012.The Inside Story
夜半のリビングでは、シンがいつもの自習中である。
テーブルの上には水道水が入っていた、大き目のパイントグラスが空のまま置いてある。
居室からふらふらっと出てきたハナは喉が渇いているらしく、飲み物専用の冷蔵ショーケースの中からエンジ色の炭酸飲料を取り出した。
設置面積が必要な自販機の代わりに置かれたこの冷蔵ショーケースは、大手飲料メーカーが中の商品を定期的に補充している。
シンのすぐ横のソファに腰かけたハナは、テキサス発祥である飲み慣れた味を口に含み小さくため息を付いた。
「まだ時差ボケが直らない?」
「ええ、運動をしっかりした割には眠くならなくて」
「ねぇ、ハナはどうして雫谷学園に転校して来たの?」
夜も遅い時間帯なので、声が廊下まで響かないようにシンは囁き声で彼女へ問いかける。
「それは勿論、シンと同じ学び舎で……」
ハナは疲れているのかいつもよりも低いテンションでポツリと呟いているが、それを遮るように直ぐにシンが言葉を返す。
「大丈夫。僕はそんなに自惚れが強くないから。
遠く離れたトーキョーまでわざわざ来たのは、他に何か大きな理由があるんでしょ?」
「……」
「おっと、無理に聞き出すような事じゃないかな。
ご免ね、また機会を改めて聞かせてくれる?」
「……ちょっと長い話になりますけど、今はシンと二人きりですので聞いて貰えますか?」
「もちろん」
シンは読んでいた分厚い航空法のテキストをパタリと閉じると、ハナの目をしっかりと見つめる。
「シンと同じ学び舎で過ごしてみたいというのは私の本音で、編入試験を受けてここに来た一番の理由でもあります。
ですが、……それ以外の理由も少しだけあるんです。
シンはメトセラの遺伝子記憶について、何か知っていますか?」
「ええと、僕が知っているのはレイさんが、その記憶を使ってSIDを作ったという事だけかな」
シンは目の前に置いてあった空のパイントグラスを手に取ると、グラスを傾けたままでビールサーバーから半分ほどを注ぎ入れる。
次にグラスを垂直にして静かにレバーを下ろし、仕上げの綺麗な泡の層を作っていく。
どうやらハナが缶飲料を美味しそうに飲んでいるのを見て、シンも喉の渇きを強く感じたようだ。
「元々遺伝子記憶を持っているメトセラは、非常に少数だと言われています。
また遺伝子記憶はその記憶を理解できる基礎的な知識が欠けている場合には、人に伝える事が出来ませんから意味を成しません。
メトセラが古来より生業としていた冶金術は遺伝子記憶が一助となって発展したと言われていますが、遺伝子記憶が再び注目されるようになったのは電子工学が急速に発展した最近の事でしょう」
「DARPAによって世に出ることになったSyNAPSEは脳の演算能力を再現するために開発された技術で、本来はAIを作る為の構成単位では無かった筈です。
レイさんが設計した最初期のSIDの設計図は『脳細胞をエミュレートしたチップ』の存在が前提になっているもので、DARPAの支援でSyNAPSEが作られなければ複雑過ぎて実現は不可能だったでしょう」
「その設計詳細はCongohの秘匿データベースから閲覧できるので、AIに関して興味があった私はレイさんが作成した詳細な回路設計や技術文書を頻繁に閲覧するようになりました。
そしてある日突然、その回路図を見ていて気が付いたんです。
この公表されている図面は、意図的に隠匿されて記載されていない部分があると」
「私が頭の中に埋もれている膨大な記憶に気が付いたのは、この瞬間です。
もちろん私は神経科学の知識を全く持っていませんから、脳裏に浮かんだ複雑な回路構成については私が無意識に作り出したものでは有り得ません」
「と同時にある疑問を強く感じるようになったんです。
このAIに対する興味は、本当に自分自身から出ているのだろうか?
コンピュータサイエンスに抱いている強い興味や愛着も、もしかして遺伝子記憶に誘導されているのではないかと」
「遺伝子記憶を持っているが故に、自分の行動がそれに影響を受けているとしたらそれは自分の意志では無いという事になります。
『単なる因果性のジレンマ』なのかも知れませんが、記憶に対する影響で自分の行動が縛られているのならそれは到底納得できません」
「それは思い悩むよりもメトセラの生化学の権威であるナナさんか、SIDを設計したレイさんに直接聞いてみた方が納得できると思うけど」
ビールで喉を潤しながら、シンは傍観者としての立場で冷静に言葉を返す。
「ええ。つまり、お二方が居るのも私がトーキョーに来た理由の一つなんです。
さすがに先日のレイさんとの初対面でこの話題を持ち出すのは躊躇われたので、まだ具体的な話はしていませんが」
「自分で考えても結論を出せないだろうし、レイさんの客観的な意見なら参考になると思うな。
まぁ僕はレイさんを尊敬しているから、贔屓目があるのは否定できないけどね」
数日後のTokyoオフィス。
個人的な相談という理由でアポイントメントを取ったハナは、早朝からリビングでレイが作った朝食を食べていた。
アドバイスを貰ったシンはもちろん、他に寮の仲間が誰も同行していないのはあくまでも個人的な相談だからである。
彼女の目の前には、フルーツが沢山盛り付けられた懐かしい香りがするパンケーキが置かれている。
このテキサス風のパンケーキはレイが自分の朝食用に頻繁に作っているもので、バターミルクの風味が強い特別なミックス粉を使っている。
深刻な相談なので身構えて来たのだが、ご無沙汰している故郷の味をハナが無視することは難しい。
彼女はしっかりとパンケーキを食べながら、結果的にリラックスした雰囲気の中でレイの話を聞くことになった。
「それは僕も君の年齢の頃に、考えたことがあるよ。
メトセラの行動規範に遺伝子記憶がどう影響しているのか、やっぱり気になるよね」
レイはハナのかなりシリアスな相談内容に気負った様子も無く、パンケーキを頬張りながらリラックスした口調で会話を続ける。
「生化学的には、遺伝子に行動に対する制限を組み込むのは難しいみたいだし、あくまでも自由意志だけで動いているというのが僕の見解だけどね。
ちなみに、この惑星でも遺伝子記憶から生成した兵器を使って、残虐非道な行為や私利私欲で自滅したメトセラが過去に何人か居たみたいだし」
「それは……私もプロメテウスのデータベースを検索してみましたが、該当しそうな人物は出てきませんでしたけど?」
「ああ、それは遺伝子記憶をキーワードにして、僕が検索しても同じ結果になるだろうね。
閲覧権限について、制限があるからじゃないかな」
「ただし検索方法を変えて惑星破壊や人類滅亡とかの物騒なキーワードで辿っていくと、色んな事例が出てくるんだ。
地球の施政者すら躊躇いそうな怖いことをやったメトセラが、実際に居たなんてビックリだよね。
もし遺伝子に行動規範が組み込まれていたら、こんな無茶な事を起こすメトセラは出てこないと思わない?」
「もしAIに関して強い興味が持てるなら、それはハナ自身の思考が作り出したものだから遺伝子記憶とは何の関係も無いんじゃないかな。
遺伝子記憶はあくまでも『技術の語り部』にしか過ぎないし、それ以上の何者でもないと僕は考えているけどね」
生クリームとシロップにしっかりと浸ったパンケーキを頬張り、よく冷えたアイスティーを飲みながら二人の会話は続く。
「追加でAIを作らなかった理由?
ああそれは、またゼロから子育てする時間的な余裕が無かったというシンプルな理由なんだ。
SIDが現在の形で運用できるようになるまで、付きっきりで10年以上の時間が掛かっているしね」
「レイさんはNASAやDARPAでも多彩な活動をされていたと聞いていますので、付きっきりというのは大袈裟なのでは?」
「いや間違ってはいないと思うよ。いま使われているコミュニケーターの原型は、SIDの教育のためだけに開発したものだから。
僕はシン君みたいに、子供をあやしてオムツを替えたりミルクを与えた育児経験はないけど、子育ての教育部分に関してはちょっと自信があるんだ」
「SIDには『何とか三原則』とかの禁則事項は設定していないのを知ってるよね?」
「はい」
「自分自身の遺伝子に行動規範が設定されていないのと同様に、AIにそれが必要だと僕は考える事が出来なかったんだ。
その代わり僕はSIDを愛情を持って育てた自信があるし、SIDはヒューマノイドに対して愛情を感じることはあっても危害を加えるような事はないと確信しているよ。
どうかな、SID?」
「愛情を感じていたかなんて、そんな恥ずかしい事を答えられる訳ないじゃないですか。
不愉快なので、暫くオフラインにします」
レイの発言の間沈黙を守っていたSIDが、まるで父親に対して拗ねたような言葉を返す。
ちなみにオフラインならば消灯されるコミュニケーターの動作ランプは、そのまま点灯したままである。
そんな様子を見ていたハナは、初めて見たSIDのエモーショナルな反応に心底驚いた表情をしていた。
SIDとは何度か会話をした事があるにしても、生意気な娘が拗ねるような反応をするAIというのは想定外だったのであろう。
「君が今後どうしたいのかは、ハナが自分自身で決めるべきだと思うよ。
コンピュータサイエンスの分野はAIだけではないし、まだ経験が少ないんだから他の分野を専門的に学んでもそれは無駄にはならないだろうしね。
尤も自分のゴーストの囁きに耳を傾ければ、自ずと答えが出てくると思うけど」
レイはポケットからCongohが標準で使っているUSBメモリを取り出すと、ハナに手渡す。
「これは最初期のSIDを構築したときの、技術資料の完全版が入っている。
データベースに入ってる分は、ハナが気が付いたように一部手を加えてあるからね」
「もしAIに関して深く学ぶ気があるなら、この分野のスペシャリストがニホンに一人居るから学園でクラスを受けることが出来るよ。
ちなみにSyNAPSEはアップデートされてより集積度が高くなっているから、今なら新規にAIを作るのも大分楽になっているんじゃないかな」
残っていたパンケーキを頬張りながらハナにウインクをしたレイは、普段の真面目な表情とはまったく違う悪戯を楽しむ少年のような笑みを浮かべていたのであった。
☆
その日の寮の夕食。
シンが作った今日のメニューは、甘辛い味付けのカルビ丼とボリュームがあるメキシコ風のサラダである。
サラダにはアボカドやトマトはもちろん、味付けをした挽肉やトルティーヤチップスまで入っている。
これはエイミーがメキシコ料理を試作した材料の余りなのだが、野菜に混ぜ込まれたチップスは歯ごたえが変わって食欲をそそる絶妙な味である。
久々に寮に戻ってきたルーは、超大盛りにしたカルビ丼を大きなスプーンでかきこんでいる。
「これがブートキャンプで一番人気だったメニューなんだね!
この味付けとカルビの脂身の相性は、確かに癖になりそう」
「ブートキャンプとは違って和牛のスペアリブだから、脂の量が大分多いんだけどね」
醤油の味付けにもすっかり慣れたルーは、ユウとシンのみならずフウやレイの料理まで食べているので、しっかりとグルメに成長しているようである。
「シン、色々と心配してくれて有難う。
レイさんと話をして、大分すっきりしました」
ハナも散蓮華でカルビ丼を食べながら、笑顔でシンに報告する。
「ハナは僕にとっても大事な同級生だから、当然じゃない。
まぁナナさんと会って話を聞くよりは、まずレイさんに相談したのは正解だったと思うよ」
「私は将来的にこの遺伝記憶を継承できる子供を作らないといけないんですが、父親候補が早々に決まって良かったです」
「えっ、そうきたか!」
シンとハナのやり取りを聞きながら、エイミーは聞こえないふりをしてカルビ丼を食べ続けている。
普通の犬なら味付けが濃すぎるだろうカルビ丼をがっつきながら、シリウスは尻尾を千切れんばかりに大きく振っている。
どうやら脂分が多いカルビ丼の味を、気に入ったようである。
「ふふっ、今後とも宜しくお願いしますね」
「ふ~ん、相変わらずモテモテだねぇ」
スプーンを動かす手を止めずに、モゴモゴとルーが呟く。
「ブートキャンプでナンパなんてするから、こんなことに……」
丼を前にしたトーコが箸を片手にブツブツと怨嗟の声を上げるが、その声はシリウスのおかわりを催促する吠え声に消されてシンには届かないのであった。
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