006.Satisfy
都内某所の生化学研究所。
この施設は一般的な医療施設では無いので、外来患者を受け入れていない。
特別な入院患者に割り当てられているのは、ホテルのように豪華な居室である。
「ばっちゃん、具合はどう?」
見舞いに訪れたアキラは、ドアをノックしてから入室している。
こういった世間的な常識も、かなり身についてきたアキラである。
「すっかり良くなったわ。
こんなに体の調子が良いのは、何十年ぶりかしら」
彼女の深いシワが刻まれていた顔は、艶々した肌に変貌している。
控えめに見ても30代前後に見える、活力に溢れた若々しさである。
「じっちゃんの方は?」
「今散歩に出てるけど、あの人もすごく元気になってるわ。
アキラちゃん、良いお医者を紹介してくれて本当にありがとう」
「いえ、ばっちゃんは僕にとって大切な人ですから。
朝生菓子を買ってきましたから、食べて下さい」
「あら、ありがとう。
私が塩大福が好きなのを覚えてたのね」
「おぉアキラ、儂には何か無いのか?」
ここで散歩から帰ってきた『じっちゃん』が、顔を見せる。
もはや爺とは呼びにくい、がっしりとした体格の中年男性である。
「じっちゃんには、みたらし団子を買ってきました」
「今お茶を煎れるわね」
⁎⁎⁎⁎⁎⁎
「まさかこの年で入れ歯が不要になるとは。
うん、自分の歯で噛みしめると団子の旨さも格別だな」
商店街で手に入れた朝生菓子は、ボリュームがあってそれぞれのサイズが大きい。
大ぶりのみたらし団子を次から次へと口に運ぶ健啖ぶりは、以前には見れなかった光景である。
「チョビは元気にしてるかしら?」
「はい。今日も連れて来たかったんですけど、とっても元気ですよ。
ミーナと仲良しになって、二人で留守番しています」
「あらぁ、あんなに大きなチョビを彼女は怖がらないのね」
「幼少の頃、大きな犬を飼ってたみたいで。
初対面であっという間に、仲良くなってましたから」
「なぁアキラ、あのナナさんってお医者は凄い人だな。
将棋で対戦したんだが、アマ五段の儂が一局も勝てないんだ」
「将棋って、チェスみたいな複雑なゲームですよね?」
「そうだ。始める気があれば、儂が教えてやるぞ」
「貴方、対戦相手が欲しくても、無理強いは駄目よ。
アキラちゃんは、学校とバイトで忙しいんだから」
☆
数日後、Tokyoオフィス。
トレーニングルームでは、ユウとアキラが約束していた組手をしている。
だが組手にありがちな激しい攻防は殆ど無く、ジャンプを含めたユウの攻撃をアキラが躱している静かな動きが延々と続いている。
「アキラが組手中は、暇そうだね」
様子を見にトレーニングルームに現れたアンが、ミーナに声を掛ける。
静かな攻防をぼんやりと見ている彼女は、何か手持ち無沙汰に見える。
「……はい。見ていても私では訳がわからないので」
「さっき、木刀を振ってたのが見えたんだけど。
もしかして剣術の経験があるの?」
「はい。昔祖父から居合を教わりました。
祖父が亡くなってからは、まったく稽古していませんけど」
「居合かぁ。
ひさしぶりに巻藁を切ってみる?」
アンはトレーニングルームの隅に、常設してある巻藁をミーナに指し示す。
実は巻藁を訓練に使うメンバーが多数居るので、セッティングの手間を省いているのである。
「えっ、真剣をお持ちなんですか?」
「うん。私も居合を習ってたから、訓練用に実用刀は常備してるんだ。
普段は自前の能力があるから、使う機会は滅多に無いけどね」
トレーニングルームにある頑丈な金属ロッカーから、アンは実用刀と称している真剣を取り出す。
保護用の袋には入っていないのは、一般的な刀剣のような美術品扱いでは無いという事なのだろう。
「それじゃ、拝見します」
アンから手渡された真剣を、鯉口を切ってミーナは静かに抜いていく。
刃がきちんと上向きになっているのは、彼女が刀を扱う正統的な作法を叩き込まれているからであろう。
ここで彼女の表情が、一瞬にして別人のように変化しているのにアンは気がつく。
普段の優しい表情が、鋭い目つきの険しい表情に変わっているのである。
「へえっ、真剣を扱いなれてるみたいだね」
「祖父が作法に厳しい人でしたから。
普段は優しい好々爺だったんですけど、稽古中は怒られてばかりでした」
アンの一言でまるで夢遊病から覚めたように、ミーナの表情が再びやわらかく変化する。
拵えに戻した実用刀をアンに返しながら、ミーナは小声で呟く。
「これは、私が知っている居合刀とは違って、重さが軽いような気がします」
「名のある刀匠が作ったんじゃなくて、知り合いの技術者が鍛えた刀だからね。
折れない硬い刀だから扱いが難しくて、使い手を選ぶんだよね」
☆
場所は変わってTokyoオフィスのキッチン。
ミーナはアンとまだトレーニングルームに居るので、此処には来ていない。
「いやぁ、とっても有意義な組手だったなぁ。
それじゃ今日は魚の基本的なさばき方からやろうか」
アキラはユウのお手本通りに、アジを背開きにしていく。
背開きという事は、今日の昼食はアジフライなのであろうか。
「ユウさん、この包丁すごい切れますね。
もしかして名がある方が鍛えた業物ですか?」
「業物……難しいニホン語を覚えたね。
ううん、普通にカッパバシの店で売ってる和包丁だよ」
「こんなに切れる刃物が、普通にお店で売ってるんですか!」
「ニホン語が上手くなりすぎて忘れがちだけど、アキラはまだこの惑星に来たばかりなんだよね」
「???」
「常識を疑うって、本当に必要だよね」
思わず漏らした一言は、紛うこと無くユウの本音なのであろう。
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