Chapter9 数秒前 アイ ディジール理論エリア 特別閉鎖領域
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「何故......」
オペレーターの愕然とした声が特別閉鎖領域に響き渡る。どう考えてもフロンティアの物であるはずの問題の義体は、一切の通信に応じないばかりか、上位命令である強制停止ですら受け付けないのだ。そしてわずかな時間の間に交戦状態となる。
その時点でこの閉鎖領域のベースクロックは、義体と同様に一〇〇倍に引き上げられた。
僅かに、何かを考えるように瞳を泳がせたザイール。その視線の先には、響生の身体パラメーターが表示されたウィンドウが浮かぶ。人の全身を模した立体画像は肩の部分が赤く点滅していた。
それが何を意味しているかは、いかに知識の無い自分でも容易に想像がつく。響生は肩を負傷しているのだ。
「何でもいいから、響生を! みんなを助けて!」
アイは思わず叫んだ。
「集積光砲ロック、自動追尾開始。いつでも撃てます!」
振り返り支持を待つオペレーター。
だが副長ザイールは「待て」と短く制した。
その、耳を疑うような言葉に他のオペレーターも振り返る。
「しかし!」
「敵があまりに奇妙すぎる。だから、今は艦の位置が不用意に特定されるような行為は避けたい。それに......」
そこで言葉をとめ、意味あり気な笑みを浮かべたザイールの先で、響生の身体パラメーターに、『Release all restriction』が表示され、点滅する。
「――私はあの義体が本気で戦う姿を見たい」
ザイールの言葉に、オペレーターが絶句する。だが、すぐに別のオペレーターが口を開いた。
「ですが、ヒト型のあの義体は生体部を放棄しようと、ネメシスほどの性能はありません! そして何より彼は実戦経験がありません。しかもあんなフザケタ装備で!」
「普通に考えればその通りね。けど、あの武器は彼自身が、もともと愛用していた武器。
そしてそれと同じ質量と性能を持つ物を、フロンティア技術室はわざわざ現実に作った。それがどういう意味なのか。
もっとも彼にはその記憶はないだろうけど。もし、こっちが手にしている情報が正しいとしたら、とんでもないものが見れるかもしれない」
ザイールが何を言っているのかわからない。
僅かに混乱するオペレーター達が見守る中、ザイールは響生のウィンドウへと手を伸ばした。
「――Release all restriction(全制限解除)を承認。
――Release memory 記憶開放――」
ザイールが言った瞬間。ウィンドウに大量のコードの羅列が凄まじい勢いで流れ始める。
響生の表情が変わった。まるで別人のような、冷たさを宿した鋭い輝きが瞳に宿る。それはやがて憎悪ともとれる感情をむき出しにしたものへ変わり、ネメシスを睨みつけた。
わずかに体制を低くした響生。次の瞬間、開かれた口から呪いを込めるかの如き咆哮があがった。その咆哮の凄まじさに、一部のクルーが肩をビクリと震わせる。
響生が地にクレーターを残し、ネメシス目がけ跳躍する。あまりの速度のために赤熱し始める装甲ジャケット。最初の遭遇での破損で露出した肩の皮膚が一瞬にして失われた。
100倍に加速されたこの空間にあっても信じられない移動速度だ。
が、ネメシスの反応も早い。従えた触手の殆どを一斉に響生に向けた。そしてその先端に赤い光が灯る。集積光が放たれる兆候だ。跳躍してしまっている響生にはそれを避ける術がない。
響生の視界が再現されたウィンドウには、ロックされた事を告げる警告表示が現れる。
「響生!!」
アイは思わず叫んだ。
響生が腰の実弾銃と背の大剣を同時に抜き放つ。大質量の武器を抜き払った反動で響生の身体が大きく動いた。そのすぐ脇を集積光が抜けていく。
「まさか、反動を利用してよけた?」
オペレーターが愕然とした声をあげた。響生の視界を映し出したウィンドウに、大量のロックカーソルが表示されていく。その全てが一瞬にしてネメシスの触手を捉えた。
左手に握られた銃がネメシスへと向けられ、連射される。そのたびに響生の身体は反動で僅かに位置を変え、集積光がかわされていく。同時にネメシスの触手が弾丸を受け次々と弾き飛ばされた。一瞬にして弾丸を打ち尽くした銃からマガジンが射出され、滑り落ちる。
が、それでも一本残った触手の先端から赤い閃光が放たれた。
響生はそれを大剣の腹で受け止める。一瞬にして赤熱し始める大剣。ネメシスが放つ集積光は、そもそも実体のある物質で受け止められるような熱量ではないのだ。
だが、響生は僅かに大剣をスライドさせ、熱量一転集中を避けながら、そのまま突っ込んでいく。大剣に刻まれた筋状の赤熱部が範囲をさらに広げる。それが切っ先までたどり着く刹那、ついに、ネメシスの懐に潜り込んだ。それによって途切れる集積光。
が、今度は数百の触手が響生の身体を貫かんと一斉に迫る。
それを遥かに超える速度で、大きく薙ぎ払われた大剣。刃先から放出された高エネルギー粒子の反応光が残像となって取り残される。
超音速で通過した切っ先が生み出した衝撃波が、可視化するほどの大気密度の差を生み出し、帯状に広がった。
時が止まったかの如く静止したネメシス。一瞬の間。
が、次の瞬間、切断された触手から大量の赤い循環液が、血のごとく吹き出す。
耳障りな歪んだ電子音声が断末魔の如く響き渡った。義体のダメージがその宿主の意識へと痛みとしてフィードバックされたのだ。
流体液の血しぶきを撒き散らしながら触手を振り回すネメシス。その姿はさながら、瀕死の巨大生物を思わせる。
響生が大剣の切っ先をネメシスの胴体へと向ける。響生の視界とリンクされたウィンドウにはネメシスの核がしっかりとロックされていた。
バイザー越しに覗く響生の瞳には、いかなる感情をも排除した冷たい輝きが宿る。
「......まさか。こんな一瞬で」
クルーのうち一人から掠れた声がもれた。
あまりの展開にクルー達のさらに一部が生唾を飲み込む。
「待って、コアの捕獲を」
とザイール。だが、特別閉鎖空間に響きわたったのは
「無理だ。こいつはもう......」
と言う響生の短い答えだった。
大剣が放つ粒子の光が輝きを増す。そしてそのままネメシスの核を貫いた。剣が引き抜かれた瞬間、先ほどとは比べものにならないほどの流体液が飛び散る。
こみ上げる吐き気。返り血にも似た大量の流体液を浴び、響生の瞳は禍々しいまでの光を湛えていた。まるで人としての感情の一切を忘れてしまったかのような瞳に、アイは強い不安を感じてしまう。
――響生......――
アイの隣で、ザイールだけが口元に僅かな笑みを浮かべていた。