Chapter10 響生 ディジール物理エリア 流入者処置室
1
無機質な部屋の中、流体液の循環ポンプの音と心電音が響き渡る。滅多に稼働することのない5機の特殊カプセルのうち2機が稼働しているのだ。
そのうち一機には小柄な少女の姿。少女が臼青い液体に満たされたカプセルの中で、長い黒髪を揺らしながら眠る姿は儚げで悲しくも美しい。自分の記憶の中の活発だった彼女の面影は今や完全に失われていた。
二度と開かれることは無いであろう彼女の瞳。胸を押しつぶされるが如き痛みが広がる。
「クソッ! 俺のせいだ......」
響生は力なくそう呟くとカプセルに額を打ち付けた。
「なんとか...... 何とかならないか。ドグ」
そして幾度と繰り返している質問をドグに投げ掛ける。
「先にも言ったが厳しい...... 肝臓の一部が焼き切れてやがる」
変わらない答え。唇を噛みしめる。自分への怒りと失望で握りしめた拳が震えた。
「どうすれば助かるか...... 残された手段は一つしかねぇ。それはお前ぇも分かってるだろ」
静かに、そして諭すように言ったドグ。
それは解っている。けど......
「ヒロが、まだ目覚めないんだ。伊織は......いつまでもつ?」
自分から漏れる掠れた声。僅かな希望。
「6時間持てば良いほうだ。だが、あまり遅いと、まともな状態でフロンティアに意識が移せねぇことだってある。脳に損傷が起きた時点でアウトだ。だから早ければ早いほどいい」
「けど」
ヒロに再会したときの記憶がフラッシュバックする。伊織を自分へと託したときのヒロの表情が脳裏に焼き付き離れない。ヒロにとって伊織は間違いなく特別な存在だ。
カプセルに写り込んだ歪な景色の向こう側でドグが頷く。
「分かってる。人の生死感に関わる問題だ。そんな状態で生かされたところで、本人と残された者にとって死より残酷な場合だってある。フロンティアと現実世界が相いれなねぇ理由はそこにあるんだからな」
再び訪れる沈黙。ループする思考。
――何故ヒロは目覚めない?
伊織より軽傷のはずだ。なのに何故目覚めない?
「ヒロを起こすことできないのか?」
僅かに希望を込めて問う。
だが、ドグの表情は険しさを増した。
「それがな」
ドグが言いながらウィンドウを展開する。映し出されたのは人の脳を表した映像。だが、そこには本来存在しないはずの『何か』が写し出されていた。明らかに人工物の形をした『それ』から細いワイヤーが幾重にも伸び脳に絡みついている。
「ニューロデバイス?」
ドグは大きく首を横に振った。
「いや、こいつはもっと別の何かだ。外科手術によって埋め込まれたんだろうよ。思考を外部に伝えるための発信機なのか、もしくは記憶装置なのか。どちらにしろ微弱な電波を発してる。活発に活動してみてるみてぇだ。
問題はそれが脳の活動を阻害してやがる。これじゃいつ目覚めるのかも解らりゃしねぇ。永遠にこのままってこともあり得る。
ある意味じゃ、こいつの方が彼女より重症だ。この状態じゃフロンティアに意識を移すことも出来ねぇ。
摘出しようにも、脳幹近くに埋め込まれてて下手にいじるのは危険だ。埋め込んだ時にだって相当なリスクを侵したはずだぜ?」
ドグが大きくため息をついた。
瞳を閉じる。僅かな葛藤。
「ドグ、このことは上に黙っててくれないか?」
言った瞬間、ドグの眉間に深い皺が刻まれる。
「責任とれねぇような事態になるかもしれねぇぜ? 普通の人間がこんなリスクを侵すような真似はしねぇ。恐らくこいつは......」
「解ってる。けど、ヒロは......」
拳をさらに握りしめる。
「もしもの時はどうするつもりだ?」
振り返りドグの顔を真っ直ぐ見つめ返す。
「その時は俺がこの手で」
「そこまでの覚悟があんだな?」
精一杯の意志を載せて頷く。
ドグはやれやれと言うように大きく首を振った。
「仕方ねぇ、もしものときゃぁ、俺も軍法裁判に一緒に出てやる」
「すまない」
「まぁ、そう言う気がしてたぜ? じゃなきゃもう報告してる」
ドグの醜悪な顔に不敵な笑みが浮かんだ。
その表情に感じた僅かな安堵。
「あ......り――」
出かかった言葉。だが、それを言い切ることができない。唐突に感じた激しい頭痛。まるで頭の中で何かが暴れているかの様だ。たまらず頭を両手で抱え込む。
床に赤い液体がポタポタと落ちた。それが自分の鼻から出た血だと理解する頃には立っていられなくなり片膝をつく。
荒い息、にじみ出る冷や汗。視界が歪み、回り始める。
「おいっ!」
聞こえたドグの声が遠ざかる。次の瞬間、視界が白一色に染まった。
2
景色が再び像を結ぶ。頭が重い。徐々に回復し始める思考。
――ヒロ...... 伊織!
目を見開く。
「何時間たった!?」
「落ち着け! 一時間もたっちゃいない」
飛び起きようとした自分をドグが制した。肩を押さえつけられ、再び強制的に寝かせられる。どうやら自分は空いていたカプセルをベッド代わりに寝かされていたらしい。
険しい顔で自分を見下ろしたドグ。
「今日一日だけで、お前の脳は十パーセント近くもニューロデバイスに侵食されてる。これは異常な速さだ」
ドグの表情の理由を悟る。けどそれは覚悟していたことだ。
「遅かれ早かれ、いずれは全て侵食されるんだろ? 別に俺は構わない」
だが、ドグの表情はさらに真剣なものとなった。
「お前の覚悟を聞いているんじゃねぇ。よく聞け響生。
神経細胞の方がそれに耐えきれてねぇんだ。意識を失ったのはそのせいだ。思考加速レートを上げれば上げるほど、生体脳に後で強制フィードバックされるデータ量が増す。
特に戦闘の後半、ベースクロックの引き上げは千倍に達してる。通常戦闘時のさらに十倍だ! 何でそんな無茶をやらかした!? 脳はデジタルデバイスじゃねえ!
脳は記憶を蓄積するのに物理的なネットワークの組み換えが必要なんだ。荷電流と脳内ホルモンバランスを狂わせて強引に神経細胞を活性化してんだ。とんでもねぇ負荷だ。当然耐えられねぇ細胞は死んでいく。その速度が速すぎて、ニューロデバイスの置き換えが追い付いてねぇ!――」
興奮し語気を荒らげたドグ。いつも以上に早口になった挙句に内容が高等過ぎて理解できない。
響生はドグの言葉を遮るように口を開いた。
「ドグ、悪い。何言ってるのか、よく解らねぇよ」
一瞬の間。ドグが深いため息をつく。
「いいか、今回のような無茶を続ければ、お前の脳は崩壊する。つまり、死霊になるんじゃねぇ。本物のあの世行きだ」
そう言ったドグの表情は嘗て見たことがないほどの憂いが浮かんでいた。