Chapter 40 穂乃果 ディズィール 理論エリア プライベート領域
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「凄い……」
テーブルの上に所狭しと並んだ大量のスイーツ。
ただパイを焼こうとしていただけのはずなのに、姉が加わった事によって、デザートビュッフェの会場のような状況と化している。
鼻歌交じりに作業する姉の手際が良すぎるために、それを呆然と見つめる羽目になり、気づけば彼女の指示にあたふたと動き回る自分がいた。
姉が仕上げた艶のあるショコラケーキの表面を覆う装飾は繊細極まりなく、一流のパティシエが作り上げた芸術品のようだ。
しかも全ての作品においてそれと同等かそれ以上の異様な完成度を誇る。
テーブル中心に置かれた自分と姉で焼いたリンゴパイは、普段自分が作るものよりも格段に美味しそうに見えた。
「料理は嫌い」だと言っていた姉。確かに「出来ない」と言った事は一度もない。
けど、まさかこれ程の腕前を有していたとは想像すら出来なかった。
決して家事は嫌いではないこともあって、それは自分の役目だと決め込んでいたけど、姉がこれほどまでに料理上手だったと分かってしまえば、今後は二人でやった方が遥かに効率的だし、何よりも楽しいに違いない。
父や兄も比較的、声を掛ければ手伝ってはくれるのだが仕事が雑過ぎて話にならない。そこに文句を言おうものなら、ウィンドウの操作で何でも片付けてしまおうとする。
全ての物を予め記録しておいた状態に一瞬で戻すことが出来ると言うのは、便利な一方で『何か大切なもの』までも一瞬で、無かった事にされた気がして好きになれない。
例えば『汚れた食器を洗う事』と『使用前の状態に戻す事』では意味が違う気がしてならないのだ。
もっともこれは自己満足に過ぎないし、無用な作業に多大な時間を割くだけの全くもって意味を成さない事なのかもしれない。
ましてそれに他人を付き合わせるとなれば、自分のやっている事は自己満足を通り越して単なる迷惑行為になってしまう。
「そんな事ないよ? 自分の考えを押し付けて良いんだって、ある程度はね。それにその考え方、私は賛成だな。と言うより私も同じ。って言っても私のは沙紀、母の受け売りなんだけどね……」
まるで此方の心を読んだかの如くそう呟き、にこやかに微笑んだ姉。それに感じた混乱。
「……え?」
姉が静かに瞳を閉じる。
「この世界の全ての行動は、単なる快楽行為であって生命活動に一切の影響を及ぼさない。食べる必要すらないし、寝る必要は…… あるか。って言ってもお腹は空くんだけどね。
何が言いたいかと言うと、この世界で『生きる』って何だろう? って思わない? 現実世界の定義に従うなら私達は生命ですらないんだから」
「それは……」
この世界に来て、常に隣り合わせにある疑問。と言うより疑念であり恐怖だ。
姉がまさかこのような話を自分に振ってくるなどとは思いもよらなかった。過去に一度だけ、どうしようもなく辛くなり、この疑問を姉に叩き付けた事があった。
その時の姉は、強い憂いの宿った瞳で自分を見つめるだけで、何も答えてはくれなかったのだ。多分答えられる者などいない。兄や父ですらも。
「遥か昔、科学者達は想像した。仮想世界への完璧なフルダイブ技術の完成によって、ヒトは何も求めなくなるんじゃないかって。望む物全てが叶う世界で、ヒトは全ての望みを失うってね。けど、実際はそんな事にはならなかった。結局ヒトはヒトのまま、常に何かを求め、葛藤し、苦しみ続けてる。何故だか分かる?」
再び開かれた青い瞳が此方を真っすぐに見つめる。
仮想世界では望むもの全てが叶う。確かに一部ではそうかもしれない。この世界に望んで再現出来ないことは殆ど無いのだ。その気になれば空だって飛べるし、雲の上に住む事すら出来る。もちろん大抵の事にはお金がかかるが、目の前で起きる現象の対価としては微々たるものだ。
けど、自分の本当の望みはそれではない。失った家族との再会。失った肉体を出来る事なら取り戻したい。それこそ失った世界そのものを取り戻したい。
それが不可能なら、せめて今の自分にとっての掛け替えの無い家族、兄や姉、父と過ごす時間を増やしたい。けど、それすら叶わない。
「この世界は望む物全てを叶えてはくれないから……」
「そう…… でもね、本当は叶える事が出来る。その気になればね。そしてそれが叶えば、現実世界とフロンティアの争いすらも終結する。
でも『大半』の人がそれに気づいていても、それは望まない。そしてそれは凄く大事な事だし、正しいと思う。それが叶った瞬間、私達の行動の全てが本当の意味で、快楽行為でしかなくなって、意味を持たないものになる。それは『生きる意味の消失』に他ならない」
姉が言っている言葉の意味が解らない。ただ、凄く重要な事を伝えようとしているのはその表情から理解できた。
真剣そのものの姉の表情が、唐突に小悪魔めいた笑みを浮かべたものに変わる。
「つまり、何が言いたいかっていうと、『恋をしなさい』って事。『答え』がみつかるよ。好きな人はいる?」
突然、話が飛躍したのと想像もしなかった質問が浴びせられたことによって、思考が一気にオーバーヒートしてしまう。結果として、
「え、ええ!?」
悲鳴のような声を上げてしまった。
不意に頭を掻き毟る兄の姿が頭に浮かんで、大きく首を振る。それは好きの意味が違う。
「いないの? 年頃なんだから、恋はしたほうがいいよ?」
こちらに顔を近づけて来た姉に、何を答えて良いか分からずに、思わず口から出た言葉。
「なんか…… 今日のお姉ぇちゃん変。明るすぎると言うか。別人みたい」
姉がわざとらしく首を傾げた。
「そうかな? 私はいつだってこんな感じだよ? あ、ひょっとして誤魔化してるでしょ?」
瞼を細め、此方を覗き込むようにして更に顔を近づけた姉に、思わず一歩後ずさりする。
「お、お姉ちゃんこそ、お兄ちゃんとは上手くいってるの?」
しつこい姉に対する制裁のつもりだった。こんな事を訊けば、普段の姉は黙り込んでしまうに違いない。
だが、今日の姉は違った。顔にこれでもかと言うほどの満面の笑みを浮かべると、目の前に手の平を差し出した。
その上に集まり始める光の粒子。それがやがて小さなオブジェクトを形成する。それに思わず目を見開いた。
「指輪!?」
姉の手の平に実体化したそれは、デザインこそシンプルであったが、その質感と輝きは『込められた思い』を象徴するかの如く、ある種の重みを帯びている。
「まさか、お兄ちゃんから!?」
「そう」
「それってまさか……」
「結婚したいって意味だと思うよ? 違うかな……」
「え、えええええ!?」
姉の言葉に思わず大声を出してしまい、その声量に自分で驚いてしまう。それと同時に多量に押し寄せた様々な疑問にどう対処して良いか分からない。
混乱する自分をよそに、姉の手の上で再び光の粒子と化し弾けた指輪。それに強い違和感を覚えた。
「着けないの?」
「今はね。汚したら怒られそうだし」
そう言って自嘲気味な笑みを浮かべた姉。
「お兄ちゃんがそんな事で、怒るかな?」
姉はそれには答えず、顔に浮かべた笑みを強めただけだった。そして視線を自分から外しテーブルに向ける。
「じゃ、食べよっか。メルがそろそろ限界そう」
テーブルに半ばぶら下がる様にして、その上の品々を食い入る様に見つめていたメルを姉が抱き上げた。
「こんなに沢山、食べきれないんじゃ……」
8人掛けのテーブルに隙間なく並べられた大量のスイーツに、思わず出た言葉。
「そう? 私は足らないと思うよ?」
「え…… まさか、それ全部食べる気じゃないよね?」
姉の瞳が僅かに憂いを帯びた気がした。
「まさか、もう直ぐ此処に私を探して何人かの人が転移してくる。これはその人達へのちょっとしたお詫び。それを手伝わしちゃってゴメンね」
そこで言葉を区切った姉の瞳に宿る憂いが強さを増す。顔に浮かべた笑みはことさら悲し気に見えた。
「穂乃果、今日は本当に楽しかった。ありがとう」
姉がそれを言うのとほぼ同時だった。
空間に多量の光の粒子が出現する。それがウッドデッキへと集まり強烈な光を放つ。
光が収まるにつれ、現れたのは数人の軍服姿の人達だった。その先頭に立つ燃えるような赤い髪の女性に見覚えがあった。
副長、ザイール・フォートギス。
「そろそろ、来る頃だとは思っていました」
姉が静かに立ち上がった。
「電子戦部隊を総動員して探しましたよ。けど、そんな事をする必要は無かったのですね。嘗てアマテラス:01に存在した一つのプライベート領域。その全てを移植したこの空間こそが、この艦で最も貴方にとって思い入れが強い領域。貴方が此処に来るのは必然でした……」
やや疲れた笑顔でそう言ったザイールを、姉は表情を変える事無く見つめていた。
その先で、副長ザイールが静かに腰を落とし、恭しく地に片膝を突く。後ろに控える男達が、一斉にそれに続いた。
「艦長…… いえ、陛下、お迎えに上がりました。フロンティア中央立法議会・元老院にて、皆が陛下の御帰還を待っております。荒木によってネットワーク網が破壊された現状、直ぐにお連れする手段が無いのが心苦しいのですが。どうか、ご容赦を……」