031.This Is It
数日後、ヒッカム基地からハワイベースへの帰路。
「シン君も、ルーも順調にカリキュラムを消化しているけど、リコにはちょっと遅れを取っているかな」
「リコ、初日の緊張でカチコチだったのが信じられない余裕だね」
訓練中に操縦桿を握っているリコは日常生活のどこかおどおどした雰囲気が無く、シンの目から見てもリラックスしていて自信に満ちているように見える。
操縦訓練は4シート全員が乗った状態で行われているので、お互いのカリキュラムの進行具合は一目瞭然になっているのである。
「うん、何か操縦桿を握ってるとしっくりくるみたい」
リコが返す言葉にも、訓練を始める前には見られなかった自信が漲っているように感じる。
「君の母さんも腕っこきだったけど、君もこのまま頑張れば素晴らしいパイロットになれると思うよ」
ハンドルを握っているレイが、軽いウインクをリコに投げてから呟く。
「えっ、母のことをご存じなんですか?」
「うん勿論。カーメリに在籍できるのは、義勇軍でもトップランクのパイロットだけだからね。
当時のイタリア視察で一番印象に残っているのは、やっぱり彼女かな」
リコは事前に集合写真を見ていたので驚きはないが、パイロットとしての母親を知っているレイの言葉を受けて何か考え込んだ様子である。
「もしかして、母は何かとんでも無い悪戯を仕掛けたのでは?」
「……いや、昔の話を僕の口からは言えないな。直接聞いてみてくれる?」
「やっぱり。昔の知り合いに会うと、例外無く母の昔の悪さの話が出てくるんですよ。まったく……」
リコは困り果てた表情で黙ってしまうが、レイは思い出し笑いでいまにも吹き出してしまいそうな表情をしている。
普段から冷静沈着であるレイが含み笑いをしている様子から、リコの母親に会ってみたいなと思わず考えてしまうシンなのであった。
☆
市街地に入り風景が変わったタイミングで、レイが生徒である3人に向けて声を掛ける。
「実技は順調に消化出来てるから、もうそろそろ筆記テストの事も考えないといけないんだけど。
ルーは米帝語はどれ位理解できてるのかな?」
本来ならばハワイベースでは米帝語が標準言語になるが、今回の操縦訓練ではコミュニケーションにニホン語が使われている。
シンとリコは米帝語を殆どネイティブと同じレヴェルで使えるので、この措置はルーに不必要な負荷をかけない為である。
レイが頻繁にルーにロシア語で話しかけているのは、彼女をリラックスさせる為でもあるのだろう。
「ユウさんに言われてからずっと米帝語を勉強してるから、大丈夫だと思う。
Без труда не выловишь и рыбку из пруда(楽して得られるものはない)」
「うん。ルーは優等生だな」
運転席から手を伸ばしてレイが助手席のルーの頭をワシワシと撫でると、彼女は無邪気に嬉しそうな表情を浮かべている。
ルーとかなり打ち解けているシンは、彼女がレイに育ての親の姿を重ねているのは想像できるが、ここで口を挟むような野暮な事はしない。
レイはシンにとっても敬愛している兄貴分であり、ルーの甘えたいという気持ちも十分に理解できるからである。
後席のリコが羨ましそうな表情をしているが、シンの目線を感じたのか小さな咳払で表情をさり気なく誤魔化したのはここだけの話である。
☆
数日後。
ペーパーテストと航空身体検査を無事にクリアした操縦訓練組の一行は、ハワイベースのリビングで寛いでいた。
さっそく祝杯を上げたい所だが主賓の一人であるシンが支度をすると本末転倒になってしまうので、明日の夜に全員で外食する事になっている。
「ああシン君、今日の定期配送便でユウ君が依頼していたレトルト・カレーが到着してるから試食してみてくれって」
ハワイベースの責任者であるジョンは、滞在中の夕食担当になっているシンに声を掛ける。
「ああ、オーサカの会社と一緒に作ってたというやつですね。
じゃぁ夕食のメニューは、カレーにしましょうか」
「カレー!トッピングのフライは?」
ソファで弛緩していたルーが、マリーそっくりの目を爛々と輝かせた表情で尋ねてくる。
食べ物の話題で一瞬にして表情が変わったルーを、すぐ傍でレイが微笑ましい表情をして見ている。
「冷蔵庫の余った肉類もフライにして、マグロもカツにして使い切っちゃいましょう」
「わ~い、カツカレー祭りだね!」
☆
「あれっ、今日はルーさんは居ないの?」
管制室の入口から室内を覗き込んだリコが、一人ソファに座ってビールを飲んでいるシンに話しかけてくる。
ガラス張りの窓から見る夕暮れの風景は、何度見ても飽きないほど素晴らしい。
「ルーは好物のカツカレーを食べすぎちゃったみたいで、もう休んでるみたい。
大盛りで7、8杯食べてたみたいだからね」
「毎晩遅くまで座学の復習をしてたから、疲労が溜まってるのかも。
あっ、私にもビールちょうだい」
「えっ、リコってビール飲めるの?」
「うん、子供の頃から飲んでるから。
それに何より、そこにあるマラサダが食べたいなぁって」
「僕と話すとき、やっと緊張しないで普通に会話できるようになったね」
白い紙箱をリコの傍に置きながら、シンはリコの目を見ながら話しかける。
「……人見知りが酷くて、御免なさい。シンに限らず男の人って苦手だから、慣れるまで時間がかかっちゃって」
リコはハウピアクリームの入ったマラサダを美味しそうに齧りながら、ビールを口にする。
「その味を食べなれてるって事は、もしかしてリコってここで暮らしたことがあるの?」
「うん。住んでいたのはホノルル市街だけど。
シン君も世界中を転々としてたって聞いたけど?」
「そうだね……ニホン滞在が一番長くなるかな」
「ニホンって、住みやすい国だよね」
「そうだね。学園の環境を含めて、いままで住んだ国の中では一番かな」
「……ありがとう」
「ん、何に?」
「シンとルーのお蔭で、無事にライセンスも取れたし。
なんかここに来て、すっきりと出来た気がするんだ」
「Fear is often worse than the danger itself」
「うん、まさにその通りだったね。
背中を押してくれてありがとう!」
二本目のビールのタブを開けたリコは乾杯のポーズのように缶をシンに向けて掲げると、中味を一気に飲み干したのであった。
☆
翌日、朝食後のハワイベースのリビング。
「あれっ、ユウさんいつの間に来てたんですか?」
「ふふふ、今日はお祝いだって聞いてね。
主賓に料理させちゃ変だから、お手伝いしようと思って」
「いや、外でステーキでも食べようって話しになってるんですよ。
ユウさんも一緒に行きますよね?」
「うん。あのショッピングセンターの香ばしいウエルダン・ステーキは久しぶりだなぁ。
で、どう?フライト訓練は楽しかった?」
「車の運転を覚えたての頃みたいで、まだ楽しめる余裕は無いですけど。
まぁ僕の場合は長年の懸念の一つが完全に解消したんで、良かったですけどね」
「リコちゃん、レイさんが褒めてたよ。ダントツの総合成績で将来が楽しみだって」
マグカップでカフェオレを飲んでいるリコを見ながら、ユウが話しかける。
「ありがとうございます。
今後についてはトーキョーでアンさんに相談してみようと思ってますが、ジェットに乗りたい意欲がすごく出てきました!」
「帰るのは明後日だっけ……ジョン兄さん、複座で飛べるジェットってありますか?」
「かなり古い機体だけど、燃料を入れて直ぐに飛べるのはA-4の練習機かな。
トムキャットは僕が趣味でレストア中だけど、アビオニクスボードが手に入らなくてまだ飛べる状態にはなってないな」
「トムキャット……は残念ですけど、複座のスカイホークは飛べるんですね。ところで明日テスト空域を使用できる時間帯はありますか?」
「短時間で良いなら、僕から連絡して融通して貰えるけど」
「レイさん、すいません」
「いや、成績トップに対してこれ位のご褒美は当たり前でしょ。
リコ、A-4は君の母さんもイタリアで乗っていた機体だよ。
ここにある練習機もカーメリから持ってきた機体だから、もしかしたら同じスティックを握ることになるかも知れないね」
☆
翌朝。
滑走路に向けてタキシングしている複座のA-4は、後席のユウが操縦している。
副座の前席に収まったリコは、慣れない窮屈なGスーツとハーネスそして大きめなフライトヘルメットのお陰でマネキンのように全身が強張っている。
「スパローホーク、ネットワーク接続確認、離陸する」
「こちらCongohオワフコントロール、離陸を許可する。
空域エリアと着陸時間を厳守せよ」
「V1……VR」
ターボファンエンジンの唸る様な騒音が、コックピット内に更に大きく響く。
セスナとはまるで違うキャノピーから見える広い視界、ヘルメット越しに耳に飛び込むエンジンの咆哮とそして振動。
「V2、テイクオフ!」
機体は短い距離で地面を離れ、ランディングギアが素早く引き込まれる。
セスナとはまるで違う高速でキャノピーに流れる光景に、リコの目は釘づけである。
「それじゃぁ、高度を稼いだらいくよ。訓練空域は狭いから、左旋回を繰り返すのを忘れないでね。
You Have Control!」
「AH、I Have Control」
リコのスティックを握る手は震えも無く、彼女の全身にはアドレナリンが漲っている。
前日に付け焼刃で習った操縦についても、今は全く不安を感じない。
(I Am A Bird Now!)
リコのジェットの体験飛行は、危ういシーンも無く制限時間一杯まで続いたのであった。
「どうだった?気持ち悪くなってない?」
操縦を代わったユウの鮮やかな着陸の後に、コックピットから苦労して這い出して来たリコをユウが心配そうに見ている。
「最高です!!ユウさん、有難うございました!」
フライトヘルメットをはずしたリコは、滑走路でふらつきながらもユウに満面の笑みを返したのであった。
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同時刻(時差19時間)深夜のトーキョー某所。
「SID、手間をかけさせて悪かったわね」
リビングの大画面テレビに表示されているハワイベースの映像を見ながら、小柄な女性がテーブルに置いてあるコミュニケーターに向けて呟く。
「いいえ、娘さんのフライトスーツ姿はどうでした?」
「ははは、馬子にも衣裳って感じかな」
「ずいぶんと手厳しいですね」
「スタートラインには立ったかも知れないけど、『人生という冒険は、果てしなく続く』のよ。まだまだこれからでしょ」
娘の好きなアニメのセリフに喩えながらも辛辣な言葉を発した母親の顔には、言葉と裏腹にしっかりと微笑が浮かんでいたのであった。
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