013.Tiger Walk
「ああ、そうだ。
ノエル君、これから時間あるかな?」
食後の紅茶をティーカップに注ぎながら、ナナはノエルに尋ねる。
普段は来客であっても、食事はおろか番茶すら出す事も無いのでこれはかなりの厚遇と言えるのだろう。
「はい?」
ノエルは繊細な絵柄のティー・ポットを見ながら、聞いていたナナの人物像との落差に戸惑っているようだ。アンティークのティー・セットを使って優雅に紅茶を嗜むというのは、聞いていた人物像とは正反対の姿だからであろう。
「シリウスを、近所のドックパークに連れて行って欲しいんだけど?」
「ええっと、特に用事も無いので構いませんが。
……この紅茶、美味しいですね」
「ニホンでは紅茶を嗜む人は、少数派だからね。
かなり格の高いホテルとかでも、色だけ着いた紛い物が出てきたりするから」
「ああ、確かにそうかも知れませんね」
ニホンに来てから初めて味わった本物のミルクティーに、ノエルは穏やかな気持ちになっていた。
植物性油脂で作ったポーションクリームが幅を利かせているこの国では、本格的な紅茶を飲むのも簡単では無いのである。
「はい。これが地図とリードね。
あとこれが忘れちゃいけない、Congoh謹製の糞処理機だよ」
「うわぁ、無駄にハイテクですね。
でもパリでは散歩してる人が、こういうのを使ってるのを見たことありませんけど」
「これはニホンで商品化予定の優れものなんだよ。
ニホンではその辺りが煩いからね」
「なるほど。
そういえば、イケブクロの近辺で散歩させてる人はみんな小さなバックを持ってましたね」
「そうでしょ?
それにこの辺りで便利に使ってるのを見せると、マーケティングの意味も大きいんだよね」
「……」
大きな瞳でウインクしたナナの表情に、何故か母親の面影を感じてしまったノエルなのであった。
☆
周辺は閑静な住宅地なので、平日の午後だが毛並みの良い飼い犬を散歩させている人が多い。
シリウスはリードを引っ張る事も無く、ノエルの歩調に合わせてゆったりと歩いている。
現実には土地勘が無いノエルをさり気なく目的地へ誘導しているのだが、それを感じさせないほどにシリウスの歩き方のリズムは絶妙なのである。
「あら、シリウス久しぶりね!」
ノエルの事は知らないにも関わらず、シリウスは犬を散歩をさせている人たちほぼ全員から気安く声を掛けられている。リードを持っているノエルは、アルバイトで散歩をさせている学生?のように認識されているのだろう。
「元気にしてた?」
「バウッ!バウッ!」
シリウスは声を掛けてくれる人たち全員を認識しているのか、愛想良く尻尾を振って応えている。
対象的なのは散歩している人が連れている飼い犬で、かなりの大型犬でもシリウスに目を合わせる事が出来ずに萎縮しているのである。
「うわぁ、君はやっぱりご近所さんにも評判の天才犬なんだな」
「バウッ!バウッ!」
(当たり前の事を聞くなって……あれっ何となく言ってる事が分かるようになってきたぞ!)
シリウスが使っている高速言語は傍目には単なる吠え声に聞こえるが、聴覚が鋭敏な相手に限っては意思疎通が出来るようになる特殊なコミュニケーション手段なのである。
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目的地のドックパークは入場口に臨時休業の札が下がっており、本当にシリウスの為に貸し切りになっているようだ。事務所らしき場所にノエルが顔を出すと、係員は顔なじみのシリウスに声を掛けてくる。
「やぁシリウス、元気だった?」
「バウッ!バウッ!」
「これから閉園時間まで貸し切りですので、帰る時に一声掛けて下さい。
私は此処におりますので」
「ありがとうございます。お手数掛けます」
「こんなに大きいドッグランを半日貸し切りにするなんて、ナナさんも大袈裟だよなぁ。
おまけに周辺の盗撮にも気をつけろなんて、まるで超VIP待遇じゃないか」
「バウッ!バウッ!」
シリウスはこのドッグパークは常連らしく、リードを早く外して欲しいとノエルに催促をする。
「それじゃ、自由に運動して来てね!」
「バウッ!バウッ!」
リードを外されたシリウスは、まるで跳ね回るように広いドックパークの中を走り出す。
「うわぁ、チーターの全力疾走よりも、明らかに速い!
これはビデオに撮っても、トリック動画としか思ってくれないだろうなぁ」
無尽蔵なスタミナでドックパークを周回するシリウスは、もはや肉眼で捉えるのは難しいスピードになっている。たとえ頑丈な大型犬でも、高速移動中の彼女に接触してしまえばダメージどころか生死に関わる事態になるのは間違いないであろう。
「……なるほど、これじゃ安全面からも貸し切りが必要な訳だな」
「あれっ、何処へ行ったのかな?
シリウス!」
一瞬姿を消したシリウスは、ドックパークの備品らしき大きなサイズのフリスビーを咥えてノエルの近くに現れる。
「えっ、今度はこのフリスビーを投げろって?」
「バウッ!バウッ!」
「よし、それじゃこっちも運動不足解消のために全力で投げさせて貰うよ!」
「バウッ!バウッ!」
☆
翌日、イケブクロ西口のとある高層ホテル。
いつものようにマリーに呼び出されたノエルは、ロビーで寛いでいる顔なじみ達の姿をすぐに発見する。
「こんな時間に呼び出すなんて、珍しいですね」
「ケーキブッフェは、平日3時スタート」
「ブッフェ……ああ、それでお呼びが掛かったんですね」
「あれっ、ノエルは甘いものは大丈夫なの?」
何度か一緒に食事をした事があるルーが、ノエルに声を掛ける。
同行したのはボリュームがあるメニューばかりだったので、ケーキブッフェに呼ばれているのが意外だったのかも知れない。
「勿論、美味しいケーキは大好物です」
「わくわく、いつ来てもこのブッフェは楽しい!」
既に学園で顔なじみになっているマイラは、今日も元気一杯である。
「うわぁ、こんな光景生まれて始めてかも!」
一応面識があるリラはアラスカ・ベース育ちなので、こういったブッフェは初めてなのだろう。
ベースのフードコートはデザートの品数が少ないので、大量に並んでいる色とりどりのケーキに感激している様子である。
「フランスには、こういうスタイルのお店は無かったっけ?」
アンもフランスに居住経験があるが、かなり幼かったので記憶が残っていないのだろう。
「ここまで大量に並んでるのは、パリの有名パティスリーでも見たことがありませんね」
「ニホンのケーキバイキングだと、これくらい普通」
「どれも甘さ控えめで、沢山食べられそうだなぁ」
「サイズも大きすぎないし、色んな味が楽しめるのがケーキブッフェの良い点」
「あれっ、今日はユウさんは居ないんですか?」
「ユウはジャンケンに負けて、お留守番。
フウさんも不在だから、Tokyoオフィスには最低一人は詰めてないと」
「なるほど」
ブッフェ会場に入ると、各メンバーは細かい窪みのついた大皿にケーキを取り分けていく。
ノエルも大皿を手に全体を見て回っているが、アンが何故かノエルの後ろについて回っている。
「ところで……
健康診断で母さんの処へ行ったんだって?」
ノエルが立ち止まったタイミングで、アンが小声で話し掛ける。
「母さん……ああ、はい。
ナナさんにはとっても親切にして貰って、昼食もご馳走になりましたよ」
「「「ええっ!!」」」
会話が聞こえていたアン以外の同行メンバーも、トングを持った手を止めて一斉に声を上げる。
年少組であるマイラやリラまでもが驚いた様子なのは、二人とも変わった人物という括りでナナを見ていたからであろう。
「???」
「別に自分の母親を悪く言うつもりは無いけど、あの人は本当に変わってるからね。
虐められたなら兎も角、あの人に親切にされたなんて実の娘の私でも聞いたことがないよ!」
会話をしながらも、アンは日頃見掛けない和三盆を使った抹茶ケーキをトレイに載せていく。
ジェラートショップを経営している彼女としては、斬新な組み合わせや珍しいフレーバーについて絶えずアンテナを張り巡らせているのだろう。
「はぁ……そうなんですか?
僕が生まれた時にも、欧州まで来て立ち会ってくれったって言ってましたけど」
ノエルはアンとは真逆である、ベイクドチーズケーキやモンブラン等の定番メニューを無難に選んでいる。
「……ノエル君は、もしかして母さんお気に入り親戚一号かも」
「はぁ?
僕の人を見る目は兎も角、シリウスも凄くナナさんに懐いてますよね?」
「ううん、別に君の意見を否定する気は無いんだよ。
ただ母さんの事を気に入ってくれたなら、これからも仲良くして欲しいと思っただけなんだ」
「……」
「いままでの経緯から、あの人は初対面であっても色眼鏡で見られる事も多いから。
これからもノエル君は同じ立ち位置で、居て欲しいと思ってるだけだから」
「もちろん、そのつもりです。
大切にしてくれてる人を、色眼鏡で見るような事は出来ませんから」
ノエルの最後の一言に、参加しているメンバー全員が複雑な表情を浮かべていたのはここだけの話である。
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