007.Black Cat Moan
ノエルのマンションのリビング。
「ねぇ、黒猫が家に居ない(のはなぜ)?」
確かに一緒に帰ってきた筈のリッキーの姿が、フロアのどこにも見当たらない。
この部屋で過ごす時間が増えているセーラとしては、素朴な疑問なのであろう。
「ミーファの部屋に居ないなら、自分好みの場所に隠れてるんじゃないかな」
「これ(の中)?」
セーラは巨大なドーム状の『ちぐら』を指差す。
市販されている小さくて柔らかい猫ちぐらと違って、この『ちぐら』は依り合わされたかなり太い稲藁で作られているのが特徴である。
「これはアラスカベースに居る人が、ハンドメイドで作ってくれたんだ。
市販の家猫用じゃ、大柄のリッキーが入れないからね」
『ちぐら』の小さな出入り口からリッキーの毛並みをちらりと見たセーラは、ようやく納得したようである。
「あの人、(ノエルを見る目がいやらしいから)嫌い!」
セーラはTokyoオフィスで見かけたので、いちおうベックとも面識があるようだ。
「大丈夫だよ。ちょっかいを掛けて来たら絶交するって約束だから。
それにシンさんに聞いたら、そんなに悪い人じゃないって」
「???」
「それに何より、リッキーがしっかり懐いているからね。
ピートに対してはユウさんの手前があって、可愛がるのを遠慮してるみたいだから」
☆
翌日。
ノエルとセーラはマリーのお誘いで、商店街にある馴染みのビストロへ来ていた。
4人がけのテーブルには、ボリューム満載の田舎風料理が並んでいる。
「この店に一緒に来るのは、久しぶりですね」
「そろそろ(セーラがニホン料理以外を)食べたいかと思って」
「飽きては無いと思うんですが。
ここって、こんなにボリュームがある店でしたっけ?」
前菜から全てのメニューがボリューム満載で並んでいるのは、ビストロとしてはあまり見られない光景であろう。各皿は取り分けを前提としたような分量であり、それらがテーブルに隙間無く並んでいるのはかなりの壮観である。
「予約して、特別に私用のボリュームにして貰った」
マリーは顔なじみの店主夫婦に、サムアップをして見せる。
彼女はこの商店街の顔役であり、常連になった飲食店は必ず繁盛するという『幸運の女神』なのである。
「セーラ、どう?」
「どの料理も美味!
嬉しい!」
分厚いパテを頬張りながら、彼女は満足気な表情をしている。
ニホン料理で似た味の料理はあん肝などの高級料理だけなので、久しぶりの味なのであろう。
「セーラは好き嫌いが無くて良い(理想的な嫁)」
「姐さん、セーラに優しくしてくれるのは僕も嬉しいです」
「末弟の嫁に優しくするのは、長女としては当たり前」
マリーのノエルに対する接し方は、出会った当初から変わらない。
天涯孤独な身の上である彼女にとって、ルーやノエルは実の兄妹と等しい存在なのであろう。
「あっ、このポトフ美味いなぁ。
僕の母さんのインスタント・ポトフと比べると、違いは歴然だよね」
「ノエル、それはすごく羨ましい」
「???」
「私は母さんの顔すら覚えていない。
味を覚えているだけでも、羨ましい」
「それじゃ姐さんのお袋の味は、ユウさんが作る和風が入ったポトフになるんでしょうね」
「うん。ユウが作ってくれる料理は、どれも絶品。
もしユウが移籍する事があれば、私も迷わず付いていく」
☆
ノエル宅の深夜のリビング。
「まさかこんな時間帯に、デリバリー業務が出てくるなんてね」
「すいません。本当に至急らしいんですよ
時差が大きいので、こういう事が偶に起きるんです」
「お世話になってるSIDにそう言われると、こっちも返す言葉が無いよ。
セーラ、お留守番宜しくね」
「もう眠いから、寝てる」
「事前に分かれば、コイケさんを呼んだんだけどね」
「子供じゃないから(留守番くらい出来る)」
SIDがセキュリティを担当しているこのマンションで、何かトラブルが起きる可能性は殆どゼロであろう。それにこの高層マンションには、緊急時には頼りになる複数のCongoh関係者が居住しているのである。
短時間で宅配便業務を終えたノエルは、自室にジャンプで帰還していた。
薄暗いダウンライトの下で、ベットの上には複数の影が見える。
明るく光る眼球で、もう一つの影が人間で無いのがすぐに分かる。
「あれっ、リッキー?」
いつもながら自分の寝床から出てこない黒猫が、なぜかセーラが眠るベットで添い寝している。
熟睡しているセーラが抱き枕よろしく抱きついていて、リッキーは身動きが取れない状態のようだ。
「ワゥ」
声を潜めた返答は、彼女が起きないような配慮なのであろう。
「セーラを守ってくれてたんだ」
「ワゥ」
「彼女は抱きつく力が強いから、朝まで我慢してね」
「ワゥ、ワゥ?」
「明日の朝食は、大好きなベジョータのステーキを焼いて上げるからさ」
「ワゥ!」
自室からそっと音を立てないように出たノエルは、巨大な業務用冷凍庫からシュリンクされたベーコンの塊を取り出す。自然解凍のために冷蔵庫へ移し替えるが、冷蔵庫のドアを閉める前にドアポケットから良く冷えた銀色の330ml缶を取り出しておく。同じメーカーの高アルコールの瓶とは違って、6%のこの缶ビールは飲み口が軽くノエルの最近のお気に入りなのである。
軽い醤油風味のマカデミアナッツをつまみにしながら、ロングソファでリラックスしたノエルは缶ビールをちびちびと口にする。
音量を絞ったCNNの画面を眺めながら、彼の長い一日は漸く終わろうとしていた。
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