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かわいい女

作者: さむらいみ

「お兄さん、一緒にお祝いしてぇ」

 いかにも頭も股も緩そうな語尾の母音がだらしなく伸びる話し方で女が声をかけてきた。

 深夜に近い時間とあって、バー・スタンドって身も蓋も無い名前の立ち飲み屋には、俺と女の他に客は無かった。最近たまに見かける敢えてそういうスタイルを取ってる鼻もちならない雰囲気のカウンター・バーとは違い、スタンドは俺みたいなその日暮らしが安心して入れるただ単に狭いだけの店だ。

 女は常連らしく、盛んにマスターに向かってゲンちゃんゲンちゃんと話しかけていたが、ゲンちゃんは面倒くさそうな素振りを隠そうともせずにあしらっていた。

 仕事にありついた日にはこの店に来るようになってまだ一週間にもならないが、まだ一度もゲンちゃんの声を聞いた事が無い。当然ゲンちゃんって名前も今知ったばかりだ。

 女は「ガチで、半端ない、すごい、いいこと」があって誰かと一緒に祝って欲しいと何度も繰り返していたが、ゲンちゃんの反応の無さに痺れを切らすように、俺に声をかけて来たのだ。

 女を見たのは今日が初めてだった。

 女は、十九歳にも三十三歳にも見えた。

 俺を覗きこんだ顔は、しゃくれ気味の小ぶりの鼻に、少し厚めの唇はだらしなく半開きで、そこから前歯が二本覗いていた。小動物のようと言えば可愛げがあるが、リスというには贔屓目、正直に言ってしまえば、ネズミのような顔を厚化粧で隠している。

 ひらひらしたロリータファッションに金のような銀のような色のツインテールと服装は若かったが、角度や照明の具合で、顔から疲れが滲み出てくるようだった。


「ガチでぇ半端ないすごいいいことがあったのぉ」

「へえ。そうかい。よかったな」

「だからぁ、一緒に乾杯して」

 女はそう言いながら俺の隣まで移動して来ると、焼酎ロックのグラスを掲げた。

 俺もグラスを掲げると、女は中身が零れるほど強く自分のグラスをぶつけた。

「かんぱぁい」

「ああ、乾杯」

 同時に、グラスに半ばまで残っていた酒を飲み干す。

「で、どんないい事があったんだ」

「うへへぇ、聞きたい? 聞きたい?」

 本当はどうでも良かったのだけど、いかにも聞いてくれと言わんばかりの女の笑顔を見て、興味ある振りをしてしまった。

「えっとねえ。どうしよっかなぁ」

 女はくねくねと体を揺らしながら、さらに笑顔を膨らませている。

「なんだよ。教えてくれよ」

「じゃぁ、乾杯してくれたから特別に教えてあげる」

 ふと見ると、いつのまにかゲンちゃんが外した暖簾を手に持って入り口付近で俺たちに何か言いたげに立っていた。

「でも、もう閉店みたいだな」

「ええぇ、もうちょっといいじゃない、ゲンちゃんのケチぃ」

「残念だけど、もう出るよ」

「ねえ、お兄さん、もうちょっといいでしょ。まだ寝ないでしょ。もうちょっとだけでいいから、一緒に飲もぉ」

「飲むってどこでだよ。もうどこも閉店だぜ」

「私いいとこ知ってる。ご馳走するから。ね、だから、行こうよぉ」

 この後別に何があるわけじゃなかった。何より、ご馳走になれる酒を断る理由は何も無かった。俺は腕を引かれるまま、女の後に従った。


 女はスタンドを出ると、三軒隣のコンビニに入った。店に入る前に腕をほどくと、「すぐ戻ってくるから、待っててね。どこにも行かないでね」と俺に念を押した。

 買い物で膨らんだ袋を手に、コンビニから出て来ると、女は再び俺の腕を取った。

「待っててくれてありがと」

 そう言って浮かべた笑顔は、これまでの印象より少し幼く見えた。

 女が俺の手を引いて向かった先は、繁華街の雑居ビルに囲まれたデッドスペースを無理矢理有効利用したような小さな公園だった。公園に遊具は無く、数脚のベンチと萎びた木が数本あるだけだった。

 俺たちはベンチに座ると、女がコンビニの袋から缶チューハイを取りだした。

「それじゃ、改めて乾杯ね」

 梅雨の中休みで今日は雨の気配も無く、外で飲むにはいい日和だった。

 俺たちは缶をぶつけ合うと、少しの間黙って冷えたチューハイを喉に流し込んだ。

「それで?」

 俺が聞くと、女はピンク色のバッグからスマホを取りだした。そして、画面を操作して何かを呼びだすと、それを両手で持って胸の前に押し付けて画面を隠した。

「あのね、私、ヤマノアンズって名前なのね。山と野原の野に、杏は食べる杏。でね、でね、私、女優なのぉ」

 そう言うと、杏は言葉を切って、得意げにうへへと笑う。

「それでぇ。初めて主演した作品が発売なの。今までは何人かで一緒に出たのしか無かったんだけど、今回は私が主演なんだよぉ」

「へえ、すごいな」

「でしょぉ。それで、ジャーン、これですぅ」

 効果音を付けながら、俺にスマホの画面を見せる。

 派手な原色の文字がチカチカと瞬くやけに見にくい画面の中、いつくかのAVのパッケージが表示されている。その中の一つ「凌辱中出し現役モデル」という題名の隣に、山野杏と名前がクレジットされていた。パッケージの写真は、だいぶ修正されてはいたが、確かに目の前の女だった。

 杏の顔を見ると、少しだけ不安そうな表情で、俺の反応を伺っている。

「お、おお。良かったな。主演なんてすごいじゃないか」

 杏の顔で笑顔が弾けた。

「でしょぉ」

 杏は飛び跳ねるように立ち上がると、ベンチに座る俺の前で、くるりと回って、スカートを両手でつまむと、気取ったお辞儀をした。

「杏ちゃんが、夢への階段を一段登ったのでありまぁす」

 そう言って、うへへと笑った。

「そうか。よし、今日は付き合ってやる。飲もうぜ」

 俺が言うと、杏は突然表情を変え、真面目腐った顔になる。

「なんでもするわ、でも唇へのキスはお断り」

 意味が分からず黙っていると、いたずらをした後のような笑顔で杏は俺の隣に座った。

「今のはぁ、私が一番大好きな映画のセリフ。『プリティ・ウーマン』って知ってる? すごい素敵な映画なんだよぉ。私、あの映画観てからずっと女優を目指してるんだぁ」

 映画の題名は知っていたが、観た事は無かった。その映画が大ヒットした頃はまだ俺もかなり若かったはずだが、その頃からその手の映画を観るような趣味は無かった。

「いや、その映画は観てないな」

「そっかぁ。古い映画だもんねぇ。杏ちゃんはこう見えて演技の勉強のために沢山映画観てるんだよ。偉いでしょ」

 あの映画が演技の勉強になるのか、そもそも真似したセリフは日本語吹き替えじゃないのか、なんて疑問は、杏の得意げな顔の前では些細な事に思えた。


 その日以来、スタンドで顔を合すと、俺たちの公園での二次会は恒例となった。

 ある日杏はいつにも増して締りの無い口で、飲んだ酒をダラダラと垂れ流していた。

「えっとねぇ。100人続けてフェラでいかせるって仕事で、最後の方で顎が外れちゃったのぉ。スタッフの人がぁ、嵌めてくれたんだけどぉ、なんかちゃんと嵌ってないみたいなんだぁ。うへへ」

 別の日には、「お尻が痛いからちゃんと座れないのぉ、うへへ」と言いながら、ベンチの縁に腰を乗せるように座って泣き顔のように笑っていた。


 俺みたいに世界の底で生きている人間には、いくつか種類がある。

 底辺である事に慣れ切ってその生活を当たり前に感じている者。

 自分の現状を受け入れつつも、少しでも上へ行こうとあがき続ける者。

 そこからさらに底へと沈んでいる事に気付かないまま泥沼にはまり込んでいる者。

 そして、最後のタイプは、かなりの確率で自分だけは上へと登っている幻想に囚われてしまっている。人生で抱く目標と、寝ている時に無意識の頭に浮かぶ断片が同じ言葉で表わされる理由は、意外とそんなところにあるのかもしれない。

 

 その日、杏は珍しく沈んだ顔をしていつもより早いペースでチューハイの缶を空にしていた。

「なんか嫌な事でもあったのか」

 俺が聞くと、杏は飲みほした缶を置いて、畳んだ足をベンチの上に上げて体に引き寄せると、膝の上に顎を乗せて溜息をついた。

「えっとねぇ。どうしたらいいかわからないの」

「珍しいな。いつでも前向きな杏ちゃんらしくないじゃないか」

「次の仕事ね、ちょっとダメなんだ」

 今よりまだ酷い仕事があるのか、と聞きかけて止めた。

「なんかね、SM物なんだけね、顔を殴られるみたいなんだ。私は女優だから、何でもやる覚悟はちゃんとあるけど、顔だけはダメなの。だって、顔に痣なんて出来たら、チャンスが来た時逃しちゃうもん」

 誰が聞いてもめちゃくちゃな理屈だし、底なしの馬鹿だと思うような話だ。

 だけど、杏はどこまでも本気だった。

「嫌なら断ればいいだろ」

「ううん。それもダメなの。なんか、違約金? みたいなのが発生するんだって。私、それやらないと500万円払わないといけないんだって」

 杏はさらに深く溜息を付いた。

 俺は飲みほしたチューハイの缶を握りつぶし、公園の反対側にあるゴミ箱に向かって投げた。缶は目標まで届かず、乾いた音を立てて地面に落ちて、少し転がるとゴミ箱のだいぶ手前で止まった。

「なあ、杏。お前、本名は何て言うんだ」

 不意の質問に杏は顔を上げて、不思議そうな顔で俺を見る。

「本名って、山野杏が本名だよ」

「お前、本名でやってたのか」

「当たり前だよぉ。私この名前大好きだもん」

「そうか。実家はどこなんだ」

「新潟の田舎。聞いた事無いような名前の町だよ」

「両親は」

「二人とも元気だよ。新潟にいる」

 公園の時計を見ると、まだ10時半だった。

「よし、今から俺の言う通りにしろ。お前はすぐに部屋に戻って、大事なものと数日間の着替えを持って、もう一度ここに来い。30分で出来るか」

「大丈夫だけどぉ、何で、何をするの」

「いいから、黙って言う通りにしろ」

 俺は杏を公園から追いたてるように家に帰らせると、駅まで急いだ。

 数日間の仕事で金には多少の余裕があった。

 駅で駅員に詰め寄りいくつか電話をかけさせ、なんとか準備を終えた。

 公園に戻ると、ピンク色の小型のキャリーケースを持った杏が待っていた。俺は杏の腕を引いて、タクシーを捕まえた。タクシーで一番近いターミナル駅まで行き、長距離バスの乗り場を探した。その間、杏は黙って言われるまま俺に着いて来た。目的の乗り場を探し当て、すでに停車していたバスの前で、杏に向き直った。

「いいか、このバスは新潟駅までの直通バスだ。朝には新潟に着く。お前はこれに乗って、実家に戻れ」

「え、でも、仕事もあるし」

「そんなのは気にするな。一度実家に戻って、少し頭を冷やせ。両親と話して、これからどうするかもう一度よく考えろ」

「どうするかって、私、女優になるって決めてるんだよ」

「うるせえ。それも含めて考えろって言ってんだ。1ヶ月たってもまだ気持ちが変わらないなら、また戻って来い」

 杏は何か言いたげに口を開きかけたが、一度俯くと、思いなおしたように顔を上げた。

「分かった。言う通りにする。あの、お金、どうすればいい」

「気にするな。飲み仲間への餞別だ」

 杏はキャリーケースを持ち上げると、バスに乗りかけ、途中で止まると振り返った。

「こんな格好で帰ったら目立っちゃうかもぉ。それくらい田舎なんだぁ。うへへ」

「元気でな」

 俺が手を挙げると、杏はいつかしたように、ちょっと気取ったお辞儀をした。

「お兄さんも元気でね。色々ありがとうございました」

 俺は杏がバスに乗り込むのを見届け、バスが走り出す前にその場を後にした。


 ターミナル駅の近くの繁華街で、思った以上に簡単にアダルトショップを見つけた。

 店に入ると、所狭しと並べられたAVに埋もれるようにカウンターがあり、金髪の若造が店番をしていた。俺は、店員に山野杏の作品を探させた。

「杏ちゃん、杏ちゃん。似たような名前がたくさんいるからなあ」

 店員がAVの山を引っかき回し、ようやく杏の出演作を探し出した。

「この娘のファンなんだけど、ファンレターとかって事務所に出せばいいのかな」

「ファンレター? どうなんだろうなあ。事務所宛でいいんじゃないスか」

「ところで、その事務所なんだけど、住所わからない?」

「ああ、わかりますよ。ちょっと待ってて」

 若造はAVのパッケージの裏を見て何かを確かめ、カウンターの下からリストのような物を取りだすと、ページを捲った。

「ああ、ここからけっこう近いっスね。隣の駅っスよ」

 店員に住所をメモに書いて貰い、店を出た。

 

 事務所は薄汚い雑居ビルの三階にあった。

 ビルの入り口で部屋番号を確かめ、その部屋の電気が点いている事を確認し、公衆電話を探した。

「はい。タマランチス企画ですが」

 訝しげな声を隠そうともしない口調で男が電話に出た。

「お宅に山野杏って女優がいるでしょ」

「はい。所属しておりますが」

「家族の者なんだけど、話がしたい」

「ああ、ご家族ですか。いいでしょう。今どこですか?」

「近くにいるから。すぐに行く」

「分かりました。お待ちしております」

 AV女優の親が事務所に怒鳴りこむ、なんて話はよくありそうに思えた。実際に似たような対応をした事があったのだろう。男の返答には慣れたような響きがあった。

 

 タマランチス企画と書かれたドアのインターフォンを鳴らすと、スキンヘッドの大男がドアを開け、中に入れてくれた。

 事務所はスチール机が一つと、安っぽいソファーが一セット置かれただけの殺風景なものだった。スチール机にはきっちりとスーツを着たオールバックの男が座っていた。見るからに堅気では無さそうな佇まいだ。

 ソファーには、もう一人派手なアロハシャツを着たチンピラ風の若い男が座っている。

 オールバックが机を挟んで置いてあるパイプ椅子を指示した。

 椅子に座ると、オールバックが煙草を咥えて火を点けた。

「杏ちゃんのお父さん?」

「あ、ああ、保護者みたいなものだ」

「お父さんじゃないんですね」

「まあ、そうだ。父親ではない」

 オールバックの目付きが胡乱なものになる。真意を探る様に、俺の顔をじっと見つめる。

「それで、何の用なんです」

「杏の次の作品、出演をキャンセルしてくれ」

「どういう意味でしょう」

「だから、出演は出来ないって意味だ」

「杏ちゃんはどこにいるんですか」

「もうこの街にはいない。遠い場所に向かうバスの中だ」

 オールバックは煙草を大振りの灰皿でもみ消すと、立ち上がった。

「てめえ、ふざけたこと言ってんじゃねえぞ。勝手な事してんじゃねえ。すぐ杏連れて来い」

 いつの間にかチンピラ二人も立ち上がり、俺の背後を固める気配がする。

「いや、もうあの娘は戻って来ない。次の作品は諦めてくれ」

 オールバックが両手を叩きつけるようにして、俺に向かって身を乗り出す。

「お前、杏の何なんだ? 何のつもりだ」

「だから、保護者みたいな者だ」

「ふうん」

 オールバックは少し感心したようにそう言うと、しばらく間黙って俺を睨みつけていたが、ふっと息を吐いて力を抜くと、椅子を引いて座った。チンピラ二人もソファーに戻る気配があった。

「なんだかわかんねえけど、あんな女にもお前みたいな男がいるもんなんだな」

 オールバックはそう言うと、薄い笑みを浮かべ、新しい煙草に火を点けた。

「違約金の事は聞いたのか」

「ああ、しかし500万はいくらなんでも法外だろ」

「ふん。まあ、そんなのは適当だからな。でも穴埋め無しってわかにもいかねえんだよ」

「いくらだ」

「あまり吹っかけて面倒なとこに駆け込まれても困るしな、50万でいい」

「無理だ」

「知るか。これ以上は負からねえ」

「何か、出来る事は無いか。穴埋めに仕事をする」

「そんな都合のいい話しねえよ。きっちり50万用意、いや、待てよ」

 オールバックは何か思い出したように言葉を切ると、内ポケットからスマホを取りだした。

「お疲れ様です。立石です。はい、ええ。それで、栗田さんのとこで、一人被験が必要だって話し、あれまだ見つかってませんか? そうですか、こっちから一人回せそうなんすけど。ええ。はい。すぐ車回してくれますか。ええ。お金は後で振り込んでもらえば。はい。それじゃ、30分後に」

 スマホを内ポケットに仕舞い、オールバックが俺に笑顔を向けた。

「あんた、運がいいな。これからちょっとした仕事をしてもらう。それで50万は帳消しにしてやるよ」

「何をやればいい」

「今から車が迎えに来る。お前はそれに乗って、ある施設に行って貰う。後は向こうの指示に従いな」

「わかった。何をやるのか知らないが、それでチャラにしてくれるんだな。もしかして、お礼を言った方がいいのか?」

「さあな。これから行った先で何があるか俺にも正確にはわからねえ。あの女のために命に関わるようなことになるかも知らねえし、お礼は止めときな」

「そうか。一つ頼みがある。煙草を一本くれないか」

「好きにしな」

 オールバックが煙草のパッケージを俺に向かって滑らせた。


 30分後、迎えの車がやって来た。後部座席に、事務所にいたやつらよりもう少し格が上に見えるチンピラ二人に挟まれて座らされた。

 数時間のドライブの後、明け方になって山道をかなり登った奥の、建物の前に止まった。 

 辺りは森に囲まれ、他の建物は見えない。

 建物は古い診療所のような造りだったが、看板のような物も無く、何のために建てられた物なのかわからなかった。

 両側からチンピラに腕を取られて中に入ると、白衣を着た年配の男が待っていた。その格好に関わらず、なぜかまったく医者には見えなかった。

 白衣の男は、チンピラ二人に診察室のような部屋に俺を連れて行くよう指示した。

 診察室の丸椅子に座らされると、白衣はすぐに俺の血液を採取した。

「一応健康状態を調べるからね」

 そう言いながら、眼球に光を当てたり、口を開けさせ喉の奥を覗いたりする。

「ま、大丈夫そうだね。それじゃ、これから何をするか説明するから。ここは、新しいドラッグを調合してるファクトリーなんだけどね、まあ、ドラッグって言っても脱法だから、そんなにきついもんじゃないよ。それを色々試して貰って、一応効果や危険度をチェックするから」

「どれくらいの期間なんだ」

「そうね、1ヶ月くらい」

「それだけでいいのか」

「うん。ただ、正直何があるかわからないんだよね。脱法って言ってもさ、色々あるから。で、誓約書なんかも書いて貰わないけど何があっても文句言わない約束だからね」

「ああ、わかってる」

 それからの1ヶ月、俺は様々なものを吸ったり舐めたり飲んだりしたのだが、実際に死ぬかと思うような目にも何度かあった。気を失ったり吐いたりしたのは数えきれないほどで、髪の毛がある朝突然半分ほど白髪になった。

 ようやく約束の期間が終わり、来た時と同じ車に乗せられる前、白衣の男はまるで退院する患者に向かって言うような労いの言葉を俺にかけた。

「よく頑張ったね。お疲れ様」

 俺は危なく「お世話になりました」と頭を下げそうになった。


 好きな所へ下ろしてやると言われ、取り敢えず杏と飲んでた公園を指定した。

 正直、体も頭もかなり怪しい状態で、仕事が出来るような気がしなかった。おかしな妄想が止まらなくなったり、フラッシュバックで気を失ったりなんて事が続き、しばらくの間俺は公園から動く事が出来なかった。

 

 夏の暑さが和らぎ、直射日光が心地よく感じられる頃になって、ようやく回復して来たある日、ベンチに座ってぐったりと目の前の地面を見つめていると、女の足が視界に入った。女は、俺の前に立ち止まったようだった。

 目を上げると、逆光の影の中に、杏がいた。

 短く切り揃えた髪に、黒とグレーを基調とした地味なワンピースを着ていたが、半開きの口から覗く前歯は変わっていなかった。

「ただいま」

 杏はそう言って、頭を下げた。

「おかえり」

 俺が言うと、杏は顔を上げてうへへと笑った。

「座れよ」

「うん」

 杏が座ると、日差しが戻った。

「元気にしてたか」

「うん。お兄さんは?」

「ああ、俺は見ての通りだ」

「あまり元気そうに見えないよぉ」

「また戻ったんだな」

「うん。パパがね、お金を貸してくれたの。私、女優の学校に通うんだ」

「そうか。まだ諦めないんだな」

「うん。まだ諦めない」

「そうか。頑張れよ」

「うん。頑張る」

 俺たちにはもうそれ以上話す事は何も無さそうだった。

「私、バイトがあるから、行くね」

 そう言って、杏が立ちあがった。

「普通のお店でバイトしてるんだ。もし良かったら、寄ってね」

 そう言って杏が店名の入った名刺を俺に差しだした。

 受け取ると、名刺には「ガールズ・バー プリティ・ウーマン 杏」と書かれていた。

 笑えない冗談だった。

「お店の名前、気付いた?」

「ああ、いつかジュリア・ロバーツになれるといいな」

 杏は最後に俺の顔を少しの間見つめ、うへへと笑い、公園を出て行った。

 三日後、俺はようやく普通に歩けるようになり、別の街へと移動した。

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