Chapter 31 数分前 ディズィール特別閉鎖領域
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360度、見渡す限りに渡って再現された艦外映像。真っ白な雲海と藍色の空が延々と広がる。眩いばかりの光に照らし出された静寂が支配する空間。
高度が下がった事によって、眼下に近づいた雲海表面が、気流によって刻一刻とその姿を変えて行く様は、見ていると意識ごと飲み込まれそうな感覚に襲われる。
その無限の広がりに比べれば、全長1200メートルを誇るディズィールすらもちっぽけな存在に思えた。
漂流状態という事実がよりその不安を煽るのだ。
空間に所狭しと浮かんだウィンドウの殆どはロック状態にあり、一方的に情報をもたらすのみだ。その情報すらも時折、俄かには信じがたい異常を示すのだから、より不安を感じずにはいられない。
船を超高空に維持するための力場の発生は不安定で、不規則な上昇と下降を繰り返しながら、結果として徐々に高度を下げて来ている。
まるで船が偏西風の流れに乗って微睡んでいるかの様だ。ウィンドウが示す情報を見ていると、何となくそんな気がしてしまう。
船との理論神経接続を維持した状態で、艦長が意識を失ってしまったのだから、自分が感じている事は、そんなには外れていないのかもしれない。
脳裏に蘇る艦長が意識を失う瞬間。いったいあの時何が起きたのか。
艦長の肌の露出部を駆け上がる光は、眩しい程に神々しく、その瞳に宿る意思はヒトを遥かに超える存在を連想させた。
艦長の素性について閉鎖領域に知らぬ者はいない。だからこそ彼女はあの年齢で知識も実績も無いにも関わらず艦長なのだ。
――けど……――
あれはまるで、あの『葛城 愛』が降臨したかの如き容姿だった。
荒木が閉鎖領域を去るのとほぼ同時に意識を失った艦長。不可視の床を転がり、自分の足元へと到達した小さな指輪を、不意に拾い上げてしまった。
――艦長が落としたあの指輪…… 素敵だったな……――
自分が臨時構築空間へと届けた『それ』をふいに思い出し、そんな事を考え始めた矢先だった。
隣のオペレーターが通常より声量の増した声を上げる。
「艦長が目覚められたと、例の民間人より連絡が。ただ様子が少しおかしいようで…… 彼女に任せておいて良かったのでしょうか?」
その問いに副長ザイールが閉じていた瞳をゆっくりと開き、オペレーターを見下ろした。
「私は彼女が適任であったと思うがな。分かった、救護班の者を向かわせろ。それと暁を呼び出せ。ごねたら強制召喚しても構わん」
その会話に無意識に耳を傾けた瞬間、目に見えて自身が担当するウィンドウに変化が訪れる。それに思わず声を上げた。
「コントロールが……」
ロック状態にあったウィンドウが次々に回復していく。
「電子戦部隊はどうやら船と艦長の意識の切り離しに成功したようですね」
さらに別のオペレーターが口を開いた。
「うむ…… だが、果たして全てが上手く行ったのかどうか…… あのような状況たったのだ、多少は強引な処理もしていよう。後遺症が残るような事態になっていなければ良いが」
副長の眉間に深い皺が刻まれる。それを受けて再び殆どのオペレーターが下を向いてしまう。
その雰囲気に耐え切れない、もしくは変えようとするかの如く、隣のオペレーターが妙に明るい声で口を開く。
「まぁ、何はともあれ、これで一安心と言ったところですかね」
「どう分析すればそのような判断が下せるのだ? 我等が本土、月詠と地球の間の回線が根こそぎ絶たれているんだぞ? 奴がこれだけ大掛かりな仕掛けを、先の侵入のためだけに行ったとは思えん。奴があれほどにあっさりディズィールを諦めて出て行ったのも腑に落ちん」
副長に睨み付けられた彼が、「はい」と沈んだ声で答え、項垂れてしまう。彼はいつもそうだ。気の使いどころを間違える。それに思わずクスリと笑ってしまいそうになるのを必死でこらえた。
「出撃させたネメシスの展開位置は?」
不意に自分が担当する項目に対する質問が浴びせられ、跳ね上がる鼓動。それに慌ててウィンドウに目を走らせる。
「すでに定位置に展開出来ています」
ここで、一度言葉を区切り、さらに副長が必要だと思われる情報を自己判断で付け加える。
「――中立エリアNo.382:エクスガーデンを含めたこのエリアの通信は確保できています」
言いながら説明に必要な新たなウィンドウを開く。表示したのは『残存衛星の内、上空を通過する3機の衛星軌道』と『地表に展開したネメシスの位置』、『それによって構築されたネットワーク網』だ。
ウィンドウを目を向けたザイールが頷く。
「月詠との接続は可能か?」
その質問を受けて、ウィンドウに更に情報を重ねる。
「可能です。ですが条件が整うのは6時間後です。通信可能時間およそ3分」
月にある月詠と接続するためには、通信を中継する衛星の配置が、一定条件を満たさなければならない。
それぞれの軌道で周回する衛星全てがその条件を満たす配置になるのは6時間も先になってしまうのだ。静止衛星を始めとした衛星群を失った事で生じた制限はあまりに大きい。
副長が顎に細い指を当て、思案気にウィンドウを見つめる。
「月詠のバックアップが得られないとは言え、これで作戦に必要最低限は維持できる……か……」
ザイールの瞳が静かに閉じられた。
「よろしい。二宮軍曹との回線を開け! 大分時間を費やしてまったな。既に事態が進行していなければ良いが……」
副長の決断に砲雷長ドルトレイ・アルギスが神妙な顔をして立ち上がる。
「これも、罠でしょうね……」
「そうであろうな。他のエリアを経由しない中立エリアNo.382へと続く通信痕跡。奴は明らかに我等を誘っている。
そして残存衛星の位置までも計算して、ディズィールからの脱出ルートを確保していた。恐らく奴にとってはディズィールを掌握できない事など予測済みだったとしか思えん。そして何より恐ろしいのは奴が行ったと思われる転送手段だ。自身のバックアップを用いた更新部分のみの転送など、正気の沙汰ではない」
副長の言葉に、全身に鳥肌が立つのが分かる。
荒木が行った行為はフロンティアの生命観に照らし合わせるなら自殺と何も変わらない。活動しているのは自身ではない『別の個体』と認識せずにはいられないのだ。
「奴がもし、至る所に自身のバックアップを凍結させているとするならば、我等は根本的に奴の捕獲方法を見直さなければならん」
それを受けてアルギスが口を開きかけた瞬間だった。閉鎖領域内に緊急回線コールが鳴り響く。
「『暁』医師です」
オペレーター報告に副長が方眉がピクリと上げた。
「繋ぎなさい」
そう短く答えると、大げさに咳払いをした副長。
「どうかしましたか? 暁。戦闘行動中の閉鎖領域への緊急――」
がその言葉は荒々しく響き渡った太いシャガレ声に遮られてしまう。
「うんな事言ってる場合じゃねぇ! アイが居ねぇんだ!」
その言葉に騒然となる閉鎖領域。
「どういうことです?」
「消えちまったんだ。俺が転移してきたときにはもう粒子エフェクトしか残ってなかった。サラが転移先を追跡しようとしてくれたが、半端ない偽装が施されてやがる。アイに何があった!? まさかお前ぇ!――」
唐突に途切れてしまう暁の罵声。通信を切ったのがザイールである事を示唆する表示だけがウィンドウに取り残されていた。