虚無僧と尼が織り成す狂詩曲は、カレーの香りに包まれて 2
尼と虚無僧が犠牲になります
3
「僧です。僧じゃない。そうです、それです。ええ、牛脂も……え、お金要るんですか?あの、一応僧なんですけど……あ、僧なんですか?それじゃあ仕方ない……」
ドスのきいた低温の声で肉屋の主人に無料で牛脂をせびる乞食の様な虚無僧のフォローに手をこまねいていた。
あの虚無リアンハスキー虚無僧が何か分かっているのだろうか。
陰で見守る事しか出来ないで悶々とする。
今にでも飛び出して困惑の表情で金を受け取る主人に全力で謝罪したい。というか、なんで犬なんだ。
そう思えば異常だ。否今頃かと自分でも思う。出会った時から心の底にはどうせ被り物なのだろうと侮る気持ちがあったのだ。
しかしハロや知子の言動からすれば本物。あれは正真正銘のシベリアンハスキーなのだ。
「なんで犬が二足歩行なんだ」
「ぷっ、タイミング可笑しくない?お兄ちゃん」
私の背に負ぶわれるハロが笑い交じりに正論を吐いてきた。クスクスと一通り笑い終えた後、一転して落ち着いた声で言う。
「志場さんはね、私みたいに《理想》に呪われているんだ」
「理想?理想に呪われる?理想が叶わないままでいる、ということか?」
「違う。叶ったんだ。ただ、その《理想》は現実に即した《理想》。私達が求めていた《理想》ではなかった」
「……?よくわからんが、志場さんはどんな呪いに」
「お兄ちゃんって、妙なところで順応性あるよね。普通呪いの存在を否定するのに。
……人間になって恋を果たしたい、だって」
なんだそれは。本来ならば呪いなどと言う不確定的な事象に一笑しても良い所だが、時間を遡っている私には、それが不思議と現実味のあるものに思えた。
「それがあの結果か……」
「まあ、それでも志場さんは人間に近づいたことを喜んでいるよ。思い人に会う事は、ちょっと躊躇っているみたいだけど」
「しかし、理想が叶えられたのは、誰によってなんだ?自分か、それ以外か」
「それ以外。理想堂、って知ってる?」
理想堂。初めて聞く響きだった。
首を横に振ると、ハロは高校生の間では結構噂立ってると思ってたんだけど、と前置いて説明する。
「自称何でも屋。それも、不可解な能力を用いて……」
「能力……?なんだ、もう分からなくなってきたな」
記憶。時間逆行。呪い。犬。探偵事務所。理想堂。能力。十字架。死。
情報過多の飽和に苛まれて頭痛が起こりそうだ。
私が一度通した人生の事は私が一番知っている筈なのに、何故か知らない事の方が多い。
私の人生に何か不具合が起こっているのだろうか。考えようとした時、志場が動き出した。
慌ててそっぽを向くと、志場はこちらに気付かずに次の目的地である八百屋へと向かった。
八百屋は肉屋から向かって右に6軒先にある。大将とあだ名の付きそうな漢らしさを帯びた男が看板で、かく言う私も常連だ。
「そろそろ知子の増援が来てもいいんじゃないか?」
「準備に手間取ってるんじゃないかな」
能力云々の話題が潰えてしまったのは残念だが、それよりも今は犬だ。
今のところ問題は無いが、徐々に周囲の視線が志場に集中し始めている。
沸々と現れて来たざわめきが不穏な空気を纏っている。
志場自身は気にしていない様で、鼻歌まじりにショッピングを楽しんでいるのだから異様な光景だ。
警察に通報されるのも時間の問題か。
「僧です、あの、ジャガイモと玉葱……人参……。僧なんですよ、今日はカレーで……。あ、訊いてない?僧ですか。僧なんです」
一見普通の会話に見えるが姿が虚無僧なのでどう足掻いても異常だ。
いつもは溌剌と挨拶をする大将も、虚無僧ばかりには吃驚せざるを得なかったようだ。
唖然と口を開けて虚無僧に指示された野菜を詰めている。
「大将……。普段はめちゃくちゃ元気なのに……」
「あ、あれ。知子ちゃんじゃないかな」
背なのハロが指さす方向。私達が入って来た門とは逆の門から、全力ダッシュで尼が走って来るのが見える。
「ハロちゃん、あれは誰のセンスなんだ」
「さぁ?知子ちゃんズセレクトじゃない?」
家族だもんな。期待した私が馬鹿だった。
法衣の上に剃髪(を呈したヅラ)の知子は私に気付くと爽やかな笑みでガッツポーズを見せてくれたが心配で仕方がない。
因みに尼でも剃髪をするのかと言えば、そうではないらしい。男女ともそうだが剃髪をするか否かは自由な宗派が多いそうだ。
一方大将は銭勘定をしている内に意識が戻ったようで、志場の方を一瞥して、陰でいそいそと携帯を取り出し誰かと電話し始めた。もしかして、と嫌な予感がする。
対する志場はやはり無関心。初めてのお使いに心躍っている様子だが、もし警察が来ようものなら万事休すだ。
知子の救援も当てにならない。
虚無僧をフォローする尼。
今晩のカレーについて談義する虚無僧と尼。
小腹が空いたので肉屋さんのコロッケを美味しそうに頬張る虚無僧と尼。
虚無僧と尼に偏見がある訳ではない。
虚無僧と尼が日常生活を送ってはいけないと言っているわけではない。
「アマァアアアアアアアアアアアアアアアア!アマアアアアアアァァァァアアアア!」
「アマアマ啼く尼がいるのか」
「あ、警察」
そうか、知子のアレは陽動作戦だ。
自らが虚無僧よりも強いインパクトを与える事により注目を自分に寄せ、自らが囮となり職務質問を受ける。
尼や虚無僧が問題なのではない。虚無僧の中身がシベリアンハスキーという人外なのが問題なのだ。
この特殊な状況下に置いてあの対応力、流石探偵といった所か。意外性のある一撃こそ今求められている物。
知子はそれを見越した上であの奇行を行っている。
丁度駆けつけた警察が全力疾走する尼、知子を見つけた様だ。
数にして三人。遠目で確認出来たのは門前に止められたパトカー一台。パトロール途中だったのだろうか。
知子は狙い通りだという様に、警察官の発見と同時に立ち止まり、数秒の待機。
「見つけたぞ!奇怪な僧侶だ!追え!」
「アマ」
尼は立ち止り、ふと空を仰いだ。
綺羅坂商店街はアーケード街で、緩やかに膨らんだ半透明の天井が日光を遮って、商店街は常に曇り模様だ。
だが、それでも彼女の眼は輝いていた。
春の嵐が過ぎれば、葉の上には露の珠が残る。
重みで葉が撓れば、珠は地面に落ちて弾け飛ぶ。
その一瞬、朝日に輝くその姿は、美しくも儚げで。
尼が私の方へと、刹那視線を残した。流石に他人のフリをしたが、その瞳に宿る珠の様な輝きを、生涯忘れる事は無いだろう。
「……ァ」
一歩。ただ一歩。しかしその一歩に込めた祈りは、とても強く。
「……マ……ァ」
一歩。その一歩。警察官達は思わず彼女の緩慢な動きに括目してしまっている。
「ア……ッ……マァッ!」
瞬く。
私の視界から、尼が消えた。
速い。尼の速度を見誤っていた。
それは警察官達も同様だった。
驚きの余り身体を動かす事が出来ずただ正面突破を許してしまった彼らの背後には、既に尼の姿があった。
「なっ……!く、クソ!舐めやがって!あの尼を終え!逃がすな!見つけ次第捕まえるんだ!」
綺羅坂商店街に響く怒号。生まれて初めて尼に呆気に取られることになろうとは、私も思いもしなかった。
「馬鹿だろ……」
「それが私達。探偵事務所なんだよ」
ハロのシリアス調な表情が、もっともらしい説得力を帯びているのが、空しく思えた。
4
「と、取り敢えずセーフだな」
「知子ちゃんは犠牲になったんだよ……」
次は自分の番かも知れない。
初めてのお使いということで、志場一人で誰の助力もなくお使いを成功しなければならない故、変装は必須。
志場に私達の存在を知られた時点で失格だ。その上で志場をフォローしなければいけない。難度の高い試験と言えよう。
自分はどうの様な変装で志場をフォローするか、と考えている内に、私は探偵事務所に本当に入りたいのか、という疑問が浮かび上って来た。
当初は願いもしていなかったことだ。寧ろ拒否さえしていた。だが、何故私はここまで必死に試験を成功させようとしているのだろうか。
無い顎鬚を撫でる。否、今は志場を護ることが先決だ。
「次、ハロが出るね」
ハロは私の背中から降りると肩を回した。
やる気はあるようだが、この流れから言って心配で仕方がない。
唾を飲んで見守るしか出来ない自分が不甲斐い。
私の焦燥感に気付いたのか、ハロは私の手を取って上目遣いで諭してくれた。
「いいんだよ、試験だけど、こんな怖い思い初めてだもんね」
自分よりも十歳以上年下の女の子に優しく諭される精神年齢四十歳以上の高校生とは。
瞳の奥からじんわりと滲み出る熱は悲しみだろうか。
兎も角自分の中に深く根付く大人という矜持が私に二つの選択肢をもたらした。
一つ目の選択肢としてハロを押しとどめて私がでる。
二つ目の選択肢として諦めてハロに任せて傍観する。
人が押し付けられた二つの苦しみを推し量る時、今苦しむか後苦しむかで受け取る方を決める。
後で苦しむ未来が見えていると今にも苦しさが伝播してしまい、楽にはならないと考える私は勿論前者を選んだ。
「いいや、ハロ。次は私が出る」
志場に近づこうとするハロの肩に手を置いて引き留める。
意外な出来事だったのかハロはキョトンとした顔でいたが、直ぐに状況を飲み込んだようで、無言のまま強く頷いた。
「決心ついたんだね」
「あぁ、馬鹿らしいが、馬鹿みたいな状況なんだから、馬鹿になるしかないんだなって」
嘲笑に交じって白息が虚しく消えて行けば、すっかり興味も失せたと思っていた煙草が無性に吸いたくなった。
こういう時に一服出来れば落ち着く事も出来るのだろうか。
今は兎に角、煙草よりも暖かいスープでも飲んで落ち着きたい。
その為には、志場の処理をどうにかせねば。
状況で言えば志場はカレーの材料を求めて商店街の中心を虚無僧姿で練り歩いている。
ここまでは良い。周囲は虚無僧を警戒して皆一様に志場の一挙一動に注意して殺気立っている。
その最中私は志場の買い物をそれと無く手伝わなければならない。志場に私の存在を悟られては試験的に失格だ。
警察は知子が尼となり尼特有の叫び声を用いて引き付ける事に成功。
暫く警察が志場に気付く事は無いだろう。だが若い男達が固まって志場の方を見ながら何か会話している。
もしかして、志場が次何か異常な行動を見せれば取り押さえるつもりだろうか。
周囲から視線を集めている限り、志場に対して大胆な行動を起こす事は出来ない。
ならば何かしらの間接的な行動を起こして志場を動かすか……これだ。
何よりも先に、私は裏通りへと続く道へと身を潜めた。
虚を突かれ一瞬だけ遅れたハロをおんぶして、建物の陰から志場の行動を見守る。
次、志場が何かしらの店で立ち止まった時、私は志場の荷物をひったくって逃げる。
あの巨躯では若い私の脚力に付いて来る事は出来ないとの前提の元で、確かなものではない。
だが、今求められているのは即応性。迅速に行動し、迅速に対応する。正確性よりもチャレンジ精神。
志場が何かをやらかす前に、私がやらかせばいい。
何時かの尼は身を挺して警察を誘き寄せた。
それと同じようにすればいいだけだ。
私は制服をある程度着崩す。
負ぶっているハロに頭を両腕で包んで貰い、ダボダボの修道服の袖でバンダナの様に見せる。
こうすればきっと、背中から見て私だとは気付かない、筈だ。
志場は相変わらず材料を求めて彷徨っている。目視出来るだけで購入済みの材料はジャガイモ、玉葱、ニンジン、牛肉……。
「ハロちゃん、探偵事務所のカレーっていつも何入ってる?」
「えーっと……玉葱、ニンジン、ジャガイモ……お肉とぉ……後は人によってだけど、チーズとか?」
「志場さんはチーズ好きなのか?」
「そうだね、いっつも粉チーズかけて食べてるね」
ならば、と私は裏通りを通って牛乳屋の近くへと先回りする。
カードショップと魚屋の間の道へでると、志場は牛乳屋へ入らんとしている真っ只中だった。
機会は今しかない。カレーはチーズなしでも完成しているのとほぼ同義だ。
駆ける。
この時代に戻って来て初めて走った時の事を思い出す。
十字架を勢いで引っこ抜いたはいいが得も知れぬ謎の恐怖で走って森を降りた時。
私は運動していなくとも、ある程度若さで速度だけはカバー出来るのだな、と実感した。
それでも、体育テストでは半ば前半と、微妙な戦績だった。
ふくらはぎに感じる筋肉の脈動が直に感じられる。地を蹴る感覚が全身に響く。体制を低く保ち、志場の手荷物へと腕を伸ばす。が、
「ぬぁ……!」
何者かの脚に引っ掛かり、二転、三転。勢いよく体を捩じりながら倒れ込む私が見たのは、先程志場を訝しげに見ていた筈の青年達だった。
「お兄さん、何してんだ」
「え、え、あ、あの、その」
「こんなちっさい子を引きずり回して、しかもお坊さんの荷物に手をだすだなんて、いい度胸してんじゃねえか?」
違うんだ、と弁解の声も彼等の咎めに埋まって、私の思いは届かず消える。背中に背負っていた筈のハロも、何時の間にか青年達に保護されていた。
「あのね、あのね、このお兄ちゃんがね、急にね、私の妖艶な胸と肉体美にね、興奮してね」
「おい、ハロ、お前」
そうだ、この幼女、鬼畜だったんだ。
「何?今頃命乞い?はん、残念だったね。私は常に強い方に付く、峯ハロ子なの」
「おい、きいたか!この幼女鬼畜だぞ!俺に罪は無い!なあ!聞けよ!痛い!おいハロ!殴るな!」
「ん?騒がしいし、誰かと思えば、ハロ殿に弥栄殿。もしかして、儂が心配で?」
見つかった。
変装も意味を成さず、抵抗する気も起らない。
警察になりなんなり突き出されるのかと思えば、志場が青年達を説得してくれたお蔭で、私は出頭せずに済んだ。
帰り道、結局三人でチーズを買って探偵事務所へと戻ることになり、私の合否判定は知子に委ねられる事となった。
こうして私の探偵事務所入社試験の幕が閉じた。
5
ともあれ、無事志場は探偵事務所に帰還する事が出来た。
祝杯というかお疲れ会が急遽催されることになった。
知子は警察署に幽閉されたままで放置されているが、事務所の連中は薄情にも無関心なようだった。
私はハロに風呂を勧められて、促されるままにした。
カウンターの奥には人の目につかない場所に、黒く塗り潰された扉がある。
事務所はバーの様な内装ではあるが、扉の奥には一般的なマンションの様な空間に繋がっている。
設備も整っているようで、風呂台所便所、使用感があることから、誰かの自宅でもあるのだろう。
伊作が裸エプロンでカレーを作っている間、私はゆっくり風呂に入る事が出来た。
決して大きいとは言えないが、自宅と同じ位の浴室には、妙な親近感がわいた。
早速シャワーを浴びて、湯船に浸かった。
立ち込めては消えていく湯気を眺めて、深く息を吐く。
散々な一日だった。疲労が溢れる湯船の温かみに溶けて消えていく様だった。
ただ、思い違いであって欲しいが、楽しかったと感じている。
普段学校でしか友人と喋らない自分にとって、今回の試験は新鮮味があった。
協力し合い、一つの目的を達成するために尽力する。
部活動にでも入っていればこんな達成感も味わう事が出来たのだろうか。
技術部連中との活動は確かに楽しいが、自分が距離を取っているのもあり、何処か懸隔されている感じがするのだ。
私だけ彼等とは遠い位置にある様な、そんな感覚。
それに比べて、事務所の連中はとても暖かい。家族の様に接してくれている、様な気もする。
そんな気がするだけで、連中からすればそうでないのかもしれないが。
私は、本当に事務所に所属したいと思っているのだろうか。
湯気で暈ける天井を見つめながら、私は思い耽った。
私は何で事務所に依頼しに来たのだったのだろうか。当初の目的を忘れる程に、この二日は濃厚だった。
私の依頼は、私が誰の葬式を催したのかの調査。微妙な記憶の欠損を、知子達に調査してもらいたくここまで来たのだ。
それが今日の様に皆で和気藹々と調査できる、と考えれば、事務所という場所は、私にとっての第二の実家と成り得るのではないだろうか。
しかし、合否判定は知子がする。結局私は志場に気付かれる事なくフォローすることは叶わなかった。
試験的には失格だ。しかし、志場が犬だ、ということは隠し通せた。
知子は淡白な人間だ。だからこそ、躊躇いなく私を切り捨てるかもしれない。
その時はその時だ。
「お兄ちゃーん、ごはん出来たよー。着替えもここに置いとくねー」
ハロの溌剌とした声が、ドタバタと地面を蹴る音と共に風呂場に響いた。
キリも良い所だと、風呂場から上がって、伊作の普段着と思われる黒いスーツを着て、バーの様な内装の部屋へと戻る。
カレー特有のスパイシーな香りを吸うと、条件反射の様に腹が鳴った。匂いだけでも味が想像されて、唾液が溢れ出す。
硝子のテーブルに並べられたカレーを目の当たりにして、ハロと志場がまだかまだかと私を待っていた。
例の如く志場の横に座る。頂きますの合図と共に皆一斉にがっつき始めた。
特別美味しい訳ではないが、伊作の腕は確かなようだった。カレーに外れは無いのだから当たり前か。
志場は例の粉チーズを大量に振りかけながら、私に問うてきた。
「あぁ、弥栄殿が入ってくれると思うと、楽しみで仕方ないな。結果はどうなんでしょうなあ」
どうなんだろうか。私は結局答えを出せないままでいた。確かにここは暖かい。楽しい。
それだけに、失う事の恐ろしさが見え隠れする。
私達がここに集っている理由は、各々の記憶を取り戻す為。
記憶を取り戻した後、その時私達は今のままでいられるだろうか。
学校での関係は?勉学も全う出来るのだろうか。
今日の疲労から見れば、事務所の仕事以外、確実に疎かになるだろう。
しかし、それらを犠牲にしても、ここにいたいと思える私がいる。
私はやはり逡巡していた。
「どうだろうなあ」
曖昧な返事しかできなかった。話題自体もそこで途切れる。
話の穂を継ごうとするが、就中話題も見当たらない。
カレーの味が口いっぱいに広がる。旨味が頬の奥に滲み、悶える。ハロも満面の笑みで首を左右に振って足をばたつかせる。志場は大盛りのカレーを黙々と食べ続けている。
「そういえば、志場さんは玉葱大丈夫なんですか」
志場はシベリアンハスキー、犬だ。犬は玉葱にアレルギーを持っているので、普通玉葱を食べる事は禁忌とされている筈なのだが。
志場はスプーンを止めて、苦笑いで気まずそうにこう言った。
「……見た目だけ。儂は犬の様な容姿をしておりますが、心と機能は人間なんですよ。だから大丈夫なんです。
儂はただの、人間の出来損ない。そう、ただの。だからと言って、思い人に会いを告げる事は、諦めませんがな」
ああ、やってしまった。だが、それでも何時か訊く事になる質問の筈だ。
私は罪悪感を覚えたが、それでも志場には訊いておきたかった。
「志場さんは……悔しいくないんですか」
何が、とは言わない。何時の間にか皆の視線が私に集まっていた。
訝しげに私を窺うハロが、またクスクス、と小さく笑い
「今頃、だね。悔しいよね、志場さん。志場さんだけじゃないよ。私達皆、悔しい」
ハロの言葉に私以外の皆が頷いた。それぞれの眼には、静かな闘志が垣間見られた。
「儂も、伊作さんもハロも、知子も。皆一様に記憶を失った者達。大切な記憶を、失った事だけ残されて、肝心な部分は思い出せない。一生焦燥感を煽られて生きていく」
私は、どうだろう。私は今の状況が不幸だとは思わない。
ふとした瞬間に漢字を忘れるのと同じような感覚だ。事務所の人間とは違う。
「ワシは、正直自分の記憶などどうでも良い。だが、知子の面倒は見てやらんとな、とそういう感じじゃな」
伊作の言葉が近くに感じられた。
限りなく近くにあるが、やはり私とは違う。
「……もし、ワシ等と一緒になりたいのなら、それ相応の覚悟が必要じゃぞ」
伊作は立ち上がり、カウンターの奥の吊り棚に並べられた酒瓶を手に取る。
業務的な発言だったが、今の私には突き刺さった。
「もう少し、考えてみてはどうだ。ワシにはチコがお前を勧誘した理由が良くわからん」
そう言えば、伊作は私を事務所入りさせようと言い出した時に、私以外で唯一反対した人間だった。
その時はお道化た風だったが、内心本当に私の事を疑っていたのだろう。伊作がこの事務所の中で、一番謎めいた人物だった。
「……なので、警察署にチコを迎えに行って貰おう」
そうか、私は分かっていなかった。
何が。何がだよ。何でそうなるのだ。
「ちょ、嫌ですよ!保護者なんですから!伊作さん行ってきてくださいよ!正直身内だと思われたくないんですが!」
どうせ碌な行動を取っていないのだ。警察の人間に顔を覚えられたくない。ただでさえ、今日の事件で商店街に行きづらくなったというのに。
「お兄ちゃん……もう少し考えなよ。アタシも良くわからないんだよ、個性の無いお兄ちゃんが事務所に入るなんて、考えられないんだよ」
この幼女、もう何も言うまい。
結局、伊作は真面目を一貫しなかったが、彼の一言が私の中に一つの揺らぎを与えた。
本当に私は事務所に入っていいのか、というよりも、私は本当に事務所に入りたいのか。
カレーを食べ終えた後、暫くの休憩の後、ハロに命じられた志場が私を外に担いでいった。
追い出された私は、知子の合否判定に全てを委ねようと、諦めて警察署を目指して歩くことにした。
次から二日に一回になるかもです