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偽装された世界に吐露した欺瞞と傲慢の理想

遅れました

テスト期間中でした


一変します

吐き出した白息が黒々とした空に失せていく。

棚引く雲に月は隠され、空は何処か寂寞(せきばく)とした雰囲気だった。

大通りは車の往還こそ見受けられるものの、都市近郊とはいえ、流石に深夜帯の出歩きは見受けられなかった。

街灯の薄らとした光が綺羅坂商店街へと貫く大通り一帯を明るくしていた。


不本意ながら知子を迎えに警察署まで行かされた私は、一日の騒動に疲労を隠し切れずに、若干猫背気味で知子の背中を追っていた。

警察署でも一悶着合ったようで、知子は尼のまま警察の対応を甘い甘いと非難していた。

もし私が尼の振りをした僧兵だったら、お前達は一揆を沈められる自信があるのか、との一喝が外にまで響いたのに駆けつけてみれば、知子は警察官の一人と取っ組み合いの喧嘩をしていた。

騒動は直ぐに収束したが、確実に目を付けられただろう。名前と顔と住所、職業まで全て記録されていたのだから、ブラックリスト入り間違いなしだ。


普段の軍服姿に戻った知子は、警察に一喝を入れてやったと意気揚々に歩いているが、私はとてもルンルン気分でステップなど踏めなかった。

淡白で冷静、知的なイメージを彼女から感じていたが、一連の大暴れで少しでも感じていた畏敬の念が一気に瓦解した。

一瞬でも私の記憶を取り戻す為にこの女に尽くしても良いなどと考えたのが、馬鹿らしくて仕方ない。

否、よく考えれば志場にタイツを被せようとした時点で疑問に思っていた筈だ。

彼女ははっきり言って少し抜けている。周囲の人間と犬の頭の螺子(ねじ)が致命傷レベルで欠けているので埋もれてしまいがちだが、彼女も十分おかしい。


そもそもまだ私は探偵事務所に入ろうとは思っていない。志場を助けたい一心で試験は受けた。

志場は呪われている。私の様に。私は望まれずに過去に引きずり込まれた。だからこそ助けようと思った。

望まれずに?私は本当にこの事実を望んでいなかったのだろうか。


過去へと戻った事実を、解決しようとは思わない。当初からそうだった筈だ。

私は何があったかは分からないが、順応して新たな人生を成功させると決心した筈だ。

十字架の下に誰が埋まっていたのか、なんて知らない。

興味もない。私に関わりがあったとして、害が及んでこない限り埋葬者に興味を持つことは無い。


しかし時間を遡って、未知の部分がある、というのは気色が悪くて仕方がない。

無視できる範疇にはあるが、自分で解決しようとするまでには至らない。故にこの事務所に依頼に来たのだ。

何時の間にか事務所の勧誘に合って、無理矢理試験を受けさせられた。知らず知らずの内に論点がすり替わっていたのだ。

私の当初の目的は、自分の手を煩わせずに記憶を取り戻す事。それが、何時か自分と事務所の連中と協力して記憶を取り戻す事にシフトしていた。故に思考が迷走していたのだ。




知子達は呪われている。だが私はどうだ。

本当に呪われている、と言ってもいいのか。

記憶を失った程度、それも自分には支障を来さない記憶。


例えば志場は愛する者の記憶を失い、犬の姿になってしまった。

《理想》の呪い、だとかハロが言っていたのを思い出す。

私も何かしらの《理想(げんじつ)》を叶えようとしたのだろうか。

それを思い出したいのかと言われれば、別に思い出したいという訳でもない。


遠目に知子を眺めながら考え耽っていると、ふと知子は(きびす)を返し、立ち止まった。

どうしたのだ、と問いかける前に知子は柔らかな表情で、私に訊ねて来た。相変わらず、人を封殺するのが上手い。


「弥栄さんは、誰を埋めたのか、知りたいんですよね?」

「埋めた、というのはまだ分かららないんですが、まあ、そうです」


埋めた、という言葉がやけに引っかかった。ハロの私が殺した可能性は、という言葉が同時に想起される。


「出来る事なら、私は学生ですし、忙しい。貴方方だけで解決して欲しい」


(はばか)り無く言い放つ。もしこれで知子の気分を損ねたのなら、それはそれで空気が悪くなって事務所の勧誘を断ち切れるだろう。

私の思惑とは相反して、知子は柔和な笑みのままに


「自分の《理想》が、どれだけ醜くても、それを私達に知られてもいいのなら」


彼女の中では、記憶を失う事、それはつまり何らかの形で《理想》が叶えられた、ということなのだろう。

《理想》が醜いものであっても、今の私には関係ない事だ。


「どんな事があっても、私には関係ない事だ」

「どうしてそう言い切れるんですか?埋められているのは、自分の大切な友人、ないし愛した人かもしれないんですよ?」


私は未だに過去へと遡ってきたことを打ち明けていない。

知子から見れば尋常じゃなく薄情な人間なのだろう。

だが、私の本能が過去に来たことを告解すれば、必ず面倒事に巻き込まれると囁いているのだ。

極力それだけは避けたい。私はただ、平穏な人生を歩みたいだけ。


「それでも、私はまだ平和に暮らしていたい」

「遅かれ早かれ、貴方は巻き込まれますよ」


知子の黒曜の双眸(そうぼう)が、私を見据えた。

微笑んではいるが、内心私に諦観を(もたらし)しめんと、その黒い瞳の奥で、貪る様な欲望の光がギラギラと輝き放っていた。


私という人間を圧倒し、自らの元に服従させようという魂胆が遠慮なく見えている。

彼女は私を仲間に引き入れようとしている。確かに、人は多くても困らない。

(むし)ろ多い方が活動範囲、効率なども良い。


私は知子の内にある荘厳な威圧に耐えかねて、空を仰ぐ。

視線の行き先は何処でも良かった。


夕方の彼女と、今の彼女とでは違う。

兎に角、今の彼女と目を合わせれば、容易(たやす)籠絡(ろうらく)されてしまいそうで。


冷たい風が私の背中を撫ぜた。

木々の擦れ合う音が嫌に耳に蟠る。

棚引く雲が流れ行く。月の明かりが(かすか)かに雲に滲み始める。

(ぼか)された月が、妙に目についた。

彼女は何か知っているのだ。


「巻き込まれるって、どういう意味なんだ」

「理想堂の事、ハロにききましたよね?」


理想堂。

ハロが言うには不可解な能力を用いる集団。

ハロに詳細を()き損ねたが、名前からして、私達の呪いに何か関わりがあるのかもしれない。


「理想堂の人間は《奇跡》と、自分達で呼んでいる能力を用いて、人助け、を行っている集団。その《奇跡》はまさに奇跡。現実ではあり得ない物ばかり。

現に、志場さんがああいう姿になってしまったのも、理想堂の人間の施し。

《理想》を叶えると言って、訪れた者に望まぬ様な形の《理想》を与え、自らの能力を試験する様な人間達」


志場の呪い。犬の躯体を持ちながらも、人間の様に二足歩行で、人間の様に感情を持つ。そして、誰を愛したかという最重要の記憶を奪われる、という陰惨な呪い。

志場の今の心情を知る由は無い。記憶を取り戻した所で今の姿では愛した人に思いを告げる事も出来ない。


「理想堂って、何でも屋なんですよね?志場さんも望んで理想堂に助けを求めたんじゃないんですか」

「志場さんは犬だったんです。人間の姿から犬の姿になったのではなく、犬が人間になりたいと、望んだ結果があれなんです。けれど、犬が進んで理想堂で理想を叶えようなんて、すると思いますか」


ならば、志場は私の様に望まれずに《理想》を叶えられた、ということか。

確かに志場には同情するし、憐憫(れんびん)の情さえある。

だが、巻き込む、という言葉の意味に対する回答ではない。


「結局、巻き込まれるってどういう事なんですか」

「理想堂は私達の様な、《理想》の落ち零れを、無かった事にしようとしている……簡単なことです。失敗作は要らない、《理想》の上澄みだけを(すく)

……遅かれ早かれというのは間違いでした。残念ながら、記憶を失った時点で、貴方はもう巻き込まれてるんです」


絶望は感じなかった。

寧ろ、漠然とした事実が、明瞭になりつつあることに、私は安堵した。

危機感がないのだろうか。

実際、他人事のように感じられている辺り、私は心底から探偵事務所と関わるつもりはないのが、身に染みて感じられた。


現実感が全くなかった。

時間を遡って来た時の懊悩や苦悶より、はるかに軽く感じられた。


唐突にお前は殺されんとしているなどと言われても、一笑に付す以外、反応が見出せない。

思わず嘲笑が漏れた。

探偵事務所に入り記憶を取り戻す、という志は、やはり欠片も生まれなかった。


「じゃあ、私は理想堂の側に付くべきかもしれないな。記憶を失ったことに、正直自分が動こうと思う程に、興味を持てない」

「……」


知子の顔に露骨な不快感の様が呈された。眉を(しか)めて、何かを言おうとした様だが、再び踵を返して、歩き始める。

理想堂は彼女達にとっての敵だ。そちらの味方に付こうか、というのは暗にお前達とは仲間になる気がない、と云う事だ。

私が突き放したことに対して、知子は()えて反問しようとはしなかった。


後ろからでは彼女がどういった表情をしているのか分からない。

ただ、私に嫌悪感を抱いている事には変わりないだろう。


綺羅坂商店街の裏門の前に到着した。夕の活気とは程遠く。

須らくシャッターで締め切られた商店街は、寂寞(せきばく)と言うより、寧ろ荒涼とした感じだった。

スマートフォンを取り出して時間を確認する。もう、1時を過ぎた頃だった。


「……本当に、良いんですか」


例の事務所へと続く骨董品屋と、駄菓子屋の間の道の前で、知子の再三の確認が合った。

彼女の顔は当惑に満ちており、同情さえ滲み出、しかし私を見下し見捨てるような表情だった。


苦しい上目遣いで私を見、私が頭を横に振ると、そうですか、とだけ残して去って行った。

結局合否判定は曖昧なまま。しかし、私の中の迷いは、完全に振り切れていた。




綺羅坂商店街は、夜空でさえ隔絶する半透明の天井が助長して、荒涼とした世界に、真なる暗黒を与えていた。

深夜帯に人がいないことを前提に街灯は消え、日常垣間見えない様な恐怖感だけが私の胸に募った。

余裕ぶる必要もない。この恐怖から脱しようと小走りで商店街の真ん中を貫く。

知子が全力で警察を引き付けた道だと思えば、馬鹿らしくて小さな笑いが込み上げた。


あれだけ突き放したのなら、もう勧誘を受ける事は無いだろう。

私の中で、事務所はカルト教団的な悍ましさを感じていたのかもしれない。


入らないと殺されるぞ、なんてそれっぽくて寧ろ愉快だ。

呪いの存在は信じよう、理想堂の存在も信じよう。

だが、殺される、なんていうのは理に適っていない。


理想堂の連中が私を殺す理由は明確でない。

理想を享受した上で、理想に従事し、幸せな人生を送っている私が、理想堂の人間達に殺される意味は無いのだ。


確かに私は望まれずに過去に来た。

だが、今はそのままでありたい。


志場は望まれずに《理想》を叶えられ、望まれない容姿になった。

不幸になった。なら、失敗作として命を狙われたとしても何ら不自然ではない。


知子の勧誘の仕方は巧妙だ。自分達と同じだと、自然に輪の中へと組み込み、そこで抵抗すれば封殺し、流れで敵を提示する。

敵は自分たちを狙っている。仲間にならないか。一見デメリットは一切ない。

寧ろ、危険から守ってくれるコミュニティ内に入れると歓喜するだろう。


だが私は騙されない。私はどちらかというと理想堂側なのだ。

幸せになっているのだから、敢えて理想堂と対立し命の危険に怯える必要などない。彼女らに付いていく意味は一切無いのだ。

否定に次ぐ否定。肯定に次ぐ肯定。知子の懇意(こんい)を装った利己心を否定し、客観的な観察を経て私だけの正解を肯定する。


綺羅坂商店街の正門を超え、暫くすると、遠目にバスロータリーが見えた。

街灯や往来する車の照明のお蔭で、商店街よりは明るい。

安堵の溜息が漏れ、思わず立ち止まった。


私は少なからず、知子の脅しに恐怖していたのかもしれない。

闇という不確定的な(もや)の中から飛び出す、殺意を仮定していたのかもしれない。


刹那私の頭脳を過ったのは、知子が最後に残した諦観――そうですか、の一言。

低音の、憮然(ぶぜん)を帯びた諦観の声が、私の胸を揺り動かしたのは、今思えば紛れもない事実なのかもしれない。

しかしそれは、端的に例を挙げて言えば、怪談の様な物。


日常に溢れる物に関連付けて恐怖を煽る話をすれば、当時は恐怖など欠片も感じ得てなくとも、暫くしてその関連付けられたものを見る聞く感じるなどすれば、沸々とその恐怖が奥底から溢れ出す。

それが事実に依拠(いきょ)したものかと問われれば違う。

不確定的な事象に恐怖を感じるのは生来の本能。

故に私は安全という事実に基づいた理性に相対する、憶測と悪意からなる本能を否定する。

そしてそれに続くのは肯定。私は正しい。知子は間違っている。故に私は生き延びられる。


怖いのか。

怖くない。

知子は間違っているのだ。

私は正しいのだ。

理性では分かっている。

本能がそれを受け付けない。

頓着(とんちゃく)せぬ二律背反に板挟みされる。


ふと空を仰視する。暈されていた月が、何時の間にか黒雲を薙ぎ払い、妖艶に冴え渡っていた。


もし、知子の発言が真実だとすれば、私はどうなるのだ。


私は理想堂と事務所の関係の深さを知らない。

私は全くの無知なのだ。私は知子の囁きを、何の根拠もなく否定した。

真実でない証拠を出せるのか。


私には順応性があると過信していた。

ハロに認められ慢心していたのもあった。

何より、成熟した成人の判断力を以てしてなら、何事も乗り越えられると信じていた。


違う。私には見識がない。

知識がない。

知識が影を掃う松明の炎だとすれば、私は全くの暗闇の中を威風堂々たる姿勢で、その愚かなるを知らずして邁進していた。


今引き返して間に合うか、今すぐにでも謝すれば私の愚直さを赦してくれるか。

希薄な希望の意図に縋る様に私は踵を返し、駆け出した。


その時、一つの跫音が起こった。


たン。


軽い、革靴の音だった。

商店街の暗闇から響く音が、歴然と私の耳を突いた。思わず立ち留まる。

先刻の人気の無さに不相応。

少なくとも知子と同伴して居る際には背後に人の気配など一切なかった。


知子の可能性は無い。

彼女の靴は尼の変装の名残で草履だった。

もし彼女なら、軽快な、拍子木のような音の筈だ。


たン、たン。


一歩目の鈍重さには、時の奔流が留まるのを感じた。

しかし後に続く跫音は、私の元へと切迫する様に近づいて来る。


暗闇の揺曳。揺れ蠢く闇は、粉飾なく私の内なる戦慄の表れだった。

歪む闇から、真紅の鈍い眼光が疾走る。


「――悪いな」



完遂された不意打ちに、私は驚愕する間隙(かんげき)さえ与えられず、暗闇から伸びる腕に胸ぐらを掴まれる。

引き寄せられる勢いの慣性が、弓の様に私の躯体を撓らせたかと思えば、行きつく先は白銀の凶刃。


一瞬。私の腹部を切り裂き、白銀は鮮血の飛沫(しぶき)を浴びる。

私の身体は止まることなく、凶刃をその身に受け入れて、穿たれる。

畢竟抱かれる様な姿勢を取った私は、正面の凶刃の持ち主の顔を横目に確認しようとした。


しかし、その顔は漆黒のローブのフードに覆われており、終に自身を貫いた敵を、知ることは無かった。


……知子の言っていたことは、事実だったのだ。


吐血と共に、滲むような鈍痛が、確実に明白な痛みにへと移り変わろうとしている。

私は漆黒のローブの人間の腰を抱いた。

一矢報いてやろうという訳ではない。


最後に、最後に誰でも良かったので、人の温かみを感じたかった。

だが感じるのは布が風を掠めた時に帯びた冷気。冷たい。事実とは、これ程にまで冷酷なのか。

私は《理想》という呪縛の中で、事実という現実を否定し、逃避していたにすぎなかったのだ。


「……ア、あァ……グッ……」


悔恨(かいこん)の念が今更になって浮かび上がる。

本当にいいのかという知子の言葉を反芻する。


あの時、あの時留まっておれば。無知を悟ってさえいれば。

自分の愚かさを知っていれば。


知子の試験の本質は、実はここにあったのではないのかと思う。

彼女は自分の元に猜疑心持つことなく集う者こそ、真なる合格者だと、推し測っていたのではないのか。


私は、彼女のその忖度に呼応する事の出来なかった、落ち零れだ。

だから見捨てるが如き視線を向けたのだ。


知子は淡白な人間だ。

そして私を封殺した。

私は放擲(ほうてき)されたのだ。


持つべきものを持っていないと。

理不尽とは思わない。

限りなく理に適っている死だ。


目を瞑り、数秒。


ローブの腰に手を添える。

ローブ越しからでもベルトの感触が手に取れた。

ベルトに指を引っかける。


深呼吸。


口から血が漏れ出す。

内臓を抉られているようで、腹部を視認する余裕は無かったが、感覚では確かに抉られていた。


痛いか。


痛い。


当たり前だ。


耐え難い痛みの(わだかま)りを払拭する為に、奥歯を噛みしめた。


――私は、まだ生きている。落ち零れた生者として、全うすべきことがある。


「……っ……ルァッせえええええぇぇぇぇ……ぇぇぇぇええええいぃいいッ!」


下から上へ。

相撲の(まわ)し宜しくベルトをしっかりと握りしめて、ローブの身体を持ち上げる。

勢いのまま、文字通り急転直下。

身体を反り返らせて、重力のままに落ちる。


ジャーマンスープレックス。

プロの選手がやる様に美しくは出来なかったが、確実にローブの頭部を打ち付けた。

地面は勿論コンクリートで舗装されている。

名状し難い鈍い音の残響が、心地よく私の頭脳の中でリフレインした。


力なくのしかかるローブの身体を退けて、私はコンクリートの上に横たわり、芋虫の様にみすぼらしく身を捩じらせて、彼奴を尻に敷いて馬乗りになる。


「ってぇ……なァ!あァ!これも全て事実だ!クソッタレ、えェ!なぁ!お前は理想堂の人間なんだろ!……返事してみろよ大鋸屑がよォ!」


フードの弛みで顔が見えなかったので、フードを乱暴に脱がす。

あったのは、赤長髪を後頭部の高い位置で一つに纏め上げ垂らした、所謂ポニーテールの凛々しい容姿の青年だった。


白目を剥いて気絶している様子だったので、頬を二度三度殴りつける。

傍から見れば私が青年を痛めつけているようだが、殴打の際に伴う所作に対して、私の腹部にも痛みが起こるので、痛み分けだ。

殴っても殴っても眼を開けない青年に苛立ち、彼奴の顔面に唾を吐きかける。


憤懣の吐露が行きつく先は、貧血による立眩みだった。


「ンがァア……!あぁ、ちきしょォ……!いってぇんだよォ……いってェ……」


腹部からの流血が尋常ではないのに、憤りと苛立ちの所為で頭に血が登ってしまったのだ。

漠然とした意識の最中、凛然と構える、艶やかな月が浮かぶ夜空を仰いだ。


限りなく清々しい。

思わず下碑た笑みが漏れる。


青年が覚醒し、私の質問に呼応する迄殴り続ける覚悟でいた。

理想堂の連中と真に対峙するか、それとも私は幸せに生きているのだ、と連中の誤謬(ごびゅう)を正そうとしているのか。

兎に角、青年の非人道的な行いに、私は無尽蔵の憤りを感じていた。理不尽を享受できる程私は寛容に出来てはいない。


「起きろッ!起きろッ!起きろッつってんだよッ!聞こえねえのかッ!」


残り少ない体力を振り絞り、今までで一番強力な打撃を喰らわせた。が、反応は無い。

仕方ない、と私は嫌気を吐露しながらも、穿たれ冷たくなった腹部を弄る。


空気に触れて若干酸化し、黒くなりつつある傷痕を睥睨(へいげい)すると、今度こそ本当に気が遠のきそうだった。

感覚的な痛みと、視覚的な痛みを堪え、切り裂かれた腹に、手を突っ込む。


肉の触感が余りにも生々しい。緩慢に奥へ奥へと突き進んでいく。

名状し難い痛みに悶えるも、動けば痛みが重なるだろうと、食いしばって耐える。


生暖かい肉と血を掻き分けて、内臓に突き刺さる刃まで辿り着いた。

漸くの中間地点に、激しくなっていた呼気を、一つ息を吐いて整える。

予想外に奥深くまで抉っていた事以上に、これだけ大きな傷口でもまだ生きている自分が不思議だった。

持ち手、グリップと思われる部分を握りしめ、最初こそ刺激を避けゆっくりと引き抜こうとしたが、煩瑣(はんさ)に思われて、思い切って一気に引き抜いた。


「ぬっ……っぐう……。くく、これで目ェ覚ませるよなぁ……」


私の血が滴る短剣の切っ先を青年の肩に突きつける。迷い無く振りかざす。

存外、人の肉は簡単に割けるのだな、と感じた。


「がッ……う、うぅう……ってェエ!何しやがんだ!」


覚醒する青年から飛び出した怒号に、私は怯みもした。

が、馬乗りの状態に置いて、私が優位にある事を思い出せば、安心と共に自身が湧いてきた。


「お前理想堂の人間か?答えろ。答えてくれればそれでいい」


騎乗したまま、身体の節々を抑えている為、青年は自由に動く事が出来ない。

無表情で彼の肩に押し付けた短剣に込める力を徐々に強めていく。

手首を捻り、抉りの範囲を微妙に広げて行けば、青年の顔は一瞬戦慄と共に青ざめた。


「そ、そうだよ!お前は罪を犯した!だから殺そうとしたがっ!本気で殺そうとはしなかったんだ!感謝しろボケ!」

「は?お前立場分かってんのか?」


焦燥に駆られ口元を歪めながら身を捩じらせる青年を睨めつける。

身体の節々を抑えているので抜け出すのは容易ではない。

青年の一撃は致命傷だった。私にはそれなりに精神力があると思っているが、流石に貧血には抗えない。

普通ならば死んでいる筈だ。


「これも《奇跡》なのか……?」

「そうだよ!」


青年の必死の訴えだった。


「俺の《奇跡》を使ってなかったらお前は死んでたんだよ!」


決まりだ。

ハロや知子の言う様に、理想堂の連中は《奇跡》と呼ばれる不可解な能力を用いて、私を消そうとした。

だが、青年は私を本気で殺そうとはしなかった。

それが何故かは分からない。


訊くよりも前に、短剣を一度押し込めて、念を押してから引き抜く。

青年は痛みに悶えている。一瞥して、翻って商店街へと向かう。

青年が体勢を立て直して、追撃してくる前に、安全地帯と思われる事務所へと転がり込もうという狙いだった。

暗闇の中に身を投じる。走り出したその先に、一条の光があるとするのなら、不思議と闇に恐怖を感じなかった。


次話から尋常じゃなく軽い文章になる筈です

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