Prologue
――何故、こんなにも捻じれてしまったのだろうか......
紅蓮の炎に飲み込まれていく遥かな故郷。青かったはずの空は、今や黒煙が立ち込め、それを照らす炎で不気味に赤く染まる。
繰り返し見る悪夢の始まり。
目の前では幼い穂乃果の胸を鮮やかに死が染め上げて行く。幼き日の自分が、穂乃果の傷口に手を強く押し当て、溢れ出ようとする血を必死で止めようとするが、その手はあまりに小さく無力に見えた。大人の助けが必要なのは明らかだった。
記録された映像の如く一方的に意識へと流れ込む光景。自分の身体すらも意思に反して、あの日に取った行動を繰り返すのみだ。この夢は、決して戻る事の出来ない過去の記憶。
だから、どんなに抗おうとも、この夢の結末は変わらず、『あの日』の無力な自分を悔いることしかできない。
傷口を押さえる指の間から鮮血は溢れる様に広がり続け、穂乃果の顔から赤味が消えていく。
自分にそれを止める術などなかった。死に向かう小さな身体から熱が奪われていくのを、ただ感じる事しかできなかったのだ。
1
始まりは良く晴れた気持ちの良い朝だったと思う。妹の穂乃果は、長い間ほしがっていたワンピースを母にプレゼントされ、いつも以上にはしゃいでいた。
それを着て「どうしても外に出たい」と駄々を捏ねる穂乃果を連れて、自分は家を出た。その瞬間、刺さるように浴びた陽光の眩しさを、何となく覚えている。
けれど、家を出る前に母と何かを話したはずだが、それは覚えてはいない。多分、覚えておく必要もないほど他愛も無い話だったのだろう。それが、母と交わす最後の言葉になろうなどとは思ってもいなかったのだから。
自分の中にあるのは、何時もと同じように柔らかい笑顔を浮かべた母の表情だけだ。
本来なら穂乃果が満足するまで散歩したのち、家に戻るはずだった。普段と変わらない日常が過ぎるはずだったのだ。
だが今、幼き日の自分と穂乃果が帰るべき家は、空から轟音をまき散らしながら飛来した『何か』によって瓦礫と化し、炎を上げている。
家を全壊させた爆風は、自分と穂乃果を吹き飛ばしただけでは足らず、周りの建物のガラスを全て粉々に吹き飛ばした。
全身に突き刺さる細かい瓦礫の破片の痛みに耐えかねて、泣きながら体を起こした自分の目に飛び込んで来たのは、胸から見たこともないような量の血を流し倒れている穂乃果の姿だった。
自分は幼いなりに、自身と穂乃果のどちらがより重症なのかを本能的に悟る。そして彼女に駆け寄り両手で傷口を塞ごうとしたのだ。自分にはそれが正しい行為なのかすら解っていなかった。ただ単純に溢れ出ようとする血を無我夢中で体内に留めようと試みたのだ。
だが、どんなに力を入れてみても、流れ出る血はまるで意志を持ったかのように広がり続ける。
穂乃果の純白だったはずのワンピースは既に半分以上が紅に染まっていた。
「誰か! 誰か助けて!」
自分は叫んだ。それが、あの時の自分に出来る全てだった。けれど、その声は周りに響き渡る騒音や絶叫に掻き消されてしまう。
2
空を飛びまわる戦闘機の爆音、乱射される大口径機銃の音、爆発音、そして人々が『死霊』と呼ぶ『彼等』が動くときに発する独特の音。
黒煙と共に渦を巻き立ち上る炎が街を紅蓮に染め上げ、逃げ惑う人々の叫びが木霊する。もはや誰も幼い少年の声など聴いてはいない。
金属光沢を放つ長い触手を海中生物の様にはためかせ、物理法則を無視して空中を泳ぎまわる死霊。その装甲が空気との摩擦で赤熱し、オレンジ色に輝く様は異様な外観と合わさってことさら不気味な印象を放つ。
航空機が放った追尾ミサイルは、殆ど直角に進行方向を変えた死霊の動きに着いて行けず地上で炸裂した。
対空機銃掃射をまるで弾丸が見えているかの如く、縦横無尽に避けながら発射点を目がけ猛スピードで降下する死霊。その姿が超高層建築群の陰に沈んだ直後、地響きと共に地上から爆炎が上がる。僅かに時間を置いて、土煙を上げながら倒壊していく巨大建築物。その煙を突き破り、再び死霊が凄まじい速度で上空へと戻っていく。
人々の中には逃げるのも忘れ、あまりに一方的な展開を呆然と見上げる者までいた。死霊の姿を人々が実際に見るのは初めてだ。殆どの者は『彼等の兵器』を映像の中でしか見たことが無い。まして、首都圏上空でこのような戦闘行動が行われるなど、予測すらしなかったのだ。
やがて外地から離陸した戦闘機が合流し、飛び回る戦闘機の数が急激に増えていく。それは死霊たちの数を遥かに超えるまでに至った。
――これで戦闘は終わる。
人々の中にはそう予測する者もいた。が、次の瞬間、その安易な予測は消し飛ぶ。
航空機が行きかうさらに上空。空間にノイズが走ったかのような電光が迸り、巨大な『何か』が姿を現していく。街が、地上が、『何か』の影に覆われていく。
巨体のあちらこちらで周期的に光る発光信号。それは『何か』が明らかに人工物であることを示していた。
だが到底、人が生み出した科学の延長線上にあるとは思えない。巨体に幾つも従えた突起物を脈打たせる様は生物的な印象を放つ。あえて例えるなら巨大な深海生物の様だ。
その姿が明らかになるにつれて、響きたる空間を揺るがすような重低音に、逃げ惑っていた人々までもが足を止め、空を見上げた。
その視線の先で、巨大な塊から数億本はあるのではないか、と思われる触手が地上に向け伸ばされ、その先端が僅かに赤い光を帯びた。
次の瞬間、先端が強烈な赤い閃光を放つ。
飛び交っていた戦闘機が一斉に爆散した。
航空機を突き抜け、地上まで到達した光が、至る所で大地を切り裂きながら横切り、一瞬遅れて巨大な火柱が壁状に上がる。
――誰がこんな無謀で勝てる見込みのない戦争を仕掛けたのか。
自分達は何に戦いを挑んだのか。人々は完全に答えを見失った。
後に残された絶望的な恐怖は、理性を消失させるには十分すぎた。人々は我先にと悲鳴を上げ走り出す。
走った方向に何が有るのか。辿り着く先は安全なのか。もはやそんな事を冷静に考えられる者は皆無だった。
3
「穂乃果! 穂乃果っ! 誰か! 穂乃果が!」
自分は必死で叫び続けた。既に穂乃果の顔からは赤みが完全に消え、地面には血だまりが出来始めている。
それでも妹がまだ生きている事を、傷口を抑えた手に伝わる血の脈動が教えてくれた。だが、それが徐々に弱まっているのが分かる。
「嫌だよ...... こんなの嫌だ! 穂乃果! 穂乃果......」
深い絶望が心を満たしていく。
「私が助けを呼ぶ」
唐突に聞こえた声。
そして目の前に妹を覗き込む『自分と同じぐらいの少女』が、光の粒子を纏いながら唐突に出現する。自分は特徴的なシルバーブルーの髪を靡かせるその少女を良く知っていた。
「助けを呼ぶって、アイは僕以外には見えないじゃないか!」
溜まらず叫んだ。アイの姿を見、声を聴くことが出来るのは古いウェアラブル端末を身に着けている自分だけだ。それは父の遺品が置かれた部屋を母に内緒であさっていた時に偶然見つけた物だ。
アイが何なのか自分には解らない。たぶんアイ自身も分かってはいないのだろう。アイの声は誰にも届かず、その姿は誰にも見えないのだ。そんな彼女が助けを呼べるわけがない。
「私が呼ぶのは人じゃない。彼等では今の彼女は助けられない。多分...... だから......」
アイはそこまで言うと瞳を閉じた。
「私が呼ぶのは彼等」
アイは何かを決意するかのように瞳を開くと上空を見上げた。
その視線を追って空を見上げ、言葉を失う。初めて気づいたのだ。上空に巨大な何かが浮んでいることに。
あまりに異質な物体を見たが故に本能的な恐怖が幼い自分を飲み込んだ。そしてそのまま腰が抜けてしまう。身体が震え、息が詰まる。
「息をして! 落ち着いて! 彼等を呼べば穂乃果は助かる。けど、それは響生が想像するのとは別の形。そして貴方は今までの繋がりの多くを裏切る事になる。それでも助けたい?」
アイが何を言っているのか分からない。
――穂乃果が助かる
それでもこの言葉には強く反応した。そして無我夢中で頷く。
「分かった」
アイはそう言って瞳を閉じる。
「来るよ」
アイが言った瞬間だった。
空を泳ぐ死霊のうち一体が唐突に進行方向を変えた。自分達を目指して一直線に降下して来る。
そしてそれは此処から十メーターぐらい離れた地面に激突した。アスファルトが捲れあがるのと同時に、広がった爆風のような突風に思わず顔を庇う。
恐る恐る土煙が立ち上る方向を見る。煙の奥に最初に見えたのは動き回る八つの巨大な赤い光だ。それが死霊の目である事を本能的に悟った。
土煙が風に流されるにつれてその姿が露わになる。再び本能的な恐怖が響生の全身を駆け上がった。大きい。大人五人分の背丈はある。
長い触手を八方向に束ね、それを足として自身が作ったクレーターを這い上がってくる死霊。
再び息が詰まる。腰が抜けていなければ、妹すら放棄して逃げていたかもしれない。
それほど恐怖が全身に張り付く。
「大丈夫。私の言うとおりにして。動かないで」
死霊が遂に目の前に立ち、八つの目全てで自分達を見下ろした。そして触手の一本が此方に向かって伸ばされる。
「ひっ!」
腰が抜けたままの体勢で必死に後ずさりしようとするが、かかとが地を滑るばかりで身体が思うように動かない。
「動かないで!」
その声に何とか反応し、身体を停止。それでも尚激しく震え続ける身体。
死霊から伸ばされた触手の先端からさらに細い糸のような触手が無数に伸びる。そのうちの一本が身に着けるウェアブル端末に触れた。次の瞬間、死霊が甲高い奇怪な音を放つ。それに応えるかの様にアイが同じ質の声を発した。
死霊の瞳が穂乃果の方向へと動く。そして死霊の触手が穂乃果へと伸ばされ、糸のように細い触手が彼女の身体を包み込んだ。
続いて此方へと太い触手が高速でせまり、身体を締め付ける。
「うぅっ」
溜らず悲鳴があがった。
「このまま、連れて行くって。もう大丈夫。きっと穂乃果は助かる。けど、助かっても彼女が幸せかどうか解らない。多分それは響生しだい。
だから約束して、彼女がどうなっても響生は穂乃果の兄でいて」
アイが何を言っているのかやはり分からない。それでも
「当たり前だよ」
そう強く言い切る。生きている事が、死ぬより不幸なはずがない。自分は穂乃果の兄であることは今後も変わりようがない。
その答えを聞いてアイが微笑む。その笑顔に僅かな安堵を感じた。
「そうだね。響生なら大丈夫。だって響生は...... ううん、やっぱりいい」
アイは口をつぐんでしまう。
「アイ...... 君は誰なの?」
震える唇から紡ぎ出された問い。
それにアイがゆっくりと瞳を閉じる。
「昔、一度だけ響生が私をネットワークに繋いでくれたことが有ったよね。その時分かったの。私が何なのか」
再び開かれたアイの瞳が複雑な感情を宿して細められた。その表情はことさら悲し気に見える。
「私は...... 彼等の最初の一人......」
アイが言った瞬間だった。
身体に凄まじいプレッシャーを感じた。死霊が異常な加速で上昇を始めたのだ。その苦痛に抗いすら出来ずに遠のき始める意識。
「今まで、ありがとう。私、嬉しかったよ...... だから......」
聞き取れる言葉が断片的になって行く。
―― よね......?
薄れゆく意識の中で、ことさら不安気なアイの声だけがいつもまでも残った。