019.Everything I Own
ノエルはセーラを連れて、日課になっている自宅周辺の散策をしていた。
これには土地勘を身に付けてもらう以外にも、日常生活に欠かせないニホン特有の習慣を学習するという大きな目的が存在している。
「ノエル、この店は?」
セーラは漢字がまだ得意では無いので、読めない看板を時折ノエルに尋ねてくる。
「ああ、穂高蕎麦ね。
入った事が無かったっけ?」
「うん」
丁度小腹が空いたタイミングだったのか、セーラは入る気満々のようだ。
繁華街では必ずと言って良いほど見かける大手チェーン店だが、ノエルが自主的に利用する事は無い。近所で蕎麦を食べる際には、Tokyoオフィスの面々が常連である長崎庵に行くのが習慣になっているからである。長崎庵は良くある街のニホン蕎麦屋で、ご飯もののメニューが豊富な良心的な店である。
「この店では、まずは券売機で食券を買うんだ。
食べたいものは決まった?」
「このポスターのセットにする!」
ノエルは券売機でセーラの注文と、自分用にカツ丼セットの食券を購入する。
手作りポスターで宣伝している丼セットは彼女の口に合わないのは明白であるが、ノエルはあえて口を挟まない。
「セーラは温かい蕎麦で良いかな?」
「うん」
2枚の食券をカウンターに渡すと、わずか数分でセットメニュー二人分が提供される。
蕎麦は押出式製麺機で作られた乱切りで、蕎麦粉もちゃんと使われているコスパが高い一品である。
「ノエル、食べないの?」
立ち食いの店舗には慣れているのか二人分のお冷を用意したセーラは、ノエルに問い掛ける。
「セーラが食べ始めてからね」
「???変なの」
彼女が注文したミニコロッケ丼セットは、千切りキャベツに中濃ソースが掛かったコロッケが乗っているシンプルな丼である。ニホン独自のコロッケや中濃ソースに馴染みが無い彼女にとって、どう食べたら良いのか戸惑ってしまう一品でもある。
セーラは箸で切ったコロッケをもそもそと咀嚼するが、ソースが掛かっていないコロッケに口の水分を持っていかれて、どうやって食べ進めたら良いのか途方にくれているようだ。
「ノエル、Ce n’est pas du tout bon.」
セーラは箸を止めて、助けを求めるような表情をしている。
軽くパニックになっているらしく、温かい蕎麦で口を潤すという食べ方も思いつかないようだ。
味の評価をニホン語で表現しなかったのは周囲に配慮したというよりは、ショックでニホン語が出てこなかったのであろう。
「じゃ僕のカツ丼と交換する?」
ノエルはまだ箸を付けていないカツ丼と、セーラの食べかけの丼を交換する。
セーラはお冷で喉を潤して、ようやく人心地が付いたようだ。
「C’est bon!」
気を取り直して丼を食べ始めたセーラは、カツ丼は食べ慣れているのか機嫌が直っている。
卵とじされた成型肉のトンカツはジャンクの雰囲気が漂う一品だが、彼女は気にした様子も無く美味しそうに頬張っている。
「牛丼とかカツ丼の甘じょっぱい味には、やっぱり慣れてるんだね」
「???」
「ニホンの揚げ物に慣れると、このコロッケ丼の味も好きになると思うよ」
ノエルはカウンターに常備されているソースをたっぷり追加して、色が変わったコロッケと一緒に御飯を頬張っている。ニホンに来たばかりの頃はノエルもコロッケをおかずにご飯を食べるのは違和感があったが、今やお好み焼定食すら美味しく食べられるように成長?しているのである。
「ノエルは、好き嫌いが無いの?」
「いや、こういう炭水化物だけのメニューも、慣れれば美味しく食べられるようになるよ。
セーラはもっと色んなメニューを、試してみないとね」
☆
数日後、Tokyoオフィスのリビング。
「コロッケ丼かぁ……ほんとニホン独自の食べ物だよね」
セーラが先日の出来事を話題にすると、ユウは深く納得したような表情で頷く。
「口の中がモソモソして……」
「私も修行時代は、コロッケ定食は不思議なメニューだと思っていたけどね。
白米が主食っていう感覚を持てるようになって、意識が変わったかな」
「主食って何ですか?」
「ああ、そこからかぁ。
セーラちゃんは、ニホンで育ったんじゃないからね」
「Oui。
ママンはほとんどニホン食は作らなかったので」
「経験が解決する問題だと思うけど、今日は昼食の人数が少ないから良いタイミングかな」
「???」
「一緒に厨房に入って、コロッケを作ってみようか」
セーラと一緒にキッチンに入ったユウは、皮が付いたままのジャガイモを大鍋で茹で始める。
セーラは格闘技以外もユウから教えを受けているが、本格的な調理については今日が初めてであろう。
「ニホンのコロッケは、基本的にはじゃがいもを潰して衣を付けて揚げるだけなんだよね」
茹で上がったジャガイモの皮を、キッチン用の軍手をした手でユウは手際良く剥いていく。
見様見真似でセーラも手伝っているが、手先が器用な所為かそれほど苦労せずに皮剥きをこなしているようだ。
「あのコロッケ丼も、じゃがいもの味だけだった」
「蕎麦屋だから、トッピング用のコロッケを流用してたんだろうね。でも自分でおかずとして作るならば、美味しく食べる方法は色々あるんだよ」
マッシャーでジャガイモを潰していたユウは、細かくなりすぎないように途中で手を止める。
「……」
コロッケを調理した経験がもちろん無いセーラは、マッシャーでジャガイモを潰す工程すら興味深そうである。
「具の水分が多すぎると揚げてる最中に壊れちゃうけど、それだけ気をつければかなり自由度が高いんだ」
ユウは炒めて水分を飛ばした微塵切りの玉ねぎと、冷蔵庫に常備している牛肉のしぐれ煮を混ぜ込んでいく。
「なるほど」
「味付けした挽き肉を入れるのが基本だけど、こういう牛肉のしぐれ煮なんて入れると美味しさがアップするんだよね」
「この牛肉、とっても高級そう」
「いや、これは普段の料理の時に余ったバラ肉から作ってるからね。
これ用に用意したんじゃなくて、常備菜だから」
「牛丼の具みたい」
「そうそう。
私は既製品の牛丼は苦手なんだけど、このしぐれ煮なら美味しく食べられるんだ」
厨房に用意してあった型抜きを使って、ユウは同じサイズの小判型のコロッケをどんどん作っていく。
手握りの俵型にしないのは、重量を揃えて均一の揚げ具合を確保する為であろう。
「ユウさん、作りすぎ?」
「今日はマリーが居るから、足りない位だよ」
「ああ、なるほど」
手際よくバッター液とパン粉を付けたコロッケが、業務用のフライヤーでどんどん揚げられていく。
フライヤーに備え付けの油切バットには、揚げたてのコロッケが大量に並んでいる。
「味見してみる?」
「このコロッケ、凄く美味しい!」
「一時期ニホンで流行った、肉じゃがコロッケに近いかもね」
「こっちはお魚の味がする!」
「ツナ缶を具材にするのは、ニホンでは割とポピュラーかな。
水分が少ないから、作りやすいんだよね」
「この甘味は、お砂糖?」
「これは玉葱の甘さかな。
こういうコロッケなら、ご飯のおかずにピッタリでしょ?」
「Oui。
ユウさんのお陰で、コロッケが好きになった!」
「揚げたてこそ、コロッケの醍醐味」
いつの間にか厨房に入ってきたマリーが、セーラと一緒に揚げたてのコロッケを齧っている。
「それじゃついでに、卵とじしたコロッケ丼も作ってみようかな」
「私の分は大盛りで!」
急遽厨房に乱入してきた姉貴分の一言に、セーラは満面の笑みを浮かべたのであった。
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