015.Easy Driver
ハワイベース、シンとエイミーが滞在中の居室。
「シン……お願いがあるんですが?」
シャワールームからバスタオルを巻いて現れたエイミーが、夕食の仕込みでキッチンへ向かおうとしたシンに声を掛ける。
「ん、どうしたの?」
「その、背中まで手が届かないのでローションを……」
「ああ、はいはい。問題ないよ。
ベットに横になって」
「見られるのは慣れちゃってますけど、触られるのはちょっと別なので。
不快なら、トーコにお願いしますけど……」
「えっ、何で?
日々妹の成長を確認するのは、兄としての特典、いや義務だと思うけどね」
バスタオルを広げてベットに横になったエイミーは、シャワー上がりなので当然下着も付けていない全裸である。
シンはまず手渡された炎症を抑えるローションを、滑らかな感触の背中から優しく塗り込んでいく。
シンの脳裏には幼い妹にベビーオイルを使って肌の手入れをした思い出が甦るが、それをエイミーにわざわざ話す必要は無いだろう。
「エイミー、だいぶ筋肉が付いてきたね」
上腕から肘の辺りへローションを塗り込みながら、シンが独り言のように呟く。
「ふふっ、そうですか。あっ、そこはあんまり念入りにやらなくても……」
居室の自動ドアが開いた音がするが、ここに滞在しているのは身内だけなので特にシンは目を向けることもしない。
「シン、いったい何をしてるんでしゅか!」
トーコが入り口から、普段聞いたことが無いような大声を上げる。
語尾がおかしくなっているのは、かなり狼狽している所為であろう。
ベットサイドで寝ていたシリウスが、何事かと顔を上げてトーコをじっと見ている。
「何って、頼まれてローションを塗ってるんだけど?」
「あっ、トーコさんも日焼けが痛いって言ってましたよね。
シンに塗って貰ったらどうですか?マッサージみたいでとっても気持ち良いですよ」
「け、け、けっ、こっ、結構ですっ!」
顔が茹蛸の様に真っ赤になりながら、踵をかえしてトーコがドアから出ていく。
「??」
「ははは、鶏の鳴き真似をしてるみたいだったね」
シンがエイミーの身体に残ったローションを、シャワールームで用意した蒸しタオルで拭き取っていく。
「トーコさんって、別にミッション・スクール出身とかじゃありませんよね?」
「ああ、対人恐怖症気味ではあるけど、特に男性が苦手ってことはないと思うけど」
「シン、一緒にお風呂に入ったりして矯正しないといけませんね」
エイミーはクローゼットから取り出した下着を着けながら呟く。
「う~ん、それは彼女にはまだまだハードルが高いかなぁ……」
☆
「シン、この体勢は狭苦しい座席と違ってとってもゴキゲン!
おまけにテレスコープも要らない距離まで接近できるから、消耗が少なくてとってもラクチン!」
高度は既にドラゴンレディでは上昇不可能な4万メートル付近に到達しているだろうか。
シンと彼に横抱きされたマリーは、現在デブリ処理を二人コンビで行う為のテスト飛行中である。
上機嫌の彼女は、普段に無くハイテンションで饒舌になっている。
「ターゲットを認識できたなら、とっとと帰還しようか。
あれっ?」
亜空間飛行中のシンの周囲に、細かい光のようなものが多数通過していく。
太陽光に反射しているのだろうか、まるで蛍の群れの中を突っ切っているような感じである。
「ねぇ、マリー、今のは何?」
「細かいサイズのデブリ。10cm以下のデブリはカタログに載っていないからかなり厄介。
通常ドラゴンレディの高度には存在しなから、実害は無いけど」
「ふぅ~ん、あれがデブリの現物かぁ」
マリーを抱えたシンはオワフ上空から市街地が見える高さまで一瞬で急降下すると、滑らかな飛行でハワイベース方面へ戻っていく。
「シン、ココパフが食べたい!」
今日は実際の軍事作戦では無いので、エフリクトを行使していないマリーは消耗も無く元気そのものである。
「ココパフって、あのシュークリームみたいなお菓子だよね?」
「あそこに見えるリリハベーカリーで降ろして」
「了解」
シンは人気の無い店のバックヤード付近に着地する。
彼のジャンプは降下する状態では目視出来ないので、市街地で使用してもおかしな噂が立つことも無い。
スキップして店内に入っていったマリーは、正面のショーウインドに張り付くように接近して商品を物色している。
「シン、ココパフを全種類と、あとシャンテリーケーキもホールで3つ!」
マリーは当然財布など持っていないので、シンは財布を出しながら店員さんにマリーの注文を伝えていく。
「食べ歩きはシンのジャンプが最高!」
ホールケーキの積み重なった箱を抱えながら、予定外の甘味を手に入れてマリーは更にご機嫌である。
「ははは、褒めてくれてありがとう」
バックパック満杯に詰め込まれたお菓子と、横抱きをしたマリーを運搬しながらシンは苦笑を浮かべていたのであった。
⁎⁎⁎⁎⁎⁎
「5万メートルでも問題無く上がれるなら、ほぼ成層圏の上限まで行けてるという事か。
まぁ惑星間の移動ができるんだから、今更かも知れないが」
マリーには甘々であるフウは、リビングに入ってきた彼女が抱えている大量のケーキの箱を見ても特に何もコメントしない。
「ほぼすべての衛星デブリを、処理可能になりますわ。
それ以外にも大気圏に突入しそうな、大きめの隕石の除去も可能なのでは?」
アンの発言は英語なのでニホン語のお嬢様言葉のニュアンスは無いのだが、脳内変換されるのかそれっぽく聞こえるのが不思議である。
「いや重要な点を忘れているな。亜空間飛行中は通信手段が無いし、計器も無いから衛星の現在位置を把握できないんじゃないか?
アンキレーに入力出来る座標軸を正確に指定できれば可能だとは思うが、そもそもそれを特定できる手段が無いしな」
「じゃぁ今日のテストは、何で上手く行ったんでしょう?
マリーは地上からのナビゲーション無しで、目標を正確に捕捉してましたよね」
「マリー?」
「それは当然。見慣れたハワイの空なら星座の位置から方位と衛星の大体の位置は分かるし、接近できるので衛星の外見からも確認できたから。
過去に数十の衛星を処理して来たから、その経験は伊達じゃない」
「I didn’t recognize you」
アンはニホン風にお辞儀をしながら、大袈裟な言い方でマリーに謝罪する。
「えっへん」
マリーは薄い胸を反らしながら、後ろに倒れそうである。
「マリー、これでテストは終了したけど、どうする?
Tokyoに戻るなら、シンに運んで貰うが」
位置確定についての手段についてはまだ懸念があるようだが、とりあえずフウはテストの終了を宣言する。
「まだ食べていないデザート店が沢山あるから、もうしばらくここで休暇する。
シンの作るご飯も美味しいし」
シャンテリークリームを頬につけながら、幸せそうにケーキを頬張るマリーは満面の笑みで答えたのであった。
☆
翌朝。
「敷地が広いと、朝のジョギングも気持ち良いですね!」
「折角オワフに居るんだから、できるだけ満喫しないとね」
Tokyoオフィスに居る時には二人してトレッドミルを使っているが、今日は屋外で普通にジョギングしているシンとマリーである。
シリウスは昨日ビーチで暴れすぎたのか、まだベットの横ですやすやと眠っているようだ。
ハワイベースの敷地は、テストコースに偽装した滑走路も含めて私有地としてはとても広い。
プライベートビーチに至る一角はすべてCongohの所有地なので、ジョギングには最適の環境なのである。
「おはよう」
「おはようございます」
反対方向から戻ってきたゾーイはシン達よりもスタートが早かったのか、トレーニングウエアにはしっかりと汗染みが出来ている。
「ゾーイさんって、司令官なんですよね。
偉い人でも、コンディションを整える必要があるんでしょうか?」
「フウさんだって、毎朝のトレッドミルや筋トレは欠かさないからね。
メトセラは体の調整機能が高いけど、いざという時に動けないと困るからね」
⁎⁎⁎⁎⁎⁎
ヒッカム基地、回転翼飛行訓練の昼休憩中。
ハンガーの片隅で、シンは教官であるゾーイと持参した軽食を摂っている。
ピクニックに持ち込むような大きなバスケットには、ラップに包まれた大量のおにぎりが並んでいる。
「ライスポウルか……握り寿司に比べると色合いが地味だな」
「ははは。この黒い海苔は欧米の人は違和感があるみたいですけど、これが美味しさの一つでもありますからね。近場でプレートランチを買っても良いんですが、大味ですぐに飽きちゃいますから」
「このおにぎりっていうのも、寿司と同じで口の中でほぐれるんだな。
おおっ、これは甘辛く味付けした牛肉が入ってるのか?」
「他にもほぐしたサーモンとか、高菜とかの具もありますよ」
「こうした冷めたライスを食べてると気が付くが、使っているお米がほんのりと甘いんだな」
「ええ。定期配送便で納入している銘柄米は、産地や生産者指定ですからね。
炊き方が拙くなければ、かなり甘味があってモチモチとした食感に炊き上がりますよ」
「これはやっぱり炊飯器とか、水の違いが大きいのかな?」
カーメリで炊飯を失敗した経験があるのか、ゾーイは真剣そのものである。
「そうですね。欧州は硬水のところが多いですから、まず軟水器が無いとこの味にはならないと思います。
あとはニホンメーカーの高性能なIH炊飯器ですかね」
「帰ったら、炊飯器と調理に使う水はさっそく確認しないとな」
「水に関してはアリゾナベースにも軟水器がありましたから、大丈夫だと思いますけどね。
それに炊き上がりが良いご飯だと、ユウさんの特製ルーを掛けたカレーライスもより美味しくいただけますから」
⁎⁎⁎⁎⁎⁎
「あれっ、ハナまだ起きてるの?」
深夜キッチンで簡単な調理をしていたシンは、リビングでラップトップを広げて腕組みしているハナに声を掛ける。
「ええ、ビーチで昼寝してる時間が長いですから、ここに来て完全に夜型になっちゃいました。
部屋に籠っていると煮詰まりそうなので、気分転換です」
「ビールを飲むつもりで来たんだけど、一緒にどう?」
リビングに設置してある飲み物専用の冷蔵庫を開けながら、シンが尋ねる。
「ええ、いただきます。
ここは、Tokyoと違って生ビールじゃないんですね」
冷えたパイントグラスに注がれる、琥珀色のラガービールを見ながらハナが呟く。
ハワイの地ビールは種類が豊富で、特にラガービールはニホン産よりも味が軽いのでシンの好みにぴったりなのである。
「うん。Tokyoオフィスは、ルート販売しているビールメーカーが機器の洗浄とかビア樽の交換を請け負ってくれてるからね。
もっとも隣接した3箇所で契約してるから、無理を聞いて貰えるみたいだけど」
「夜食だと重いのは辛いから軽いサンドイッチだけど、良かったらどうぞ」
シンがツマミとして用意したのは、薄くスライスしたピクルスと分厚いハムだけのシンプルなサンドイッチである。
「あっ、このパンドゥミ美味しいですね」
「ハワイだと美味しいパンドゥミを手に入れるのが難しいけど、偶然見つけた日系人のおじさんがやってる店から仕入れたんだ」
「シンと一緒に居ると、どこでも美味しいものが食べられて幸せですね」
「いつも食事をしていたダイナーは、美味しくなかったの?」
「いえ、身贔屓では無くてとっても美味しいお店でしたよ。
ただボリュームがあり過ぎるのが難点でしたけど」
「なるほど」
「歴史が長い由緒あるお店で、レイさんも子供の頃は常連だったらしいです。
店のマスターやウエイトレスのおばさんも良くしてくれましたけど、やっぱり一人で食事するのは味気なかったですね」
「今度そのお店に連れていってよ。
レイさんが子供の頃どんなメニューを食べていたのか、とっても興味があるから」
「ええ、ぜひ一緒に行きましょう」
☆
翌日のヒッカム基地。
AH-1から始まったシンの回転翼講習だが、現在では修理が完了したロビンソンR22を使って訓練は続けられている。
機体を変更した大きな理由は、ヒッカムに整備依頼したAH-1が整備不良でまともに飛べなくなった点にある。
米帝陸軍で長く使われていた機体ではあるが空軍基地であるヒッカムの新しい世代の整備兵には手に負えず、結局ハワイベースの整備主任のように細部まで整備できる人間が誰も居なかったのである。
代替機のロビンソンは世界的なベストセラー機体で安定性も高く操縦も楽であり、何よりフライトスーツに着替える必要が無いのが素晴らしい。
「シン、初級講習の実技カリキュラムはこれにて終了だ。
ほぼ予定通りで、想像以上にスムースに終わったな」
「AH-1と比べると、R22は操縦が楽で後半はペースアップできましたからね。
じゃぁ、筆記試験は明日受けられますかね?」
「ああ、無事に受かれば、そのまま続けて事業免許用にフライト時間を稼がないとな」
「ゾーイさん、前から聞きたかった事があるんですが?」
「ん、何かな」
「義勇軍の機体を飛ばすにはライセンスは必要無いってユウさんから聞いた記憶があるんですが、それは本当なんですか?」
「ああ、その通りだ。
ニホンの防衛隊みたいに厳密な内部規定も無いから、基本的にはFAAの自家用免許さえあればF-16を操縦しても誰も文句は言えないだろうね。
本来はFAAの免許も不要なんだが、それだと海外でチャーターした機体を操縦出来ないからな」
「なるほど」
「Profit is better than fame(名を捨てて実を取る)というのが、義勇軍のモットーだからな。
実際に戦闘で生き残れる腕前が何よりも重要であって、別に書類上で資格どうなってるかなんて関係ないだろう?
アンみたいにワコージェットを操縦する機会が多い場合には、ちゃんとFAAの機種別ライセンスを取得してるし、まぁケースバイケースなんだけどな」
「……」
「お前も一応パイロットの範疇に入るから、義勇軍の規定から言ってまもなく特務兵(伍長)から少尉に昇進するだろう。
だが戦闘ヘリのパイロットとしてはノービスだから、これから地道に鍛えないと実戦では厳しいだろうな」
「AH-1の戦闘シミュレーターって、無いんですか?」
「ああ、多分アラスカの倉庫にあると思うが、Tokyoオフィスの地下に置きたいのかい?」
「ええ。ハワイベースに来るのは簡単ですが、ジョンさんにせっかく整備して貰っても制空権の問題もあって簡単には飛ばせないと思いますから」
「じゃぁレイと相談してみようか」
「ぜひお願いします。
今後も搭乗する機会があるなら、今回の経験を無駄にしたくありませんから」
お読みいただきありがとうございます。




