017.Flying Cowboys
プロメテウスの軍事施設が無いニホンに居る限りは、ユウがファイタージェットを操縦することは不可能である。
操縦技量をキープするためにもユウは積極的に滞空時間を稼ぐ必要があるのだが、残念ながらニホン国内ではHMDを使ったシミュレーターで訓練するしかない。
レイが訓練用に最近開発したこのシミュレーターは低コストで訓練効果が高いのだが、義勇軍内部でもまだ普及しておらず実績不足のため滞空時間としてカウントされる事は無いのである。
ユウは移動時間無しでハワイで訓練飛行する事が可能だが、残念ながらジャンプ能力は使えても己の体は一つしかない。
そのためにユウの日常は、Tokyoオフィスと雫谷学園、そして19時間の時差があるハワイベースを頻繁に行き来するとてもタイトなスケジュールになっているのである。
翌日は久しぶりのオフになる深夜の時間帯、ハワイから戻ってきたユウは出来立てのマラサダを齧りながら一人リビングで水割りを傾けていた。
ハワイの小さなベーカリーで作られているリンゴのフィリングが入ったマラサダは、生地のもっちりとした歯ごたえと相まってアップルパイとは違った美味しさがある。
アルコールには弱くないユウだが、連日の睡眠不足もあってちょっとほろ酔いの状態だ。
「Como estas?、ユウさん、それ、ちょっと頂戴」
スペイン語の挨拶とともにTシャツとショーツ姿のルーが入ってきて、ロングソファーのユウの横に腰掛ける。
着ているTシャツの柄は以前見たことがあるので、マリーの私服をパジャマ替わりに拝借しているのだろう。
ニホン語の集中学習がある日には、こうして彼女はマリーの部屋に泊まっていくことも多い。
「Mas o menos、マリー用に沢山買ってきたから好きなだけどうぞ」
マラサダが入った白い紙箱をルーの方に向けるが、ルーは小さく首を振ってユウのグラスを指し示す。
「あれっ、ルーって幾つだっけ?」
「暫定17才」
「うーん、普通ならビールで我慢しろって言う所だけど、眠れないの?」
短い付き合いだが、ルーは精神的に早熟なのかとても17才とは思えないほど落ち着いている。
暫定と強調するからは、もしかしてマリーと似たような実年齢と見かけが違う特殊な境遇にあるのかも知れない。
「うん。姉さんの部屋の冷蔵庫には、ビールすら入ってないから」
初対面から打ち解けたマリーのことを、ルーはごく自然に姉と呼んでいるようだ。
「マリーは、あんまりアルコールが好きじゃないみたいだからね」
ユウは新しいグラスに大きなロックアイスをからんと落として、ボトルからダブルよりも多めの量をグラスに注ぐ。
受け取ったルーは躊躇せずにグラスを傾け、濃いめのオン・ザ・ロックを口に含む。
ルーの伸びたTシャツの襟元からはみ出した、大きなロック金具が付いたチョーカーがユウの視野に入る。
それは、シンが肌身離さず身に着けているリミッターと同じ物だろう。
「すんなりと喉を通っていくね……『これってお高いんでしょう?』」
通販番組で聞いた言い回しのニホン語をルーは冗談交じりに使ってみたようだが、ユウはテレビを殆ど見ないので残念ながら反応が無い。
「それほど高級じゃないけどハワイベースのデッドストックでね、最近の奴より味がマイルドな気がするんだ」
ルーの襟元から目線を外しながら、真面目な口調でユウは答える。
「こんなに美味しいバーボンって、生まれて初めて飲んだかも」
金色の縁取りがある古いボトルのオールドフォレスターを一瞥しながら、ルーが呟く。
「へぇっ、お酒の味がわかってるね」
「育ての親の晩酌に散々つき合わされたから……覚えたのは嫌々かな」
グラスを持たない手でマラサダを摘み上げながら、ルーは応える。
「この国は、本当に平和だよね。
夜は銃声もしないし、パトカーのサイレンも聞こえないし」
齧ったマラサダの酸味があるクリームの味が口いっぱいに広がり、思わず彼女は顔を顰めている。
「うへぇっ、これって、ドーナツじゃないの?」
「ハワイ土産のマラサダっていうんだ。ハウピアクリームはちょっと癖があるかな」
「もっと平和ボケしてるかと思ったら、ここの人達ってなんか違うよね」
口の中に残ったココナッツの風味をごまかす為か、ルーはグラスの残りを一気に飲み干した。
「そう?」
空になったルーのグラスを受け取りながら、ユウが応える。
「ユウさんを含めて、なんかSpetsnazの人達と同じ匂いがするんだ」
「ああ、みんな軍とかでそれなりのキャリアがあるからね」
そういえば授業でルーがロシア語の掛け声を発していたのを思い出すが、厄介なロシア特殊機関の名前をスルーしてユウが答える。
「今までこんなに平和な環境に居たことが無いから……戸惑っちゃって」
「とりあえず、学校にきちんと通って二ホン語と一般教養を学ぶことかな。
あと出来れば、米帝語は読み書きできた方が便利だと思うよ」
空になったルーのグラスにお代わりを作りながら、まじめな教師の顔でユウが答える。
生徒に強い蒸留酒を飲ませている先生役というのも、かなりおかしな話ではあるが。
「だって即戦力と見込んでスカウトしたんでしょ?」
「ああ、それは違うよ。
プロメテウス共和国では従軍義務はあるけど、意に反したタイミングで学生に軍務を強制することはあり得ないし。
ルーは、メトセラの事をどれくらい知ってる?」
「解説のビデオみたいなのを見たけど、米帝語だったしほとんど覚えてないや」
「SID、ルーのSOL値は?」
「Iレヴェルです」
リビングルームに備え付けのコミュニケーターから、SIDが即答する。
「まずルーは間違いなく、マリーやここにいる全員と親戚と言ってよいほど近しい間柄だというのを忘れないで欲しいんだ。
単純に近親という意味じゃなくて遺伝子レヴェルの話だけど、世界中に居る『迷子の親戚』を保護するのはプロメテウスの重要な国家事業の一つだからね」
「それだけの理由で、保護をしてるの?」
「……米帝は嫌いだけど映画は沢山見てるって言ってたよね?」
ルーにグラスを手渡しながら、ユウが尋ねる。
「うん、娯楽ってビデオくらいしか無かったからね」
ルーは今度はテーブルの上のガラスジャーに入っていた、シンお手製のジャーキーを齧っている。
もともとはシリウスのおやつ用に調理した筈なのだが、作りすぎてしまったのでTokyoオフィスのメンバーもご相伴に預かっているのだ。
人間用に後で振りかけたアルプス岩塩以外には味付けをしていないが、市販品と違って雑味が無くとても美味しいと評判になっている。
「ヴァンパイアのインタビューから始まる映画って見たことあるかな?」
「ああ、あのハンサムなハリウッドスターが大勢出てくる奴でしょ?」
「そう。主人公がヴァンパイアになって無限の時間を彷徨う話なんだけど。
幼女のうちにヴァンパイアにされてしまった女の子が、出てくるのを覚えてる?」
「髪を切っても直ぐに元通りになっちゃうあの女の子ね」
「あのヴァンパイアの女の子をどう思う?」
「容姿と精神年齢のギャップが大きくなって、心のバランスが崩れておかしくなっていったのは分かるけど。
それ以外の部分は意味不明だったな。私は恋愛経験も無いから、独占欲っていう気持ちも良くわからないし」
「スクリーンの中でヴァンパイア達は自らの境遇を嘆き、精神を病んでいく。
生きる目的や意味を求めて彷徨うけれど、若くして不老不死になったヴァンパイアは自らを支える信念や信条を持っていない。
さらに全てが嫌になって放り出したくなっても、簡単に自殺すら出来ない。
イモータル……違う時間の流れの中で生きるっていうのは、そういう事なんだろうね」
「……」
「さてここからが本題だけど、メトセラの母親は例外無く自分の子供を厳しく育てるんだ。
長い年月を生き続けるには強靭な精神が必要不可欠だから、ほとんど虐待みたいな試練を与えたり必要な事は何でもスパルタで詰め込まれる。
だから母親が自分に与えてくれる愛情の深さに、子供の頃は全く気が付かない。メトセラの家庭は、どこでも親子関係が険悪なのはその所為だろうね」
「ユウさんの場合はどうだったの?」
「ああ、うちは母さんは子供の頃から軍隊みたいに私を育てたから、虐待っていう言葉の意味すら知らなかったよ。
今から考えると普通の家庭ではなかったけど、幸いなことに母親の愛情を疑ったことは全く無かったな」
「問題なのは、自分の出自を理解していない普通の人に、突然メトセラの遺伝因子が先祖返りで発現した場合だね。
メトセラの遺伝子は母系遺伝だけど三千年以上と言われている長い年月の中で、メトセラの男性がばら撒いた遺伝子が偶然が重なって収束するケースがあるんだ」
「そこで生まれた子供は、青年に達した後にようやく自分が他の人たちとは違うのを自覚する。
『Iレヴェル』の場合には老けない体質って言い訳が効かなくなるには、それほど時間が掛からない。
係累はどんどん亡くなっていって、本人が周囲から孤立していくからね」
「加齢しないで、いつまでも同じ姿で生きている。
これだけで迫害の対象になってしまうから、プロメテウスは世界中に張り巡らしたネットワークを使って絶えず探索している。
長生きが頻出する家系や、明らかにメトセラの男性の子孫と思われる人物は常にその動向を見守っているんだ」
「私の場合は?」
「ルーの個人情報にアクセスした事は無いから、残念ながら私にはそれを説明できないな。
でもここに推定17才で辿り着くことが出来たから、それはさほど重要ではないかも知れない」
「ルーがプロメテウス国民として望まれているのは、まず学生として自由な身分を満喫すること。
それで余裕が出来たら、自分の能力を出来るかぎり広げていくのが周囲の期待している事かな」
「ねぇ、ユウさんってパイロットなんだよね。
私も操縦を習って飛べるようになれるかな?」
「ここで操縦を習うのは難しいけど、ハワイベースに行けば訓練できるよ。
それも学園の授業単位に換算できるから、教務担当に希望を出せばたぶん許可されると思うよ」
「わぁっ!ユウさんが教えてくれたり?」
「残念ながらまだインストラクターの資格を持ってないから無理だけど、ハワイベースにはレシプロの練習機もあるから時間がある限りトレーニングできるんだ。
有視界飛行の免許なら、座学さえ頑張ればそれほど難しくないと思うよ」
「ハワイで飛行訓練かぁ……行けると良いなぁ!」
「この学園に入学出来た時点で、本人の希望は最優先で実行されるから大丈夫じゃない。
アンみたいに在学中に中尉に任官して、戦闘機に乗っている子も居るからね」
「あの年でлейтенантって!すごいなぁ」
「こうして興味があることをどんどんやって見るのが、最初の段階だね」
「ユウさん、やっと眠たくなって来たから部屋に戻るね」
「ああ、おやすみ!」
「そうだルー、寮に居るときはビール以上の強い酒は禁止ね。
ここは大使館の敷地だから問題無いけど、寮では治外法権が適用されないから」
もっとも寮の規則でも、ニホンの法律とは違って16才以上の生徒にはビールやワインの飲酒を禁じていない。
これはニホン国籍以外の出身者が、多数居ることからの配慮である。
さらに言えば寮のキッチンにはTokyoオフィスと同じ生ビールサーバーが用意され飲み放題なので、この規則すら守られているのかどうかは定かではないのだが。
「了解。会話も無しに飲んでもつまらないし、ユウさんが居る時だけにするよ」
濃い水割りを数杯飲んでもルーの様子は全く変化が無いので、ビール程度ならばいくら飲んでも問題は無いだろうとユウは考えていた。
それよりもルーの襟元から覗いたチョーカーの存在が、ユウにはとても気掛かりだったのである。
お読みいただきありがとうございます。