052.Perfect Day
名刺を渡しながら慣れない様子で挨拶をする彼女は、校長からきちんと(ニホン式の)マナーを守るように言い含められているのだろう。ニホン語は赴任するための必須条件なので流暢だが、日常的な挨拶に慣れていないのは仕方がないのであろう。
「それにしても、すごいメニューの数ですよね」
ニホンの定食屋さんに入店したのは初めてなのか、短冊型にぶら下がっているメニューを見て彼女は圧倒されているようである。
「お客さんの要望でどんどん増えていったからね。
でもニホンの定食屋としては、これ位は普通だと思うけどね」
挨拶を受けた店のおばちゃんは、常連であるノエルとセーラが同行しているおかげで愛想良く対応してくれている。店はランチタイムを過ぎているので、客席で雑談する余裕があるのだろう。
「そうなんですか。
それでうちの生徒たちは、どういうメニューを良く頼みますか?」
「まちまちだけど、カツカレーとかカツ丼が多いかな。
定食も各種出るけど、特に唐揚げとか焼き肉が人気だね」
「ねぇノエル、私は食事しても良い?
おばちゃん、いつもの頂戴!」
「あれっ、食事はセーラちゃんだけで良いの?」
「うん。二人は視察のお仕事中だから」
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「ここ最近は、英国でチキンカツカレーが広まっているって聞いてますけど」
「う、ううん。
ほら欧州でも英国は事情が違うからさ。
もともとカレーを、世界中に広めた国だしね」
セーラの超大盛りの定食に目を見開いて驚きながら、なんとか彼女は返答する。
「ところでカツカレーって、どれ位食べました?
ユウさんが作ったカツカレーは、もちろん経験済みですよね?」
「……それがさぁ、タイミングが合わなくて食べていないんだよ。
定期配送されるカレールーを使って、自分では試作したんだけどね」
「あなたの調理の腕前は知っていますけど、ユウさんが作るフライは一味違うんですよ。
でもユウさんも、最近忙しいからなぁ」
「ノエル、ユウさんのカツカレーに近いならあの店は?」
「ああ。
学生向けの繁盛店だし、参考になるかも知れないね」
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3人の視察は、場所を変えて続いている。
「ずいぶんと古めかしい、いや歴史を感じさせる店だね」
神保町の交差点にほど近いその店は、カレー好きなら知らない者は無いという名店である。
「近辺の学生に愛されてる名店で、姐さんのお気に入りなんですよ」
「へえっ、値段も随分と安いんだね」
店頭のサンプルケースを見ながら、彼女は物珍しそうな表情をしている。
「おにいさん、ジャンボ・カツカレーを3つ!」
セーラは二人に相談する事も無く、カウンター席に着席すると直ぐに注文を入れてしまう。
「おいおい、さっき君は超大盛りの定食を食べてたよな?」
「カレーは飲み物だから別腹!」
3人の前にスプーンが刺さったお冷と小さなエスプレッソカップが並べられるのを見て、彼女は不思議な表情をしている。見たことが無い作法?に声を上げるのを控えているが、ここでほぼ待ち時間ゼロでジャンボカツカレーが配膳される。
「うわぁ、このトンカツの衣がサクサクして美味いなぁ。
高級な豚肉じゃないけど、そこが逆に良いのかな」
「この粘度の高いルーと一緒に食べると、僕の言っていた意味がわかりますよ」
ノエルはカウンターに常備されている丸いタッパから、カレーの器に大量の福神漬を盛りつけている。
「おおっ、衣とカレールーの組み合わせが抜群だな。
衣の味とカレールーの味が混ざり合うと、これは癖になる美味しさかも」
「ユウさんは幼少時からニホン料理を修行してますから、カツカレーとかカツ丼はフライの衣を変えてるみたいですよ」
「衣が違うだけで、こんなに味が違うなんてね。
彼女にとっては当たり前の技術だから、説明するまでも無いと思ってたのかな」
「ん〜、いつ食べてもここのカツカレーはウマウマ!」
☆
数日後のカフェテリアの厨房。
まだランチタイムには早い時間なので、客席は疎らである。
「ユウさんは今忙しくてアドバイスも難しいみたいだけど、このパン粉を預かってきましたよ。
料理の腕前は知ってるから、このパン粉とカフェテリア標準の揚げ油でトンカツを作ってみてって」
「粗目のパン粉を探してたから、丁度良かったな。
うわぁこの生パン粉、粒が大きいうえにとっても良い香りがするね」
「Tokyoオフィス御用達のブーランジェリーに、機械を提供して作って貰ってるらしいですよ。あそこは洋食メニューの比率が高くて、揚げ物を頻繁に作るみたいだから」
「カレールーは寸胴に入れて温めてあるから、これを使ってトンカツを揚げてみるね。
二人には試食をお願い出来るかな?」
「Surement!」
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「それじゃ試食を宜しく!」
「あれっ、楕円型の皿をカツカレーのために用意したんですね?」
「おいしそ!
コップにスプーンを指してあるのも、雰囲気がある」
「この間の視察で、平皿よりもこっちの方が冷めなくて美味しく食べれるのが分かったからさ。
忌憚ない感想を聞かせて欲しいな」
「昔ながらの福神漬けまで、用意したんですね。
おおっ、ユウさんが作るカツカレーと同じ味がする!」
「そりゃ、ルーとご飯の産地も同じだからね。
セーラちゃん、どうかな?」
彼女は口いっぱいにカレーを頬張っているので、右手でしっかりとサムアップしている。
その表情からも、味に十分に満足しているのが分かる。
ここでカフェテリアに、数名の学生が入ってきた。
「あっ、カツカレー食べてる!
コックのおねえさん、私にもカツカレー頂戴!」
「私にも!」
「私も同じの食べたい!」
「あらら、告知をするまでも無く早速リクエストが入ったよ!
これは想定外だな」
注文が入ったので厨房に戻る彼女は、なぜか嬉しそうである。
「だから定番メニューは侮れない!」
セーラの小声の呟きに、無言で頷いているノエルなのであった。
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