011.You Are Mercy
早朝の学生寮。
「シン、ねーたんのにおいがする!」
シンを出迎えたマイラの一言を聞いて、エイミーは朝食を配膳する手を一瞬だけ止める。
もちろんシンが来客用のジャージに着替えていたのは気がついていたが、その事には敢えて何も触れていない。
「フェルマさんと半日ずっと一緒だったからね、匂いが移っちゃったかな」
「らぶらぶしてたの?」
マイラの悪意の無い一言に、シンは言葉を返す事が出来ない。
エイミーに対して後ろめたい思いは無いが、フェルマとの関係では自分自身の脇が甘い部分を否定できないからである。
「……同行した科学者って、あの人だったんですね。
マイラ、シンは任務で疲れてるから、休ませてあげなきゃ駄目よ」
「あい!」
食事を中断してシンの傍に行きたい彼女の素振りを、エイミーがやんわりと注意する。
一緒に朝食を食べているルーは、会話の内容に我関せずで大盛りごはんを掻き込んでいる。
寮の食事に順調に適応したルーは、今や納豆や生卵も美味しく食べられる和食好きになっているのである。
「あれっシン、出かけた時と服が違わない?」
ルーはお代わりの丼をエイミーに頼みながら、漸くシンの服装に気が付いた様だ。
「うん。念のための除染って言われて、シャワーと着替えをさせられたからね」
「ああ、中華圏に行くと未だにそういう心配をしなきゃいけないんだ」
「まぁ今回で不必要なのが線量計の数値で証明されたから、次回からは大丈夫だと思うけど。
まだ除染用のシャンプーが皮膚に残ってる感じだから、一寸温泉に入ってくるよ」
シンは立ち上がってリビングを出ようとするが、ここで思い出したようにエイミーに声を掛ける。
「今日は午後からグレニスさんと待ち合わせだけど、エイミーの予定どうなってるの?」
「今日は授業はありませんので、午前中はTokyoオフィスでユウさんとトレーニングの予定です」
エイミーはお代わりの『マンガ盛りご飯』をルーに渡しながら、シンに応える。
「それじゃぁ、ケイさん達が出動したら、Tokyoオフィスに一緒に行こうか」
「了解です」
「エイシャもくるの?ならわたしもいく!」
雫谷学園に登校し始めているマイラだが、実はニホン語以外の一般教養科目は既に受講が不要なので登校頻度はそれほど高く無い。
エイミーと共通する受講科目も多いので、最近は一緒に行動する機会が増えているようだ。
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Tokyoオフィス。
「ユウさん、シン君、また時間を取って貰って悪いわね」
エイシャはマイラと一緒に、広いリビングの空間でシリウスとじゃれついて遊んでいる。
力強いハイハイを繰り返しすでに掴まり立ちはできるので、シリウスはエイシャが怪我をしないように注意深く見守っている。
横ではエイミーも目を光らせているが、室内で遊んでいる分には天才犬?のシリウスが居るので特に心配は要らないだろう。
「鉄のフライパンはユウさんと相談して、入手しておきましたよ。
それでキョートはどうでしたか?何か洋食で、気に入ったメニューがありましたか?」
「そうね……ニホン食のご飯の美味しさが、私にも漸く分かってきたという感じかしら」
テキサスの自宅では見られない微笑ましい光景に、グレニスはとても嬉しそうだ。
彼女は犬が大好きなのだが、使用人が居ないので新たに飼い始めるのが難しいからである。
「ああ、成る程。
僕もそれを理解できるまでに、ちょっと時間が掛かりましたよ。
主食って考え方は、欧米の食生活には無いですからね」
「あとは、定番メニューのハンバーグ、コロッケ、エビフライやカキフライ……。
同行していたジョーは最初は洋食ばかり続くから嫌がってたんだけど、食べ歩きのお陰で洋食の良さに開眼したみたい」
「それで、テキサスに帰ってから食べるお米がね、ちょっと心配になってきたのよ。
今食べているカリフォルニアのコシヒカリも不味くは無いんだけど、ニホンで食べたお米と比べちゃうとね……」
「入手先はユウさんの母上にも聞いておきますけど、テキサスはニホン人が多いですからね。
ニホン産のブランド米を扱ってる業者が、きっとあると思いますよ」
「それでもうちょっとお米について勉強したいのだけれど、良いお店とかあるかしら?」
「お米を食べ比べできる店というのもありますけど、今日は此処にユウさんが居ますから!」
「?」
「ユウさんは、今Congohのお米マイスターなんですよ。
定期配送便で扱う米の選択やチェックは、ユウさんが担当してるんです」
「今ならサンプル米がまだありますから、食べ比べ出来ますよ。
試してみますか?」
此処でリビング全員分のコーヒーの配膳を終えて、会話に参加したユウがグレニスに提案する。
「ええ、是非!」
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「お米って、こうやって研がないといけないの?」
用意された5種類のブランド米を、ユウがちいさなザルとボウルを使って順番に研いでいく。
普段は備え付けの自動洗米機を使っているので、手で米を研ぐのはこういう特殊な場合だけである。
「いえ、無洗米の場合は必要ありませんけど。
Tokyoオフィスでは保管の問題があるんで、無洗米は仕入れてないんですよ」
幼少時から毎日のように洗米をして来たユウは、米の状態をしっかりと確認しながら次々と食べ比べ用の土鍋を準備していく。
「保管の問題があるって?」
「仕入れる量が多いんで、冷蔵保管するのが難しいんですよ。
肌ヌカを除去した無洗米は、常温だと痛むのが早いですから」
「この小さい土鍋は?」
「少量だけ炊く夜食用とか、食味をチェックする為の専用ですね。
いきなり4升とか炊いて、失敗するのは嫌ですから」
「えっ、ご飯ってガス台でも上手に炊けるものなの?」
「フタがちゃんと閉まれば、土鍋や専用の釜で無くても上手に炊けますよ」
雑談で浸水時間を確保してから複数の土鍋で炊き始めるが、最初の火力は若干強めである。
沸騰したのを確認すると、弱火にしてからユウはタイマーをスタートさせる。
炊いている量はそれぞれ2合前後で少ないので時間はそれほど掛からないが、水分の飛び具合を見て火を順番に止めていく。
「火を止めるタイミングが、それぞれ違うのね?」
「オコゲをしっかり作るには、もっとタイミングを遅らせると良いんですけどね」
「オコゲって……焦がしちゃうと不味いでしょ?」
「いえ、少量のオコゲが出来る炊飯の方が美味しいんですよ。
IH炊飯ジャーの場合は無理矢理設定しないと出来ないんで、これはお釜で炊くときの役得ですね」
「役得って?」
「それは食べてみると納得できると思います。
炊き立てのご飯だけだと判別が難しいんで、『ご飯の友』を何種類か用意しましたから一緒にどうぞ」
蒸らしを終えて炊き上がった釜の前には、大判の付箋紙にローマ字で書かれた米の銘柄が貼り付けてある。
少量炊いたと言っても、それぞれ2合はあるので試食用としては十分だろう。
「これは自宅で炊いてるのと味が似てるわ。
でも甘味がこっちの方が強いわね」
小さなお茶碗で、グレニスは次々と試食をしていく。
箸使いに神経を取られると味が分からなくなるので、彼女はあえてデザートスプーンを使っている。
「これは粘り気がちょっと強くて、味が淡泊な感じ」
「これはさらっとしてるけど、味が強いわね」
「どうでした?」
ユウは横目でグレニスの様子を見ながら、自分も試食をしている。
シンは試食を終えた窯のご飯を集めて、何やら横で作業をしている。
「正直どれも美味しくて、比較するのも難しいわ。
というか、ニホン人ってこの微妙な味の違いを判別できるのね!」
「今日炊いたのは全部特Aランクのお米ですから美味しいのは当たり前で、ニホン人でも銘柄まで判別できる人は少ないと思いますよ。
社内用のお米を選ぶときには海外に輸出する分もあるので、味の評価以外にも長期間安定供給できるのを選んでますけどね」
「それにこの見栄えの悪い海藻みたいなものとか、このピクルスみたいのも一緒に食べると美味しいわよね」
「うちは大量に白米を消費する、マリーが居ますから。
佃煮とか漬物は彼女がセレクトしたものだけを、仕入れるようにしてるんです」
「へえっ、マリーは『ご飯の友』担当なんですね。
ハンバーガー以外にも、担当があったんだ」
横で作業中のシンがご飯の押し型に白米を詰めながら、関心したように言う。
「それでこれが少量だけ出来る、おこげのお握りです。
まずはグレニスさんに食べて貰いましょうかね。そうだ、マイラも食べてごらん」
シンがおこげの部分が入ったお握りを、まずグレニスに薦める。
昆布醤油で味付けした海苔を巻いていないお握りはほんのりと色が付いているが、出汁の味はそれほど強くないので彼女でも食べやすいだろう。
「香ばしい!
これはセコのパエリアで出来るおこげと同じ感じね。
柔らかい部分もあるから食味が変わって面白いわ!」
スペイン料理も食べ慣れている彼女は、良く火を通して炊き上げたパエリアのおこげの美味しさは既に知っていたようである。
「うまうま!」
お握りを頬張ったマイラは、いつものわかり易い感想である。
もっとも出会って以来、彼女が不味いというコメントを出した場面を見たことが無いのであるが。
「この味の良さが分かるようなら、もうニホン式ゴハンの上級者ですよ」
シンは型押しお握りを作る手を休めずに、美味しそうにおこげご飯を味わう二人を見て笑った。
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「あっ、みんなズルイ!隠れて美味しいものを食べてる!」
厨房に人が集まっているのを察知したマリーが、いつの間にかキッチンに現れて抗議の声を上げる。
「隠れてないって……シン君どう?もう出来そうかな?」
「ええ。こんなに大量に作ったのは生まれて初めてですよ」
シンは大判のテフロンフライパンの上で、何かを焼いているようだ。
醤油が焦げる香ばしい匂いが、ガス台の傍に漂っている。
「この同じサイズのお握りの山は……これってみんな綺麗な焦げ目が付いてるけど?」
おこげが入ったお握りを食べ終えたグレニスは、大皿に並べられた焦げ茶色のお握りを不思議そうに見ている。
「これがニホンの伝統食の『焼きお握り』です。あまった試食用のご飯は、全部これで食べきりましょう。
マリー、リビングに行って皆で食べるよ!」
焼きお握りは単純に焦げ目を付けただけでは無く、ジャコや昆布、鰹節を混ぜ込んで飽きないように味の変化を付けてある。
シンはお握りが大量に載った大皿と、ほうじ茶用の急須をワゴンに乗せてキッチンへ移動を開始する。
「了解!」
「らじゃ!」
マリーのいつもの敬礼を真似したマイラの愛らしい様子に、厨房では大きな笑いが起きる。
今日もTokyoオフィスには、平穏な時間が流れているのであった。
お読みいただきありがとうございます。




