001.Longing In Their Hearts
そして5年後。
☆
イケブクロにあるタワー・マンションの最上階。
窓際に置かれたキングサイズのベットの上で、ノエルはいつもの時間に目覚める。
部屋の一面を占めている大きな窓には自動ブラインドが設置されているが、夜明け前は全面が開放されたままの状態である。
日の出の時間までかなりあるので、彼が目覚めたのは朝日の眩しさでは無く正確な体内時計のお陰である。また最近はジャンプを使い慣れているので、体内時計が狂う事も少なくなっている。
ショートボブと長い睫毛、大きな二重瞼はまるでファッション・モデルのような容姿だが、ノエルは紛うこと無く男性である。Tシャツから覗いている筋肉は引き締まっていて、オリンピックアスリートを軽く凌駕する運動能力はその華奢な見掛けからは想像出来ないであろう。
ベットの端から滑らかな動きで立ち上がったノエルは、大きなベットの上に隆起した毛布を見て溜息を付く。おまけに自身の寝間着であるボクサーパンツがいつの間にか脱がされていて、ベットの足元に転がっている。
入り口ドアの傍に多数の衣服や下着が脱ぎ散らかしてあるのは、毛布の隆起の主が全裸になって寝ているからであろう。また自身の剥き出しの下半身に違和感を感じるのは、何かしらの『行為』をされたに違いない。
「SID、彼女は何時来たのかな?」
散らばっている女物の衣服を回収したノエルは、備え付けのランドリーボックスに遠慮無く放り込む。
壁面の作り付けワードローブは扉一枚分がいつの間にか彼女専用になっているので、全てクリーニングに出したとしても着替えの心配は不要であろう。
「日付が変わった直後ですね。
いつものように部屋に招き入れたのは、不味かったですか?」
SIDは不法侵入者?の彼女に何故か甘々なので、存在を排除するという選択は端から無かったのであろう。
「いや、それは構わないけど、専任護衛のあの人はどうしてるのかな?」
会話をしながらキッチンに移動したノエルは、自動給水のコーヒー・ブルワーに豆をセットしドリップボタンを押す。自分だけの場合はカプセルマシンを使うのだが、予期しないお客さんが居る場合にはドリップの手間が大幅に減るのである。
「エレベーターホールの一人用ソファで、いつものように仮眠してるみたいですよ」
「うわぁ、毎度の事ながらお気の毒。
声を掛けて、此処に招き入れてくれる?」
ノエルは厨房にある巨大な冷蔵庫から、朝食用に解凍してあったブリオッシュ生地をオーブンに放り込む。これらは既製品では無く、カーメリの知り合いに作って貰った特注品である。
「おはようございます」
寝ぼけ眼で、地味なスーツ姿の女性がリビングに入ってくる。
ショートカットの髪は乱れているが、凛々しい服装は典型的な女性SPである。
水泳選手のような肩幅と手足の長さは、彼女の男好きがする童顔によって印象が緩和されている。
言うまでも無いがノエルは露出癖は無いので、ボクサーパンツをちゃんと履き直している。
「コイケさん、エレベーターホールの椅子の上じゃ、体が休まらないでしょ?
そこの大きなソファで、休めば良いのに」
「さすがにプライベートフロアに不法侵入した上に、そんな図々しい事は出来ませんよ。
それにあの一人用ソファは高級品ですから、寝心地は悪くないですし」
「ははは。何なら空いている部屋を使ってもらうようにしましょうか」
「それよりも、あの……シャワーをお借りして、良いですか?」
彼女は二の腕の匂いを嗅ぐ仕草で、女性らしく自らの体臭を気にしている様だ。
「どうぞご遠慮無く。
SID、彼女の着替えの在庫はあるかな?」
「はい。下着類ならバスルームの前のヴィジター用の戸棚に在庫してますよ。
あとこの間お預かりしたブラウスやランジェリーも、クリーニング済みで一緒の棚に入っています」
「だ、そうです」
「はぁ、いつもお手間を掛けてすいません」
彼女は下着すら用立ててくれるSIDの手際良さに、複雑な表情を浮かべていたのであった。
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「凄い良い匂いですね」
ツヤツヤの黒髪をバスタオルで拭いながら、コイケと呼ばれた女性が再びリビングに現れる。
ちなみにシンはブリオッシュが焼けるまでの間に、ベットルームで既に着替えを済ませている。
ベットの上の盛り上がりは微動だにしていなかったので、不法侵入者が目覚める気配はまだ無いようである。
「焼き立てですから、冷めないうちにどうぞ。
飲み物はコーヒーで良かったですか?」
籐製のかごに山盛りされたブリオッシュを勧めたノエルは、来客用のマグカップにブルワーからコーヒーを注ぐ。
はうっと声を漏らしながら、彼女はブリオッシュに齧りつく。
芳醇なバターの香りとサクサクした生地は、イタリア本場に負けない焼き立ての味である。
「いつ食べても、ここのクロワッサンは最高ですね!
ところでうちのお姫様は、まだベットですか?」
「多分ブリオッシュの香りで、起きてくると思いますよ。
カーメリ製の焼き立ては、彼女の大好物ですから」
「いつもご迷惑じゃないですか?」
「夜の街を徘徊されるよりは、直接うちに来てくれた方が安全だと思いません?
それに貴方の心労も、少しだけ緩和されますよね?」
「まぁ大臣も、貴方の自宅を訪ねるのは許可を出してますし」
手元のマグカップから立ち上るコーヒーの香りに、彼女は嬉しそうに笑みを浮かべている。
Congohの定期配送便で届けられる焙煎済みのコーヒー豆は、超高級品では無いが価格なりに品質が厳選されているのである。
「僕はステディなガールフレンドは居ないんで、女性がベットに潜り込んで来るのは別に問題無いんですけどね」
「戦闘中の貴方を知ってるから言わせていただきますが、侵入者の気配に気が付かないのはおかしくありません?」
「敵意がある相手ならば、部屋に入られる前に気が付きますよ。
亡くなった母よりも、僕はその辺りは敏感でしたから」
ここでベットルームから、全裸の女性がスリッパもはかずにフラフラと歩いてくる。
ピンク色の乳首に、綺麗に全身脱毛されたバランスが取れた肢体。
性別を問わず見る者を釘付けにする破壊力を持っているが、護衛の彼女は横を通った彼女から漂ってくる『匂い』に顔をしかめている。
その焼き立ての香りから籠に入ったブリオッシュに気がつくと、彼女はノエルに小さく目配せをする。
「まだ焼き立てがたくさんあるから、すぐには無くならないよ」
彼女は微かな微笑みを浮かべると、全裸のままノエルの頬に口づけをしてシャワールームに歩いていく。
「ノエル君、『アレ』は使ってないのですか?」
「それは無理ですよ。僕は熟睡中に予告無く襲われてるんですから」
「妊娠したら大事に……ならないですね。
なんと言っても、保護者公認ですからね」
「ははは。
何が公認なのか、良くわからないですけど」
「でも並んでいる二人を見ていると、まるで親戚みたいに雰囲気が似てますよね」
「そうでしょうね。
まぁ彼女は言うならば遠い親戚ですから、僕に似ているのは当然かも知れません」
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