038.That's Why
多忙な日常の合間を縫って、シンのレコーディングが開始された。
成り行き上断るという選択肢が無かったレイがプロデュース全般を請け負っているので、シンは自分の演奏だけに専念できるとても良い状況である。
確かにお世話になっているスタジオミュージシャン達の演奏に注文を出したり、ダメ出しをするのはシンの性格から言って難しいだろう。
シンとしては兄貴分として慕っているだけでは無く、ミュージシャンとしても尊敬しているレイに判断の多くを委ねている事に何の不満も感じていないのである。
「スタジオ代も安くないから、できれば今日呼んだメンバーの録音は終わらせたいんだよね。
ベーシックなリズムセクションと大ざっぱなバッキングは入ってるから、まずはボーカルだけ録音しちゃおうか」
ニホン有数のスタジオミュージシャンの面々が格安のギャラで参加してくれているのは、やはりレイの人徳なのであろう。
「まさかシン君のアルバムに、私達が参加することになるなんて。
全く想像できなかった展開だわ」
バックコーラスとボーカルでほぼ全曲に参加しているイズミは、スタジオのコンソールの前で娘を抱っこしているシンに向けて呟く。
娘はシンにすっかり懐いているので、無垢な笑顔を周囲に振り撒きスタジオの雰囲気を和ませている。
「なんで私たちまでここに入る必要があるんでしょうか?」
スタジオ見学という名目で呼び出したトーコとハナ、ルーは、ボーカルブースにいきなり案内され唖然としている。
「折角だから、見学込みでコーラスで参加して貰おうと思ってさ。
イズミさんが居れば、即席の歌唱指導もしてもらえるしね」
「あらっ、噂には聞いていたけど、彼女たち3人ともシン君のガールフレンドなの?」
「ええ、3人とも大事な家族です。
これが最初で最後になる可能性も高いし、クレジットにはちゃんと名前が入るから皆お願い!」
シンの珍しい両手を合わせたお願いのポーズに、トーコとハナはまぁ仕方が無いという表情である。
ルーだけはなぜか目を輝かせて、マイクの前でノリノリの笑顔を見せている。
「あとはTokyoオフィスの地下スタジオで、シン君自身のパートは納得できるまで時間を掛けられるよ。
プロツールス専用スタジオだから、空いた時間に自分でトラックをどんどん追加するのが可能だしね」
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レイはシンのボーカルやギター、その他のパートの録音について定期的に進行をチェックしている。
6ヶ月という余裕がある期限だとしても、トラック全体のクオリティ確保と円滑な進行管理はプロデューサーの大きな役割の一つである。
「シン君、カバー曲の殆どが、まだ間奏に音の隙間が多いみたいだけど。
ギターのトラックが、丸々空白な箇所が多いよね?」
「それはもちろん、レイさんにソロを入れて貰う為ですよ」
「君名義のアルバムなんだから、君が出来るだけ弾くべきじゃないかな?」
「残念ながら僕の今の腕前じゃ、名曲に割り込んだ演奏で人を感動させるのは難しいです。
ここでレイさんにソロパートやフィルインを入れてもらえば、トラック全体の完成度が高くなると思いますので。ぜひお願いします!」
「……了解。
それとこの曲のリードボーカルのトラックも空白なんだけど、これも誰かに歌って貰う予定なの?」
「はい。
レイさんが良くご存知の方なら、この音域が広いシャウトするボーカルにピッタリだと思いませんか?」
「う~ん……その通りだと思うけど、彼女が了承するかなぁ」
「大丈夫ですよ。
ユウさんとは日頃から何かと貸し借りする間柄ですから、これ位の無理は問題無く聞いて貰える筈です。特にJOBERの分だけでも、ちゃんと歌ってもらわないと」
数日後。
レイの演奏と、ユウのリードボーカル追加で、セッションファイルは一応の完成を見た。
長期休暇前にレイの最終確認でOKが出た音源を米帝に送信したシンは、久しぶりに大きな達成感を感じていたのであった。
☆
テキサス州某所。
長期休暇前にトラック録音を完了したシンは、レイの知人である大物ミュージシャンの自宅を訪れていた。訪問の大きな目的は契約に関して力添えしてくれたお礼だが、直接の知り合いであるレイはミックスダウンとマスタリングの打ち合わせに出張っているので此処には居ない。
(やっぱり凄い豪邸だなぁ)
人造大理石を使ったフェデラル様式風の建物は、テキサス流にあらゆる部分が大きく作られている。
義勇軍から多額のギャラを貰い本物のフェデラル様式であるホワイトハウスに出入りしている割には、シンの金銭感覚は慎ましく庶民そのものである。
特にここ数年はニホンに在住しているので、歩道も広く電柱が見当たらない米帝の高級住宅地の街並みには違和感を感じてしまうのである。
「やぁシン君、良く来てくれたね!
さぁ遠慮無く上がってリラックスしてくれるかな」
レイの知人であるジョーは、到着したシンを自ら玄関口まで出て歓待してくれた。
数日前の電話連絡で空港まで迎えに行くという彼の親切を丁重にお断りした事もあって、シンは恐縮至極である。
大物ミュージシャンは多くの取り巻きに囲まれて自堕落な生活しているという先入観があったシンは、初対面のジョーの地味で堅実な様子にかなり驚いていた。
軍人のようなショートカットの髪型と、プレスが効いたボタンダウンシャツとジーンズ姿は、シンがMVで見慣れた派手な姿と大きく印象が異なっている。
この建物の派手な見掛けから想像するならば、学園の校長先生が出てきた方がよほど違和感が少ないだろうとシンは考えてしまったのである。
「……あの、赤ちゃんが居るんですか?」
広い玄関ホールからリビングへ歩を進めるシンは、赤ん坊の泣き声にすぐに気が付く。
「ああ、まだ小さい娘が泣き出しちゃってね。
妻が今買い物に出かけていてね、もう大変だよ!」
「ちょっと失礼しますね」
広いリビングに設置されたベビーベットへ直行したシンは、泣いている赤ん坊の表情を見て状況をすぐに理解する。
ベビーベットの傍にあった収納から新しいオムツを取り出し、手をアルコール除菌スプレーで消毒してから慣れた手付きでオムツを交換する。
オムツペールは脱臭機能付の高級品なので、オムツの処理に迷わずに済んだのは幸いである。
ジョーは育児経験が乏しいのだろう、シンの手際の良さを傍で関心した表情で見ているだけである。
「ジョーさん、ミルクの作り置きってあります?」
「いや、作り置きは無いけど、キッチンにすぐに作れるように用意はしてあると思う」
調乳ポットや滅菌乾燥済みの哺乳瓶が整然と並んでいるのは、かなり几帳面なママさんなのだろう。
手際よく調乳して温度を流水で調整したシンは、慣れた手付きで授乳を始める。
ミルクを飲んで落ち着いたジョーの娘は、初対面であるシンの腕の中でむずかる事もなくリラックスしている。
伸ばした手でシンの顔をしきりに触っているのは、本能的にシンが安心できる相手であると理解したのだろう。
ちなみに彼女は母親の血を強く引いているのか、ふさふさのブロンドヘアーとぱっちりとした目が印象的な美人さんである。
「ああ、Y●uTubeの子守歌って、こういう状況だったのか!
本当に子供の世話に慣れてるんだね」
ジョーが感嘆の大声を出すが、シンの静かにというジェスチャーで声のボリュームを落として二人は会話を続ける。
冷蔵庫から出したDrP●pperの缶を、グラスや氷を用意せずに無造作にシンの前に置いた彼は、やはり虚飾を嫌う朴訥なテキサス人なのだろう。
シンはレイから聞いていた彼の為人とユニークなエピソードについて、ここで漸く納得できたのであった。
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リビングのソファで二人が音楽の話で盛り上がっていたタイミングで、表に車が停止する音が聞こえた。
「ああ、やっと奥さんが帰ってきたかな」
ここで大きな紙袋を持った、ブロンド・ショートカットの見目麗しい女性が颯爽とリビングに現れる。
「あら貴方、ずいぶんとハンサムなベビーシッターを手配したのね?」
娘を抱きかかえて、あやしているシンを見て彼女は関心したような声を上げる。
「彼はベビーシッターじゃなくて、昨日話したシン君だよ」
「あらら。そうねこの辺じゃ男の子のベビーシッターって聞いたことがないもの。
グレニスよ、宜しく」
「はじめまして、シンです。
お会いできて光栄です」
赤ん坊を抱きながら握った右手は一見ほっそりとしてモデルの様だが、予想に反して掌は固く爪はしっかりと短い。
それはシンの周囲に居る女性達に共通する特徴であるが、大物ミュージシャンの美人妻がこういう『働いている手』をしているのは全くの予想外である。
シンは初対面の彼女に対しての好感度が、この瞬間に一気に高くなったのを感じていた。
「まぁ娘がこんなにご機嫌で、やっぱりハンサム好きなのは私に似たのかしら!」
シンが抱えている赤ん坊を返そうとするが、彼女は何故かむずかってシンと離れるのを嫌がっている。
苦笑いを浮かべてそのまま抱き戻すと、赤ん坊は満足そうにシンにしっかりとしがみ付く。
「最近使用人を全員クビにしてね、お構いが出来なくて恥かしい限りだわ。
もうお昼だから、軽く食べれるものを用意するからちょっと待っていてね」
「ああ、娘さんもミルクを飲んでようやく眠くなったみたいですから、僕もお手伝いしますよ」
大きく欠伸を繰り返す彼女をベビーベットにそっと戻して、シンはグレニスと一緒にキッチンに向かう。
「私はブルーカラーの普通の家の生まれだから、何でも自分でやらないと気が済まなくてね。
でもハンサムな男の子に手伝って貰えるのは、大歓迎だわ」
グレニスは紙袋から食料品を取り出して、冷蔵庫や保管棚に収納していく。
キッチンの使い込まれた調理器具や新しい日付の食材をきちんと奥から並べている様子を見て、シンは彼女にはかなり本格的な飲食業の経験があるのではと推察する。
「これは随分と立派なIH炊飯ジャーですね?」
「ジョーがニホンツアーで食べた白米をえらく気に入って、アキハバラで買って来たのよ。
マニュアル通りに炊いてるんだけど、味があんまり良くないのよね」
「お米はどれですか?」
ここでグレニスが収納棚に入っていた大きな米袋を、シンに軽々と持ち上げて見せる。
5kgの米袋を軽く片手で持ち上げているということは、彼女は見かけと違って実用的な腕力を持ち合わせているようだ。
「ああ、カリフォルニア産の上等なコシヒカリの無洗米ですね。
粒も乾燥して割れたりしてないし、上手く炊けないならそれはたぶん水の問題でしょう。
ここは水道水が硬水だと聞いてますから、お米を炊く前の準備がちょっと違ってくるんですよ」
「準備って……浄水器を通しただけじゃダメなの?」
「軟水器というのがありますから、それを使うと簡単に解決するんですけどね。
ああ、この冷蔵庫のミネラルウォーターが軟水ですから、これを使えば良いですね」
「シン君、もし出来るなら炊き方のお手本を見せてくれると嬉しいのだけれど……」
「冷蔵庫には材料が沢山ありそうですし、お米の炊き方も含めて何かニホン的な料理を作りましょうか?」
「お客様なのに、子守をさせた上に料理まで作って貰うなんて、申し訳ないわね」
「いいえ、今日はジョーさんにお礼を言うために来てますからこれ位は当然ですよ」
シンは白米を軽量カップで計り、IH炊飯ジャーの内釜に入れていく。
「お米は最初に触れる水を吸いますから、まず軟水のミネラルウォーターを注いで軽くかき回します。
水を軽く切った後は、通常の水道水で再度米を軽く研いだ後に、最後に同じミネラルウォーターで水加減するんですよ。
米に給水させて調理する水と、研ぐときに使う水を分けるこのひと手間で、味が大分違ってくる筈です」
内釜をセットしてIH炊飯ジャーをスタートさせたシンは、今度は冷蔵庫の扉を開ける。
「ああ、冷凍されてない本場の牛肉がありますね!
このブロックを使って良いですか?」
「えっ、冷凍されていないって……それって当たり前じゃないの?」
「今僕が住んでいるニホンでは、米帝産の牛肉は半分位は冷凍されて入ってくるんですよ。
チルドで輸入されてるプライムビーフは値段も高くて、ニホン産の高い牛肉と値段が変わらなくなりますから」
サーロインのブロック肉から切り出した厚さ1cm程の牛肉をすじ切りし、シンは肉叩き代わりの大きな牛刀の背で叩いていく。
処理が終わった牛肉は軽く塩と胡椒で下味をつけて、調理用バットに並べていく。
「随分と薄く切るのね?」
「ええ、日本の丼という料理は炊いたご飯と一緒に食べるんで、歯ごたえを調整しないとバランスが悪いんですよ。
これと同じ手順で、人数分のスライスを作って貰えますか?」
グレニスは筋切りや牛肉を叩く意味をしっかりと理解していたようで、慣れた手つきで包丁を使っている。
シンは横目で彼女の様子を見ながら、電子レンジでラップ加熱したジャガイモを使ってマッシュポテトを作っていく。
「シン君って、本職はハウスキーパーなの?
子守も上手だし、包丁使いもプロの料理人みたいよね」
「いえ、普通の学生ですよ。
ちょっと特殊な環境なんで、毎日の食事の支度とアルバイトに忙しいですけど。
グレニスさんこそ、包丁の扱いが上手ですよね?」
間に合わせのバッター液とフードプロセッサで急遽作った細かいパン粉で、先に切った牛肉に薄い衣を付けながらシンは応える。
「ジョーと一緒になる前は、テックスメックスの店をやっていたのよ。
妊娠が判って店は閉めたのだけれど、将来はまた再開したいと思ってるの」
「じゃぁこんどお邪魔した時には、本場のテックスメックスをご馳走して下さいね!
料理のコツとかも、色々と教えて貰いたいし」
「Why Not!」
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和やかな雑談を交えながら、シンの調理は続く。
「最後の味付けに使うHE●NZのデミグラスソースは大雑把な味なんで、少し手を加えてニホン風にします」
片手鍋に開けた缶詰の中身を、ブイヨンの粉末やケチャップ、はちみつ、醤油を加えて味を調整していく。
シンに味見を促されたグレニスは、かなり旨み成分が強い味に驚いているようだ。
本場のテックスメックスは、薄味でしかもぼんやりした味付けが多いのをシンは過去の経験で理解している。
「ねぇシン君、これって味が濃すぎないかな?」
「大丈夫です。
味が薄い牛肉と味が付いていないご飯の両方に掛けるので、これ位の味の強さが必要なんですよ」
彼女の反応をあらかじめ予想していたのか、シンは笑顔で応える。
ご飯が炊きあがるタイミングで、シンはフライパンで衣が付いた牛肉を少ない植物油で揚げていく。
揚げ時間はトンカツに比べるかなり短いが、バットに上げると余熱でぎりぎり火が通るタイミングである。
これはレア状態を食べても問題無い牛肉や、SPFポークでのみ使える調理法である。
揚がった牛カツを包丁でカットして、深さのある器にご飯と一緒に盛り付けソースを掛ける。
最後に付け合わせのマッシュポテトと、レタスの千切りを添えて完成である。
「これがニホン料理なの?
私が考えていたのと、出来上がりのイメージがかなり違うわね」
「コーベとか南の方で食べられている、庶民向けの料理なんですよ。
基本は丼というジャンルの料理なんで、ご飯と牛カツとソースを出来るだけ一緒に食べて下さい」
「おおっ、これこれ!ニホンで食べたお米の味だよ!
ニホンで食べたカツカレーに近いけど、このメニューも気に入ったよ!」
「あら、ソースが味見した時と違って重く感じないわ!
全部が一緒になると、バランスが取れた味になるのね。
それにお肉も油で揚げてるのに、さっぱりしていて食べやすいわね」
間に合わせの材料で作ったシンの『カツメシ』は、概ね好評だったようである。
ご当地料理の珍しいレパートリーを惜しげなく伝授してくれたユウに、シンは心の中で秘かに感謝していたのであった。
お読みいただきありがとうございます。




