言うよね、響生っちは。なんでそれでモテるのさ?」
不満そうにハサミを振り回し始めた小さなサソリを摘みあげ、目線の高さまで持ち上げる。
「あのなぁ、俺等には未だに帰還の術がないし、しかも此処にはあの荒木が潜んでる可能性がある」
自分で『荒木』の名前を出してしまって、全身の筋肉が強張るのを感じた。
「う、確かに…… けど、荒木の捕獲は俺っち達の任務じゃない。そっちはディズィールに任せて、俺っち達は『捕獲対象』を連れて早くここを離れるべきだ」
確かにそれも一理ある。荒木が行動を起こしていない現状、下手に彼を見つけ出し刺激しては、更なる悲劇をエクスガーデンにもたらす恐れがある。やつが何を考えているのか分からない。しかもこの状況で奴を引きずり出し相手にすることが得策とは思えなかった。
「私との約束も覚えていて?」
唐突に飯島との会話に割り込んだアーシャ。その瞳が睨みつけるようにこちらを見つめている。
「あ、ああ……」
彼女の質問に曖昧に答えた声はやけに掠れていた。
彼女の依頼は『彼女の姉の意思が宿る複製』を葬る事だ。
アーシャから得た情報が正しければ、彼女は嘗て『葛城 愛』が有していた『絶対支配』という名の能力を手にしたことになる。
それは彼女自身が持つ『この世界へと向けた憎悪』が体現することによって、取り返しのつかない事態を招く可能性を示唆していた。しかも現状の彼女は荒木の強力過ぎる駒と言っても過言では無い。
だが、それが分かっていて尚、アーシャの望みを叶えること事が、本当に最善なのかが分からない。彼女は本当にそれを望んでいるのだろうか。
次の行動をどうするべきか。それを自問し急速にめぐり始める思考。
視線をアーシャから逸らそうとした瞬間、彼女の両手が伸びてき強引に顔が固定された。
「聞きなさい。貴方が本当にそれを成したなら、足は私が用意してあげるわ」
その予想外の提案に瞬間的に止まってしまう思考。アーシャは呆れたように溜息を吐いた。
「あのねぇ、まさか私が中立エリア巡りを徒歩でやってたと思って?」
――なるほど、確かに――
恐らく彼女は小型の船を持っているのだろう。
「君の提案はありがたい――」
――けど……――
と後に言葉を続けようとした刹那、空間そのものを襲った突き上げるような振動。一度は崩壊を停止した構造体が、再び瓦礫をばらまき始める。
異変はそれだけに留まらなかった。更に遠方で途方もなく重い何かが落下したような異音が幾重にも聞こえてくる。
「飯島!」
情報を得ようとして思わず上がった叫び声。それに瞬時に反応したサソリが目の前にウィンドウを展開させる。
「隔壁が……」
その声は再現しきれなかった感情の起伏によっていびつに歪み、ノイズにまみれ掠れていた。
飯島が見つめるウィンドウの中で、通路と言う通路が閉ざされて行く。
更に頭の中に響き渡った、脳そのものを破壊するかの如き強烈なノイズ。視界が激しく揺らぎ、次の瞬間全てのコネクトが絶たれてしまった。
――量子場干渉!?――
しかも、その出力が尋常ではない。
目の前ではアーシャが両手で頭を抑え込むかのようにして蹲る。飯島に至ってはまるで昆虫の死骸の如くひっくり返り、悲鳴を上げていた。
パニックを起こし悲鳴を上げる人々の声に交じって、得体の知れない異音が聞こえる。それは大量の虫の羽音にも似た何かだ。
それが迫る方向を凝視した瞬間、反応した戦闘支援システムによって拡大画像が視界に現れる。
そこに映し出されていたのは、まるでどす黒い煙のように蠢く尋常ではない数の何か。その全てが頭部で不気味な赤い光を放っていた。
思い当たるのは、橘と会った時に彼が従えていた昆虫型の微細ユニット。それは施設の自動修復機能を担うユニットと説明された。
だが、今回は明らかに様子が違う。黒煙と化した大群が通過した後の構造体が、まるで食い荒らされたかのようにスカスカになり片っ端から崩れ落ちて行く。
その様に背筋を冷たい何かが駆け上がり、身体を震わせた。
『馬鹿どもが! 逃がすと思ったのか!? 誰一人、此処からは出さん! 誰一人な!』
歪んだ感情に支配された声が、空間に幾重にも重なり響き渡る。
「ベルイード!!」
飯島がひっくり返ったまま、叫び声を上げた。
『貴様等が悪い。何もかも貴様等が悪い。そうだ、貴様等が!』
その声は、黒煙の如く蠢くユニットの一つ一つから発せられているのではないかと思える程に、歪に重なり不協和音の如く神経に突き刺さる。
耳障りな羽音が更に音量を増して行く。そして遂に黒い濁流が雪崩れ込むが如く空間に黒い霧が広がった。