Chapter 42 響生
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肩で荒い息をし、何故か目に大粒の涙までをも浮かべ激昂するアーシャ。
こんないつ出れるかも分からない狭い空間で、敵と二人きりにされてしまっては泣きたいほど不安にもなるのも当然かもしれない。
だが、このままでは話も出来ない。
「まず落ち着いてくれ。こうしている間にも何が起こるか分からない。ネメシスはまだ健在なんだぞ」
何とか出た言葉のストレートっぷりに自分でも頭痛がしてくる。案の定アーシャの表情はより激しさを増した。
「落ち着け!? あんな事をしておいてよくも!」
感情剥き出しの声で叩き付けられた言葉の意味が解らない。
「あんなことって、どんなことだよ?」
思わずそう訊き返した瞬間、彼女の目元が引き攣りピクピクと震えた。精神の限界を示すかのようなその表情変化に、より思考が混乱してくる。
「そ、それを私に言わせる気!? 分かった、そう言う性癖なのね! やっぱり変態だわ!」
激昂を通り越して今にも泣き出しそうになったアーシャの表情に、どう対処して良いのか分からない。
結果、彼女の言い分の一部を理解したふりをして謝ってしまう。
「いや、俺が何かしたなら、謝るよ。だからさ…… 落ち着いてくれって」
アーシャの表情がほんの僅かだが、緩んだ気がした。
「謝って済む事だと思って?」
こちらの表情を探るとも睨むとも取れる瞳に真っすぐ見つめられる。それに何て答えて良いのか分からない。そもそも自分が彼女に何をしたのかが皆目見当がつかないのだ。
黙り込んでいると、アーシャは痺れを切らしたように口を開いた。
「償いなさい。一生かけて!」
その思いもよらない言葉の重さに思わず、
「はい!?」
と聞き返す。
「こうなったからには、認めたくないけど私の今後は貴方に掛かってよ」
僅かに視線をこちらから逸らすようにしてそう言い放ったアーシャ。
それはそうなのだろう。彼女の今後は確かに自分に掛かっている。この空間から抜け出し、彼女をフロンティアに引き渡す。その時に今後の彼女の処遇について多少なりとも自分が干渉する術はあるだろう。
彼女の生い立ちや悲運を考えるなら、それぐらいは元々やるつもりでいた。
もし自分がフロンティアに渡った時、ドグに拾われていなかったのなら、もしアイと一緒に渡ったのではなかったのなら、自分の人生は彼女のようになっていたかもしれないのだ。
「そりゃまぁ、元々そのつもりでいたからな」
アーシャの瞳が目に見えて見開かれた。その表情は何処か混乱しているようにも見える。
「も、元々!? それが最初から狙いだったって言うの!?」
「いや、狙いって言われるとなんか違う気もするけど。なんて言うか君の事については色々事前に書類を通して知っているんだ。生い立ちも殆ど全てな。君は俺に似てるんだよ。だからと言うか…… 俺は君に幸せになってもらいたいんだ。少しでもな。だから悪いようにはしない」
それは、紛れもない自分の本音だった。
「ほ、本気で言ってるの!?」
アーシャの表情が益々強張る。
「こんな事、嘘で言えるか。まぁ、俺に何処まで出来るか分からねぇけど」
精神誠意を込めて、そう言ったつもりだったが、アーシャの表情は何故か此方に対してドン引きするようなものだ。その理由が何故だか分からない。
「……やっぱり変態! いいえそれを通り越してド変態!」
さらに1ランク上がってしまった悪口。
「なんでそうなるんだ? ああそうか、俺を信用できないんだろ? なら、これでどうだ?」
ここで彼女の信用を得ようとするなら、こちらも相応のリスクを背負わなければならないと覚悟する。
一度瞳を閉じてから視界に呼び出したウィンドウの上に手を滑らせる。途端にアーシャの腕を拘束してた帯が、僅かな機械音を残して地に落ちた。
黒い瞳を大きく見開いたアーシャ。
「貴方…… 変態の上にバカなの?」
「どうせ、この状況じゃ逃げられねぇしな。だいたい君、逃げる気ないだろ?」
それを言った瞬間、アーシャの表情が激変する。見開かれていた黒い瞳がスッと細められた。その瞳はある種の覚悟を宿すのと同時に、此方の表情変化の全てを見逃すまいとするかの如く強いものだ。ようやく話が出来る状態に持ち込めたと直感する。
「いつから気付いてたの?」
「地下を移動した辺りから。逃げようと思ったら幾らでもチャンスはあったろ? それ以前に逃げるための情報収集を放棄してるように見えた。どちらかと言うと、目的は俺か? 君は俺をずっと観察してただろ?」
アーシャの瞳が静かに閉じられる。
「どうやら根っからの馬鹿ではないみたいね。おまけに恐ろしく強い。それは噂通り……貴方を選んだのは間違いじゃ無かったみたい。けど、それに頼る代償がこんなに大きいなんて、連行されて殺されるくらいは覚悟してたけど……」
落ち着きを取り戻したアーシャの口から溜息混じりに出た言葉は、後半部分が全くの予想外であり、異様に重く感じた。
「ちょっと大げさじゃねぇか? てか、俺に頼る?」
生じた感想と疑問の両方を、考え無しに口にした瞬間、アーシャの瞳に目に見えて再び感情が燈る。
「勘違いしないで。私が求めたかったのは飽くまで『私の身柄』と『私が持つ情報』を、対価に貴方に協力を仰ぐこと。それ以上の関係を望んだわけじゃ無い。
言っとくけど私は貴方が嫌い! 変態だし、変態だし、変態だし! その上手段を選ばないケダモノ!」
言葉の最後で再び激しい口調で悪口を言われ、思わず漏れた溜息。
「そりゃまぁ、嫌いだってのも分かるし、それでも構わないとも思う。確かに場合によっちゃ手段を選ばないときも無いとは言えないし…… でも、変態ってのは、引っかかると言うか……」
その悪口の一部だけでも訂正しようと出た言葉だったが、アーシャはそれに被せるようにして更に口を開いた。
「その嫌いでも構わないってのが、より変態だって証明してんの! 分かって?」
分かる訳がない。
「そ、そうなのか?」
思わずそう訊き返すとアーシャは諦めたように溜息をついた。
「まぁ、いい。貴方の協力を得る代償が『私の命』よりも『私の人生』だと神がおっしゃるなら、私はそれに従うしかない。だから望みが叶ったなら、その後の私は貴方に従う。どうせ、今までもろくな人生じゃなかった。けど、覚えておいて! 私の心は貴方にないと」
もはや意味が分からない。
「だから、嫌いで構わないって。てか、やけに大げさと言うか宗教じみてんな」
と漏れた途端、彼女の表情が再び激昂するようなものになる。
「知っててそれを利用したんでしょ!? けだもの!」
再び荒々しさを増した彼女の声に、思わず肩を竦めた。
彼女は何か得体の知れない大きな勘違いをしていると感じつつも、それを正そうとするのは厄介極まりない気がした。彼女の怒りの原因を自分が正確に把握してない上に、それが宗教上の理由である可能性が出て来たからだ。
彼女の出身地域と服装を考えれば、地域特有の宗教的文化に行動原理が基づいていてもおかしくはない。だとすれば、それを蔑ろにしてしまえば、何とか話が出来るまでに落ち着きを見せ始めた彼女の精神状態が、振り出し以下になる可能性すらある。
「なんか、色々事情があるみたいで申し訳ないと思うよ。だからこっちが協力できることはもちろんする」
「当然でしょ!」
強い口調でそう言い放ち、顔ごと此方から視線をそしたアーシャ。それに何度目かになる溜息を吐き、話を続ける。
「だから、君もこちらに協力してくれ。取りあえずここから出ないと。で、こっちは何を協力すればいい?」
それを言った瞬間だった。『死霊の鼓動』と呼ばれる独特の駆動音と共に、地を揺さぶるような振動が空間を襲う。
ネメシスが再び動き出したのは言うまでもない。
――クソッ、時間をかけ過ぎた――
「話は後だ! まずは一刻も早く此処から出るぞ! ほんの一瞬でいい、君はこの空間を支えてくれ!」
加速する思考レート。空間を支える柱となっている大剣に手をかける。
が、返って来たのは、
――そんな訳にはいかない――
と言う、思考レートの加速によって高圧縮された短い言葉だった。
――なっ!? 状況が分かってるのか!? 君はあの時、ここのサーバーを身を挺してまで守ろうとしただろ!? このままじゃそれが落とされるのも時間の問題だぞ!――
――分かってる、それでも。今を失えば私は貴方に目的を伝える機会を失うかもしれない――
――言ってる場合か!――
――私は貴方をまだ信用してない――
極限の状況で平行線をたどる会話に強い苛立ちを覚える。
――なら、どうしろって言うんだ!?――
剥き出しの感情が思考伝達に乗った瞬間、アーシャは自らの首の後ろへと手を伸ばした。そこから金色のワイヤーが延ばされる。
――ネットワークの全てを切って、私の領域に有線ダイブなさい。タイムレートの設定は5000倍、話は一瞬にも満たない時間で終わる――
その提案に思わずアーシャを睨み付ける。彼女が支配する領域へのダイブ。例え一瞬だったとしても、それはあまりにリスクがある提案だった。
――信用して欲しければ、まず俺が君を信用しろってことか?――
返って来ない返事。アーシャは状況に場違いな微笑を浮かべ、黒い瞳で真っすぐと此方を見据えていた。
彼女が手にしたワイヤーの先端を、半ば奪い取るようにして掴む。そしてそれを自分の後頭部に突き刺した。
途端に全身を襲う、意識が弾き飛ばされるかの如き衝撃。視界の全てが一瞬にして闇に沈んで行く。
その刹那に見えたアーシャの勝ち誇ったかのような笑みだけが、闇に沈んだ視界にいつまでも残像の如く残った。