001.Boy Meets Girl
イケブクロ某日。
人通りが少なくなった午後の歩道で、少年は肩に掛けていたギターケースを下ろした。
ここは東口駅前広場からわずかに離れた、銀行や家電量販店が並んでいる商業エリアである。
少年はガードレールを背にしてカーボンファイバー製のギターケースを地面に置き、堅牢なロック錠をパチン、パチンと開けていく。
ケースに収納されていた漆黒のアコースティック・ギターは、ケースと同じ最先端素材で作られたレアな製品である。ストラップが付いたままのギターを抱えると、少年は慣れた手付きでヘッドに挟んであったチューニングメーターの電源を入れる。
周辺に張り込んでいたのだろうか、少年の姿を見つけて歓声を上げた少女達が駆け寄って来る。
目の前に置いたギターケースでにじり寄って来る彼女達と境界線を作り、少年は名乗りも挨拶もせずにいきなり細かいリズムのストロークを弾き始めた。
オープン・コードの澄んだ音色が、ビルの谷間に響き渡る。
大きなサングラスと深くかぶったベースボールキャップでも、彼の整った面立ちは隠しきれていない。不思議なコードの響きと存在感のある長身の立ち姿、そして取り巻きの女の子達の黄色い声に引き寄せられたのか人が徐々に集まり始める。
細かいストロークに合わせ左手を縦横無尽に使って奏でる旋律は、ハープのようなコードの和音から徐々にペンタトニックのブルージーなメロディに変わっていく。
少年が唄い始めたその瞬間、無機質な灰色の街角の空気が……変った。
♪…………♪
彼の名前はシン。イケブクロにある全寮制学校の一年生である。
サングラスと帽子で隠されている彫りの深い顔立ちであるが、濃いブラウンの頭髪のおかげでイケブクロの街中でもそれ程不自然ではない。
彼がストリートで演奏するようになったのは、名を上げようという野心からではない。
幼少時から自分の能力を他人に見せないように厳しく躾けられてきた彼は、16歳になった今でも自分の顔を売ろうとする意識を微塵も持っていないのである。
「演奏する事で自分が楽しむ事は大事だけど、音楽は人を感動させてこそ意味があるんじゃないかな」
彼が音楽を好きになるきっかけを作った兄のような人物は、そう言って漆黒の珍しいギターを彼に手渡してくれた。
オープンコードから単音まで綺麗に響く頑丈なやつという、シンのリクエストに応えて彼が手に入れてくれたニホンでは非常に珍しいギターである。
「このギターはニホンの代理店からサンプルとして安く手に入れたものだから、タダでも良いんだけど……折角だからストリートで演奏した御捻りで代金を支払ってもらおうかな」
グラファイトで出来ているそのギターは少年が手持ちで支払えないほど高価では無かったが、尊敬する兄のような人物の一言にシンは素直に頷いたのであった。
☆
演奏中のシンがその少さな女の子に気が付いたのは、ニホン語のオリジナルと、米帝語のシンプルなヒットチューンを交互に演奏するセットが佳境に入った頃だった。
夕方に近い時間帯なので近所に住んでいる子供が紛れ込んでいても不思議では無いが、その服装が一目で分かるほど変わっていた。
縫製の継ぎ目のまったく無い、純白のワンピース。
ぼんやりと発光しているようなその光沢は、少女の美貌と相まって不思議な印象を周囲に与えている。
演奏セットを終えたシンが小さく挨拶をすると殆どの観客は立ち去って行くが、その少女は目線をはずさずに彼の事をじっと見つめている。
探るような、それでいて期待や好奇心をも含んだような真っ直ぐな眼差し。
ケース内に溜まった御捻りをミルキーの空缶にまとめギターを仕舞いながら、シンは中腰になって少女の視線を受け止める。
ギターケースの邪魔が無くなった少女は、小さな歩幅で近づき彼のジャケットの裾を小さな手でしっかりと握り締める。
それは周囲からは、もう逃がさないという決意を込めた必死な仕草に見える。
潤んだ眼差しでしがみ付く少女とシンの様子を見ていた取り巻きの女の子達が、悲鳴のような嬌声を上げる。
「……、……」
小さい声で呟いている言語は、マルチリンガルであるシンであっても理解出来ないものだ。
幼いながら可愛いというよりも、綺麗というのがふさわしい整った顔立ち。
幼い女の子にありがちの成長途中の縮小されたバランスでは無く、すでに完成されているような知的な表情。
睫毛の長い大きな目でじっと見つめられた時に、彼は長年に渡って鍛えられた観察眼で見逃してしまいそうなそれに気がついたのである。
(虹彩の形が違う?それって……)
シンは彼女から目線をはずさずに、ポケットから慌しくスマホを取り出すと通話モードに切り替えた。
数回の呼び出しと共に、相手がようやく電話に出てくれた。
「フウさん、シンだけど今話ができるかな?うん……緊急事態かも。
キャスパーさんの同胞らしい小さい女の子が、いま僕の目の前にいるんだけど」
「……」
「いやイケブクロ。ストリートで演奏中に気が付いたら目の前に立ってたんだ。
迷子というか、周囲に保護者や関係者も居ないみたい」
「……」
「えっ保護しろって?このまま連れて行ったら、僕がまるで幼児誘拐犯みたいなんですけど」
「……」
「了解。ユウさんと合流したら、すぐに車でそちらに向かいます」
必死に裾を握り締めたままの少女に、シンは笑顔を向け輝く銀色の柔らかい髪を優しく撫でてあげる。
幼い妹と暮らした経験がある彼は、少女に警戒感を与えないように慣れた様子でスキンシップを行う。
シンの笑顔で緊張が少し緩んだようで、少女が握り締めていた小さな掌の握力が緩くなる。
優しく彼女を抱え挙げ平置きしたギターケースの上に座らせると、シンはポケットに入っていたM●lkyWayを半分に折って少女に手渡す。
手渡されたチョコバーを不思議な表情で見つめていた彼女だが、目の前のシンが美味しそうに頬張っている様子を見ると意を決してチョコバーを口に運ぶ。
一瞬の笑顔……そしてチョコバーを小さな口でモグモグと咀嚼しながら、再びシンを探るように見つめる不思議な視線。
数分後、ようやく近くの車道にCongoh社用のHV車が停止する。
「ユウさん!」
「シン君、この子?」
ハザードランプを点灯させた車から、ユウが小走りで近寄ってくる。
「はい、わざわざすいません」
見知らぬ登場人物に少女に一瞬緊張が走ったが、近づいて来たユウに頭を撫でられると不思議と安心したような表情を浮かべる。
「さぁ、行きましょう。キャスパーと早く連絡が付けば良いけど」
ユウの一言を理解したのかどうか分からないが、おとなしく車に乗り込んだ少女は後部座席に収まってからも、じっと隣席のシンを見つめ続けていたのであった。
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