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026.And Now My Lifesong Sings

 ある日のヒガシイケブクロ地下街。


 このエリアは通学時に頻繁に通るので、学園関係者にはとても馴染み深い場所である。

 さらに飲食店街も併設したショッピングエリアなので、学園以外の知り合いと偶然顔を合わせる機会も多い。

 今日のシンとエイミーは学校帰りにとあるレストランに向けて歩いていたが、此処で普段の生活では滅多に聞かない声を耳にする事になる。


「Waa、Waa、Waa!」


 赤ん坊の盛大な泣き声が響いているのは、噴水広場と呼ばれる吹き抜けがある大きな空間である。

 平日のランチタイム後なので人影も疎らだが、それでも行き交う人々は大きな泣き声を上げる赤ん坊に迷惑そうな表情を浮かべている。

 ちなみにこの場所はアイドルのキャンペーンなどにも使用されるので、周囲には休憩ができるベンチが多数設置されている。


 泣き止まない赤ん坊に右往左往している若い女性が目に入るが、シンは彼女が自分の知り合いである事に直ぐに気が付く。

 彼女は業界ではかなり知られているスタジオボーカリストで、有名グループのバックコーラスやCMソングでコンスタントに活躍している。

 出産間際になってからはレイ主催のセッションで会うことも無くなったが、気さくな人柄で人当たりの良い彼女のことをシンはしっかりと覚えていたのである。


「イズミさん、大丈夫ですか?」


「あら、シン君ひさしぶり!

 こんな場所で娘がぐずっちゃって、もう大変なのよ!」

 ボーカリストの血を引いているので泣き声が大きい訳では無いだろうが、泣き止まない原因が新米ママで余裕の無い彼女にはさっぱりと分からないのだろう。


「ちょっと失礼しますね」

 シンはベビーカーに手を伸ばすと、泣き止まない赤ん坊を慣れた手つきで抱き上げる。

 ベビーカーの中で激しく泣いていた赤ん坊が、初対面の筈のシンの腕の中に収まると途端に大人しくなった。

 おまけに普段は人見知りが激しい筈なのに、あやしているシンの腕の中でキャッキャと嬉しそうな声を出しすっかりと機嫌が直っている。


「首がしっかりとしてますから、もう4カ月位になりますか?

 イズミさんの血を引いて、目がぱっちりとした美人さんですね」


「ねぇシン君、なんでそんなに赤ちゃんの扱いが上手なの?」

 

「子守は慣れてますからね。

 え~と、ミルクの作り置きはありますか?」

 抱き上げた赤ん坊の表情を間近で見たシンは、彼女の出している無言のメッセージをいつの間にか理解していた。


「うん。今朝作った分がここにあるけど」

 やっと大人しくなった自分の娘に安堵しながら、イズミはシンに遠慮がちに哺乳瓶を手渡す。

 先ほどの泣き止まなかった恐怖心があるので、今は新米ママとして少し腰が引けているのだろう。


 シンは哺乳瓶の温度を掌で確認してから飲ませ始めるが、ベンチで赤ん坊を横抱きにした姿は自然で授乳するのに慣れているのが分かる。

 むずかる事なく飲み終えた赤ん坊の背中を優しく摩ると、彼女はコホッと小さくゲップを繰り返す。


 他人の赤ん坊の涎まみれの手でべたべた触られて、しかもミルクの飛沫が口から飛んでいてもシンは一向に気にした様子は無い。

 潔癖症でしかも完璧主義者であるイズミは、その様子を見てシンが本当に子育てに慣れているのだと理解する。


「オムツの予備って、持ってますか?」

 今度は抱いていた赤ん坊の異変に、シンは直ぐに気が付いたようだ。


「うん、もちろん。

 でもオムツの交換なら……」


「じゃぁちょっと失礼して……これで良しっと」

 公共の場所のベンチでオムツ交換は褒められた行為では無いが、母親が遮る間もなくあっという間にオムツを取り替えたシンは赤ん坊を再び抱きかかえる。

 赤ん坊は手際よく自分の世話をしてくれているシンを無垢な眼差しでじっと見つめているが、まるでシンが実の父親であるような光景である。


「オムツの取替えも慣れてるよね……その年で子供が居るとは思えないけど。

 もしかして年を誤魔化してない?」

 衆人のプレッシャーの中で落ち着かなかったイズミの表情が、シンの一連の手伝いでやっと和らいだものに変わっている。

 赤ん坊は母親の変化を敏感に察したのか、シンの腕の中ですっかりとリラックス状態である。


「えっと、彼女がうとうとしてますんで、その話はちょっと待って下さい。

 いつもお昼寝の時間は、今頃ですか?」


「そうだね、いつもこの位の時間だと思うけど。

 この子寝つきが悪いから、眠るまで時間が掛かって大変なんだよね」


 抱っこした赤ん坊をあやしながら、シンが小さいが良く通る声で歌い始める。

 アカペラで奏でるその澄んだ歌声は、噴水広場の吹き抜けの空間に心地よく響き渡る。


♪Amazing Grace♪


 子供をあやしながら若い男性が口ずさむその歌声に、通りがかった人たちは抗うことができずに足を止める。

 シャウトするでも無い小さな声なのに、その歌声は耳を捉えて離さない。

 

 若い男性が抱っこしている赤ん坊、若い母親が連れている小さい女の子。

 この組み合わせは遠目で見れば、買い物に来た仲良し一家に見えないこともないだろう。


 シンのアイコンタクトに応じて、イズミも主旋律のボーカルを歌い出す。

 一緒にフリー・セッションのコーラスを務めていたので、これくらいの臨機応変のコミュニケーションは難しく無い。

 歌い始めた彼女は、早朝から自分の中に溜め込んでいたストレスがあっという間に霧散していくのが分かる。

 二人の歌声は混じり合い、即席のコーラスとはいえ完璧なハーモニーを奏でている。


 赤ん坊の泣き声に非難の目を向けていたベンチの人達も、美しいユニゾンの響きに目を潤ませて聞きほれている。

 何故かシンの歌声を聴きなれている筈のエイミーも、二人が奏でるハーモニーに感動したのかしきりにハンカチで瞼を押さえている。


 子守歌の効果なのか、シンの腕の中で赤ん坊はしっかりと入眠したようだ。

 歌い終えたシンは静かに立ちあがると、イズミに向けて小声で呟く。


「車で来てるんですよね?このまま駐車場まで送りますよ」


 周囲の人達は二人のパフォーマンスに感動し拍手喝采しそうな勢いだったが、シンの静粛を求めるジェスチャーを目にして静かにその場を立ち去っていく。

 赤ん坊の子守唄に感動して騒いではそれこそ本末転倒であると、ニホン人らしい細かい気遣いで彼らは理解したのであろう。

 スヤスヤと熟睡している娘を驚きの目で眺めながら、イズミはシンの後を追って駐車場へと歩き始めたのであった。


 ⁎⁎⁎⁎⁎⁎


「シン君、有難う!

 さっきはテンパってたから、ほんとに助かったわ。

 それにしてもストリートで人を集めるだけあって、君の歌声って凄いのね!」

 チャイルドシートで安らかに寝息を立てている娘を見ながら、彼女はシンに感謝の言葉を述べる。


「いえ、注目されてたのは僕じゃなくてイズミさんじゃないですか?

 僕のボーカルの力なんて、微々たるものですよ」


 ここでシンは先ほど中断していた、自分の身の上を語り始める。

「僕の母親は研究者だったんで、妹の面倒は0歳児の頃から僕が任されていたんですよ」


「ええっ、シン君と妹さんってそんなに年が離れてないよね?」


 彼女はシンに寄り添っているエイミーの姿を見ると、驚いた様子である。

 もちろんイズミはシンの複雑な家庭の事情や出自を知らないので、エイミーが本当の妹では無いのに気が付いていない。


「はい。育児を始めたのは僕が7歳の頃ですかね」

 今のエイミーの姿を見ると計算に齟齬が生じてしまうが、雑談でそこまで詮索する事は無いだろう。


「ちょっと待って?その年齢だとどこの国に住んでいても、ふつう学校に通ってるよね?」


「ええと、僕は母親の英才教育を受けてたんで、ハイスクールには一週間も通ってません。

 すでに6歳の頃にはハイスクールの卒業資格と、大学の入学資格は取得済みでしたから」


「シン君って、俗にいう天才少年だったんだね。

 ニホン語がネイティブ並みに上手なのも、これで納得かな」


「今は料理と育児が得意な、平凡な学生ですけどね。

 ああ、娘さんについて相談があるなら、僕に連絡して貰っても良いですよ。

 離乳食も自分で作るのが得意ですから、気軽に何でも聞いてくださいね」


「うん、ありがとう。

 ママ友が少ないから、頼りにさせて貰うよ!」


「それと、イズミさんは超一流のボーカリストなんですから、情操教育を含めて子守唄を唄ってあげて欲しいな。

 彼女は、きっと将来立派なミュージシャンに育ってくれそうな気がしますよ」



                 ☆



 成り行きで寄り道をしていた二人は、地下駐車場から本来の目的地であるレストランにようやく到着する。

 ハワイの支店であるこの店は、マリーのお気に入りで頻繁に来店していると聞いている。


 4人掛けシートで注文を手早く済ませると、二人は先ほどの駐車場での会話を再開する。


「さっきの赤ちゃん、お母さん似で可愛かったですよね。

 あと、子守唄のハーモニーもとっても素晴らしかったです」


「うん。エイミーが赤ん坊の頃も見てみたかったなぁ」


「今度写真が手に入ったら、見せてあげますよ。

 でも、なんでストリートでああいう曲を披露しないんですか?」


「ニホンの人達は宗教についてニュートラルだしクリスチャンも少ないから、教会じゃない場所でああいう賛美歌を聴くと身構えちゃうんだよ。

 自分だけの演奏をライブハウスで披露する機会があったら、歌ってみようと思ってるけどね」


「じゃぁ寮で演奏する時には、ぜひ聞かせて下さい!

 楽しみにしてますから」

 パンケーキにたっぷりのホイップクリームを塗り付けながら、エイミーはシンにリクエストする。


「うん、エイミーが聴きたいなら喜んで」

 パンケーキを頬張ったエイミーの幸せそうな表情を見ながら、シンは呟いたのであった。

 

 ⁎⁎⁎⁎⁎⁎


 帰宅後の寮のリビングダイニング。


「シン、イケブクロで歌う姿がY●uTubeで公開されてますよ」

 SIDが珍しく、コミュニケーター経由で自分から話し掛けてくる。


「ああ今までもストリートの演奏風景を撮られたのが、何件かあったと思うけど。

 そんなの誰にも注目されてないと思うから、放置しておけば良いんじゃない?」


「それが今回のは『噴水広場で見事なハーモニーで子守唄を歌う若い夫婦』として注目されてるみたいですよ。

 視聴回数もかなりの数字になってますし」

 SIDの追加の発言と同時に、リビングの大画面モニターに再生画面が表示される。

 再生回数は公開直後にも関わらず、すでに5桁に届きそうな勢いである。


「ああ、あの時盗撮されてたのか。

 やっぱりイズミさんの歌声って、凄いなぁ」


「それはイズミさんじゃなくて、シンが注目されているのだと思いますけど」

 エイミーが客観的に指摘するが、自己評価に厳しいシンにはお世辞としか聞こえないらしい。


「まぁ、すぐに飽きられて埋没するだろうから放置しておくよ」

 シンのこの楽観的な態度が騒ぎの原因になるのだが、それはちょっとだけ先の話である。



                 ☆



 翌日のカナガワ某所。


 オーダーしていたストラトがやっと完成したとの連絡を受けて、シンはエイミーを連れて工房へ受け取りに来ていた。

 もちろん荷物の受け取りなので、ジャンプでは無くTokyoオフィスでいつものHV車を借りている。


「シン、Y●uTube見たぞ!やるじゃないか。

 あれって、何かの宣伝の仕込みなんだろう?」

 来客用のソファでシンが持参したカツサンドを頬張りながら、マツが怖い発言をする。

 音楽業界の内幕を良く知っている彼は、プロモーションの暗黒面を良く理解しているのである。


「ええっ、マツさんまで知ってるんですか?

 いや、あれは盗撮動画が投稿されただけで、やらせじゃないんですよ。

 それで完成したのは?」


「ああ、このレイさんから預かったケースに入ってるよ」


 ファイバーグラスで出来ている特注ケースのラッチをパチンパチンと開けると、厳重な内装に包まれたブルーメタリックのストラトが姿を現す。

 薄いラッカーのクリア塗装は、あえてヴィンテージ風のアンバー色を混ぜていないので非常に綺麗な色合いである。


「うわぁ、深みがあるメタリックですね。

 あと凄い軽い!」


「綺麗な色ですね」

 ソファーで一緒にカツサンドを頬張っていたエイミーも、ボディカラーを見て声を上げる。


「そこにレイさん私物のブラックパネルがあるから、試奏してみるか?」


「はい。寮にはちゃんとしたアンプがありませんから」


 繋ぎっ放しになっている年代もののケーブルを出来立てのストラトに直結すると、シンはチューニングを手早く終わらせる。

 ボリュームを絞ってコードを弾いていくが、軽く爪弾いただけでもボディとネックがしっかりと反応しているのが分かる。


「エレキの評価は良くわかりませんけど、なんていうか凄く木が鳴っている感じがしますね」

 聞きなれたレッチリ風のリフを弾いてみると、エフェクターを通していないにも関わらず芯のある低音がスピーカーから飛び出してくる。

 コンプレッサーを自然に掛けたような音の繋がりは、サスティーンがしっかりとあるという事なのだろう。


「ああ、新品なのに50年物のヴィンテージみたいな音がするんだな、こいつは。

 もっとも年代不明の古い材料を使ってるから、これを出来たての新品と呼ぶのはかなり無理があると思うけどな。

 指板のアールとか、フレットはレイさんの好みに合わせてあるけど大丈夫かな?」


「ええ、すごくしっくりきますね」


「そのネック材も、フレックが多くて何十年もほったらかしてあったハードメイプルなんだけどな。

 CNCにかけて見ると、これが素晴らしい材で大当たりなんだよ。

 ボディは妹さんが選んでくれたものだし、これは久々に出来たスペシャルワンだな」


「そんな貴重な一品を、僕なんかが使って良いんですかね?」


「巡りあわせが良いっていうのも、ミュージシャンとしては貴重な才能の一つだからな。

 それにこれから長生きする楽器は、若いミュージシャンに長く使って欲しいじゃないか?

 あと調子が悪い箇所があったら、遠慮無く此処に持ってきてくれよ!」


「はい。ありがとうございました!」

 ギターをリラックスした表情で爪弾くシンを、エイミーが満面の笑顔で見つめている。


「あれっ、エイミーも嬉しそうだね?」


「はい。日ごろ物欲が全く無いシンが嬉しそうにしてるので。

 それに……このギターも私と一緒でシンの膝の上が気に入っているみたいです」

 頬を赤く染めながら、シンにだけ聞こえるようにエイミーは小さく呟いたのであった。

お読みいただきありがとうございます。

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