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Chapter 39 穂乃果 ディズィール 理論エリア プライベート領域

挿絵(By みてみん)


1



 穏かな風が開け放たれた窓のカーテンを揺らし、部屋の中を駆け抜けて行く。それはリビングの奥に設けられたカウンターキッチンで作業をする穂乃果の意識を、僅かながらに逸らした。


 パイの生地を練る手を止め顔を上げる。窓の外に広がるのは、変わる事の無い春の空。


 ウッドデッキには何処から迷い込んだのか、不思議な色をした鳥がまるで此方を覗き込むようにして首を傾げていた。


 なんの事は無い日常の一時。けど、強い不安を伴った孤独を感じてしまう。


 それはプライベート領域が持つ性質によるものだ。


 半径3キロメートルにわたって再現された北欧の森林地帯。ウッドデッキの向こう側には現実世界ではあり得ない透明度を誇る湖の水面が、晴れ渡った空を写して静かに揺れていた。


 空をゆっくりと流れて行く雲を見ていると、ここが仮想空間である事実を忘れてしまいそうになる。


 けど、その空は何処にも繋がっていない。その事実がどうしようもなく孤独を感じさせる。この空の下には兄や姉はいないのだ。


 無限ループによって外界と隔離された半径3キロメートルの世界。それがこのプライベート領域だ。


 昔、兄と共に領域内を散策した時、その事実を痛感した。マップ上の領域の左隅から見たさらに先の世界、それはマップの右隅のから見た風景と全く同一の物だったのだ。


 現実世界と同様の法則のみに従うなら、この世界から出る術は無い。光すらもこの空間からは出られないのだ。


 隔離された世界に、一人きりの自分。


 自分を除き、家族の全てが軍に所属しているために、休日が安定していない。だから家族全員がそろうのは稀であるし、自分だけがこの世界に取り残されてしまう日もしばしばあった。


 そんな日は否応なく孤独を感じてしまうのだ。


 どうしようもなく耐えられなくなったら、学校の友人と共に一般商業領域に遊びに出るという手があるにはあるのだが、純粋なフロンティア育ちの者と接していると、どうしても至る所で価値観の違いを認識させられ、落ち着くことが出来ない。


 自然と漏れた深い溜息。


 兄は「暫く戻れないかも」と言っていた。父と姉はここ最近帰りが遅い。サラは気まぐれであるし、何よりやはり、家族ではない。


 美玲も良くこの領域に出入りするが、彼女とは、兄が居なければどう接して良いか分からなかった。見ている分には雰囲気と一致しない天然ぶりを発揮することがあって面白いのだが。


 メルは……


 作業する自分の足元に座り込み、デフォルメされた動物のホログラムと声を上げながら戯れる幼女をまじまじと見つめる。


――まだ話し相手にはならないよね――


 視線を手元に戻し、再び溜息が出かけた刹那、不意に服の裾を引っ張られた。


 見れば、メルが大きな緑色の瞳を見開き此方を見つめていた。


「ごめんね。お腹すいたよね?」


 無意識に頭を撫でようとして、自分の手がパイの生地に塗れている事に気付く。一度、作業を完全に止め、手を洗うかどうか迷っているとメルが何もない空間を指さした。


「え?」


 意味が分からず戸惑っていると、メルの指し示す空間に、ウィンドウが浮かび上がる。 其処に映し出された光景に思考の混乱を感じた。


 自分が先ほどまで見つめていたウッドデッキ。いつの間にか、そこに見たことも無い黒髪の少女が立っているのだ。


 咄嗟に肉眼で確認しようと視線をウィンドウからウッドデッキに向ける。


 間違いない。確かにそこに少女が一人で立っている。少女の長い黒髪が、風を受け静かに舞っていた。


 何時の間に転移してきたのだろうか。何故、転移時の強烈な光を伴うエフェクトに気づかなかったのか。


 混乱した頭に更に多量の疑問が湧きあがった為に、身体が動かない。


 そもそも何故、プライベート領域に彼女が承認手続きも無しに転移出来たのか。


 その疑問が生じた瞬間、目の前で起きている事の異常さに気付き、全身の筋肉が一瞬にして強張ってしまう。


 少女が静かに首を動かし、此方に顔を向けた。異常な程に整った容姿。その相貌は生気を全く感じさせない程に白く、唇は血の色を思わせる程に鮮やかに赤い。まるで怪異。


 その気配までをも、『ヒトならざるもの』を感じた気がして、一歩後ずさりしてしまう。


「ネェネェ!」


 メルが突然、大声を上げた。そして一目散に少女を目指して走って行く。


「メル!」


 思わず呼び止めたが、メルは止まらない。


 ついに足元まで辿り着いたメルを少女が抱き上げる。視界に一瞬、ノイズが走った気がした。


「ネェネェ、ただいま!」

「お帰りでしょう? ただいまメル」


――……お姉ちゃん?――


 そこには見慣れた姉の姿があった。思わず目を擦り、再び姉を見つめる。


 複雑な偏光を放つシルバーブルーの長い髪を靡かせ、姉がリビングに入ってくる。


 間違いない。いつもの姉だ。


 なら、今自分が見たのは何だったのか。


 目眩がするほどの強烈な混乱に襲われる。


「ただいま、穂乃果」


 こちらを向き満面の笑みを浮かべてそう言った姉を、ただただ呆然と見つめた。


「どうしたの? 穂乃果」

「なんか、お姉ちゃんの姿が何時もと違ってた気がして……」

「え? そんな事ないでしょう? オブジェクトは変えてないよ?」


 怪訝そうな顔をした姉に、慌てて


「ごめん、多分気のせい」


 と言い、落ち着くために大きく深呼吸をした。そしてまっさきに頭に浮かんだ疑問をそのままぶつける。


「お姉ちゃんがこんなに早く帰ってくるなんて…… お仕事は大丈夫なの?」


 それにやや困ったような笑顔を浮かべた姉。


「逃げ出して来ちゃった。だから私がここに居る事は内緒ね」

「……え?」


 姉の言動に感じた戸惑い。そんな事が、今までに一度でもあっただろうか。


 しかも悪びれる様子もなく舌を出した姉に強い違和感を覚える。


「それにしても懐かしい。昔と何も変わってない。この景色。この家も」


 見慣れてるはずのリビングの中をまるで、懐かしむかの様に見渡した姉。


「懐かしい?」

「うん、私の体感時間じゃ、帰るのはかなり久しぶりなの」


 姉が何を言っているのか分からない。


「どう言うこと?」

「特別閉鎖領域って、通常領域と時間の流れが違うの。特に作戦中は限界ギリギリまで上げる事もあるから。知ってるでしょ?」

「けど……」


 その説明に納得が出来ず、更に質問しようとするのを、遮るかのように姉が大きな声をだした。


「それよりさ、すっごくいい匂いがする! 何を作ってるの?」


 普段の姉からは想像も出来ないくらいの勢いで言われ、思わず顔が引き攣るのを感じる。


「えっと、リンゴパイを焼こうとしてて」

「この香り! そう! 確かにリンゴの香り! 私も手伝っていい!?」


 更に返って来た予想外の反応。青い目を幼い子供の様に見開き、懇願する姉に、戸惑いを感じずにはいられない。


「え? 良いけど…… どうして…… 今まで興味をしめした事なかったのに……」


 そう言ってしまってから、自分が間違いを口にした事に気付いた。姉は料理に興味が無い訳ではない。明確に嫌いなのだ。それをしようとすると『辛い記憶を思い出す』と姉が言っていた事を思い出す。


「今までは今まで。大事なのは何時だってこれから。それに料理は昔から得意だし好き。私は沙紀…… 母の手伝いをするのが好きだったから」

「……」

「ちょっと待っててね、直ぐに着替えてくるから!」


 そう言い残し、自室の方へと足早に向かった姉の後ろ姿を見送る。


 まるで人が変わってしまったかの如く異常に明るく振舞う姉に、強い不安を感じずにはいられない。


 そして、頭に浮かんでしまった有り得ない疑念。


――そんなこと…… あるわけないよね?――


 あり得る訳がない。


 穂乃果は疑念を打ち消すかのように首を大きく横に振ると、キッチンへと向かった。




2




 アイは自室に入ると、まるで部屋自体に興味を持ったかの如く、全体を見渡した。


 全ての構造物が、荒削りの丸太によって組まれた6畳ほどの室内。それは狭いながらも、木材が持つ温かさと柔らかさに包まれている。


 だが、生活感が無く味気ない。置かれている家具と言えば、木目を剥き出しにしたベッドと簡素な机くらいだった。


 着替えから何まで、ウィンドウ操作一つで出来てしまうのだから、クローゼット等は必要ないと言えば必要ないのだが、あえて実体化して並べた方が選びがいがあるし楽しい。


 せめて縫ぐるみの一つや二つおいておくだけでも、部屋のイメージが格段に変わるはずだ。 


「生活感ないな…… こんなだったけ? 私の部屋……」


 と誰にともなく呟く。そして着替えるべくウィンドウを操作しようとした瞬間、目を見開き動作を停止した。


 ウィンドウに触れようとしていた指先が小刻みに震えだす。そして両手で頭を抱えるようにして蹲ってしまった。


 全身を震わせながら始まる荒い呼吸。その顔に光の波紋が浮かび上がる。それが瞬間的に爆発したかの様な光を放ち、唐突に消えた。


 頭に当てられていた手がゆっくりと降ろされ、アイがよろよろと立ち上がる。


 虚ろだった瞳に燈り始める意思。


 空間に新たなウィンドウが音もなく開いた。飾り気のないそのウィンドウに浮かび上がった短いメッセージ。


 それを見たアイが静かに瞳を閉じる。


「分かってる…… 貴方との約束、果たさないとだね。でも、私の役目はもう終わったの。だから次を決めるのは私じゃない…… それで良いよね? ……彰人」


 掠れた小さな声が誰に届くことも無く空間に呑み込まれて行く。閉じられた瞳の縁から零れ落ちた涙。


 再び開かれた瞳には、オブジェクトの年齢に不釣り合いなほどに強い憂いが浮かんでいた。


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