007.I Don't Care
高層マンションの上層階から見るイケブクロの夜景は、街の煩雑な色彩が隠されてとても美しい。イケブクロの繁華街でも派手な電飾看板は昨今の省エネのお陰で淘汰され、地味なLED照明に置き換えられているのである。
ツーリングから帰宅してソファで寛いでいるノエルは、ソファに身体を投げ出し目を閉じている。
ソファの足許で『もそもそ』と動いているのは、ペットでは無くCongoh製のロボット掃除機である。以前は和光技研のアイザックが稼働していたのだが、人型ロボットが嫌い?なノエルの要望で返却され、単機能の掃除機に置き換えられたのである。
立ち上がったノエルは冷蔵庫から黒いアルミ缶のビールと、ニーガタ老舗メーカーの柿の種を取り出す。プルトップを開けてビールをぐいっと煽ると、器用に摘み上げた柿の種を口一杯に頬張る。
アルコール度数が12%のこのビールは、英国の小規模なビール会社の製品である。
プレミアが付いたおかげでニホン国内では異常な価格になっているが、通常の代理店を通さない裏ルートで入手しているノエルは現地とほぼ同じ価格で入手している。
ワインやビールは普段から飲みなれているノエルだが、度数が高いビールで普段より強い酩酊感を感じてリラックスしている。
ちなみにヨーロッパでは軽いアルコールに対する年齢制限が緩いので、外食でもビールやワインの提供を拒否される事は滅多に起こらないのである。
高層マンション特有の生活音が室内にも微かに響いているが、ノエルは薄暗い室内からただ夜景を眺め続けているのであった。
☆
トーコが帰宅した学園寮。
テーブルに置かれた大皿の焼きまんじゅうを、エイミーとマイラがせっせと口に運んでいる。
これはトーコのグンマ土産をエイミーが焼き上げたものなので、現地で食べるのに近い香ばしさが感じられるだろう。
「半日ノエルと過ごしてみて、どうだった?」
太い竹串から器用に団子を横咥えしているピアは、ニホン各地に長期滞在した経験があるので焼きまんじゅうも当然知っているようだ。
「今日はちょっかいを出されて暴れてましたけど、基本的には周りは見えてましたね。
シンが同年齢の頃より、落ち着いているんじゃないでしょうか」
焼きまんじゅうは現地でしっかりと食べたのか、トーコは手を付けずにエイミーが煎れた緑茶を静かに味わっている。
「思ったより窮屈なニホンが、合っているのかも知れないなぁ」
「でも一緒に居ても、なんか余所余所しいというか距離を感じますけどね」
「あいつは同年輩や年下と一緒に居た事が無いから、どうしたら良いのか分からない部分があるんだろうな。でもお前やマイラには、それほど警戒心を抱いてないように見えるが」
「それは多分、私達が戦闘能力皆無だと判断してるからでしょうね。
ユウさんにはかなり気を許してるみたいですけど、身構えた気配は消していませんし」
「へぇ、トーコでもそういう判断が出来るんだ。
典型的な平和ボケしてるニホン人だと思っていたが」
「以前よりは鈍感じゃないと思いますよ。
軍事教練に参加した経験もありますし」
「なるほど。
アリゾナでの経験が、無駄にならなくて良かったな」
⁎⁎⁎⁎⁎⁎
翌朝の雫谷学園。
「母さんから様子を見るように頼まれてるんだから、今日は私の授業に付き合って貰うわよ!」
学園のエレベーターホールでノエルを待ち伏せしていたリコは、ノエルに向かって勝手に宣言する。
待ち伏せが可能になったのは、ノエルが履修登録している数少ない授業を裏から手を回して調査したのであろう。
「別に……世話してくれなくても」
年下とは言えそれほど年齢が離れていないノエルは、ぶっきらぼうな口調で返答する。
細かいニュアンスを伝えられるという事は、かなりニホン語に慣れてきたのであろう。
「貴方を見てるとなんか弟を見てるみたいで、口を出したくなるのよね」
「……」
ノエルは処置なしという表情で、大袈裟に肩をすくめてみせたのであった。
「でも確かに、兄弟のように見えるのは間違いないですね」
授業が行われるトレーニングルームで顔を合わせたエイミーは、二人が実は異母兄弟であるのを来歴を見て知っている。
だがそれをわざわざ本人達に告知するほど、お節介では無い。
そもそもメトセラという集団は親戚だらけなので、一々指摘していたらキリがないのである。
組手を行うために、受講者は全員ヘッドギアやオープングローブ、脛当てを装着している。
以前シンが組手で着用したエキスパート向けの軽量なハードタイプでは無く、衝撃を吸収するタイプの柔らかい装備である。
「それじゃ、体格的に近いメンバー同士でスパーリングをやってもらおうか。
エイミー、ノエルの相手をよろしく」
「了解!」
エイミーは床で横開脚をしながら、ユウに応える。
最近成長が著しい彼女は、まるで小柄なバレイダンサーのような無駄の無い体型に育っている。
「ノエル、エイミーは普段から私が鍛えてるから、手加減や遠慮は無用だよ。
それじゃ初め!」
ユウの合図を聞いた瞬間、エイミーの表情から微笑みが消える。
無表情で細めた瞳がノエルの動きを鋭く捉え、ノエルに強いプレッシャーを掛け続けている。
ほぼ背格好は同じだが場馴れしているノエルは、彼女の発するプレッシャーを物ともせずに中腰でエイミーの動きを観察している。
距離を詰めてきたエイミーにノエルは側面に回り込もうと動くが、彼女は鋭いフットワークでリズムを変えて懐に入ろうとしてくる。タックルを予期したノエルは重心を更に低くして後退するが、それはフェイントだったようだ。
ガードが緩くなったノエルの顔面に、エイミーの腕が素早く掠ったように見える。
脳を揺らす見えないジャブがノエルの顎をヒットし、ダウンはしないまでも彼の足を止める。
エイミーは距離を直ぐに縮めずに、用心深くノエルの死角に回り込む。
いつの間にかノエルの腰に回された手は、彼を持ち上げてそのまま投げの体勢に入っている。
なんと投げ捨てるのでは無く、そのままエイミーの両足はしっかりと地面を踏みしめてブリッジの体勢を維持している。ヘッドギアをしているとは言えマットに頭部を強く打ち付けられたノエルは、脳震盪を起こしほぼノックアウト状態である。
「あらら、暫く見ない間にエイミーは強くなってたのね!」
授業に参加せずに見学していたリコが、思わず声を上げる。
「それまで!
リコ、そこの冷凍庫から氷嚢を持ってきてくれるかな?」
「はい。ユウさん」
☆
ヘッドギアを付けていたとは言えダメージを受けたノエルは、同じマンションのリコと一緒にタクシーで帰っていった。講師役だったユウは今日はカフェテリアの夜番が無いらしく、エイミーと一緒に徒歩で学園寮に戻っていく。
場所は変わって、学園寮のリビング。
「夕食は寮のキッチンで私が作ろうかな。
エイミーはシンが居なくてオーバーワーク気味だから、今日の夕食当番はお休みね」
「ユウさん、マリーさんの食事は大丈夫なんですか?」
「うん。今日はフウさんと一緒にビストロで外食だから、問題無いと思うよ」
「ユウ、私がお手伝いするよ!」
「ああっ、マイラありがとう。
頼りにしてるよ」
⁎⁎⁎⁎⁎⁎
「あれっ、マリーさんどうしました?」
食事当番を免除されたエイミーは、タブレットを使ってリビングで定期配送便の発注をしていた。
シンが不在の間は彼女に日常業務が集中しているので、調理以外にも仕事が山積みなのである。
「……やっぱり量が足りない。
お代わりを言い出せなくて、こっちに寄ってみた」
「マリーさん、シンが作り置きの魯肉飯で良いですか?
ユウさんがキッチンに入ってますけど、量が足りなそうなんで」
「うん!エイミーありがとう!」
「あれっ、マリーが来てるの?
もしかして量がもの足りなかったのかな」
厨房に入ってきたエイミーに、ユウが声を掛ける。
彼女は大量の鶏肉に下味を付けているので、メインのメニューは唐揚げなのだろう。
「追加で早炊きのご飯を用意しますね。
シンが作った魯肉飯は、大量にストックしてますから」
「あれっ、作り置きしてあるなんてシン君にしては珍しいね?」
「本人も長期出張になりそうな予感がしてたんでしょうね」
「女王様のご指名とはいえ、骨休みできてるかどうかが心配だよね」
「もしかしてアクシデントが起きてるかも知れませんが、なんとかなると思います」
エイミーの予言じみた真剣な口調に、ユウはシンが予期せぬトラブルに巻き込まれているのをしっかりと認識出来たのであった。
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