004.Everything Sad Is Coming Untrue
♪〜
ノエルの指が鍵盤に触れた瞬間、優しく繊細な音色が耳に飛び込んでくる。
シンプルなブルーノートから生み出される、即興のブルーズである。
ソファで寛いでいるクーメルは流れてきたピアノの音色に気持ち良くなったのか、大きく欠伸をすると静かに目を閉じた。普段はリビングに流れているテレビの音にも敏感なのだが、ノエルが奏でるピアノの音色は特別なのであろうか。
リビングに居るメンバーは、各々アルコールやそれ以外の飲料を飲みながら演奏に耳を傾けている。
「ねぇノエル、ボーカルがある曲を聞きたいな」
リビングに居るメンバーの中では最も音楽に詳しいルーが、指慣らし中?のノエルにリクエストをする。
ちょっとはにかんだ表情のノエルは、小さく頷きブルーズのスタンダード・ナンバーを静かに歌い始める。
♪Everyday I have the blues♪
シンよりも高い声域のノエルの歌声は、不思議な印象を周りに与える。
柔らかく滑らかな声質は、ブルーズながらも聴いているメンバーにまるで子守唄のように響いている。
歌い終えたノエルをリビングの一同はしっかりと拍手で讃えるが、ここでノエルは椅子から静かに立ち上がりエイミーに目配せを送る。
「ああ、もうお帰りですか?
それじゃ、これを持って帰って下さい」
エイミーが手渡したのはシュリンクが掛かったままの、サンプル盤CDである。
「?」
「シンのリリースしたCDです。
多分ノエルさんなら気に入って貰えると思います」
「Merci.
Je Revidendrai」
「今度はぜひシンに会いに来てください。
シンは貴方に会えれば、とっても嬉しいと思いますよ?」
「Estーil heureux?」
「あなたはシンにとっては、本当の弟のような大切な存在ですから」
「???」
「会って話してみれば、すぐに分かると思いますよ。
貴方の血筋は、とってもシンに近いのをお忘れなく」
☆
数日後、雫谷学園。
ノエルは、待ち合わせに指定された防音室の扉をノックする。
特に反応が無いのでドアを少しだけ開けると、室内にはピアノを前にした講師役?の女性と縦笛のような楽器を手にしている少女が居るようだ。
「ああ、いま前のレッスン中だから、そこに座って待っていてくれる?
マイラ、それじゃ最後にもう一度通しでやってみようか?」
ドアの横に設置してある椅子に腰掛けたノエルは、室内を改めて見渡す。
防音壁に囲まれた窓が無いこの部屋には、グランド・ピアノ以外にも様々な種類の楽器が並んでいる。
ピアノの伴奏でマイラが吹き始めた楽器は、ソプラノ・サックスのような甲高い音色を響かせる。
♪Amazing Grace♪
縦笛のような外見だがリードも付いているようで、ブレスによってロングトーンが多いメロディにしっかりとイントネーションが付いているのが分かる。
座って演奏を鑑賞していたノエルは、曲を吹き終えた少女にしっかりと拍手を送る。
気を遣ったのでは無く、シンプルな楽器に加えられた表現力にとても感心したからである。
マイラは多分初対面であるノエルに向かって、拍手のお礼なのか満足気な笑顔を見せている。
「うん。それじゃこの曲はお終いね。
次回までに、次の課題曲を選んでおいてくれるかな?」
「はい。ありがとうございました!」
「貴方がノエルね。
私が依頼があったピアノの講師役のタルサです」
ノエルは右手を差し出しながら、学園の公用語であるニホン語で話しかける。
「どうも。
よろしくおねがいします」
ちなみにノエルのニホン語は日々進歩しているが、まだ流暢とは言えないレベルである。
「早速だけど、どんな曲でも良いから演奏して貰えるかな?」
マイラはドアの前に立っていたが、ノエルに興味があるのか椅子に腰掛けて引き続き見学するつもりのようだ。
「それじゃ、かのじょと同じ曲を」
ノエルは驚いた表情のマイラにウインクを送り、同じ主旋律の曲を弾き始める。
♪〜♫
ゴスペル・ブルーズにアレンジした『Amazing Grace』は、ラグタイム調のスローなリズムで演奏されている。洒落たフィルインを交えた演奏は、全体の印象を崩さずにとてもバランスの取れた演奏である。
「ふ〜ん、即興でこれだけ演奏できるなら、今更教わる事は何も無いと思うけど。
今までは誰に教わって来たの?」
「……なくなった母です」
ここで鍵盤から指を話したノエルが、一瞬の間の後に返答する。
「あなたのお母様は、とても優秀な先生だったのね。
残念ながら私のピアノの技術では貴方に教えられる事はあまり無いけど、それでも良いかな?」
「はい。
よろしくおねがいします」
⁎⁎⁎⁎⁎⁎
「ねぇノエル、この後用事が無いなら、私達と一緒にお昼を食べない?」
マイラが防音室で待っていたのは、タルサと一緒に昼食を摂る予定だったのであろう。
「ここのカフェテリアで?」
「いいえ。今日はマイラが一緒だから、回転寿司なんてどう?」
「ええ。よろこんで」
防音室を出た一行は、エレベーターで地階に移動する。
「事務局のお姉さんは、ニホン語がまだ苦手だって聞いてたけど。
かなり流暢に喋れるじゃない?」
開店準備で慌ただしい地下のショッピングエリアを歩きながら、タルサはノエルに話し掛ける。
「アジアのことばははじめてなので、とってもむずかしいです」
「ところでニホンに来てから、お寿司は食べた?」
「フランスではたまにたべてましたけど、ここではないです」
「Poisson Cruは、苦手なの?」
「いいえ。
ぶつぎり定食は、すだ食堂でたべました。
とってもおいしかったです」
「ああ、マグロのぶつ切り定食ね」
「あそこは私も好き!
おばちゃんも優しいし、お腹いっぱいになるし」
いつの間にかマイラは、初対面の筈のノエルと手を繋いで歩いている。
強引に手を繋がれたノエルは、驚いたことに組んだ手をブラブラさせて笑みを浮かべている。
「ニホンは衛生管理がちゃんとしてるから、生魚も魚卵も安心して食べれるんだよね。
よし到着!」
イケブクロ東口にほど近いその店は、間口が狭く奥行きがある回転寿司店のレイアウトである。
ウインドに貼られた手書きのポップは薄汚れた感じだが、地元に密着した人気店のように見える。
偶然に空いていた並びの席に腰掛けると、慣れた様子で湯呑みにお湯を注ぎながらマイラがいきなりカウンターへ注文を行う。
「板さん、ひらめ頂戴!」
「はいよっ!」
マイラは既に数回この店を訪れているらしく、注文を受けている板前さんも彼女の事を認識しているようだ。ニホン人とは掛け離れた容姿の美少女が、通を気取って白身から注文するのを面白がっているのかも知れない。
「ところでノエルは、マリーさんと一緒に食べ歩きをしてるんだって?」
「はい。いろいろとおそわってます」
マイラに倣いながら、ノエルは湯呑みにティーバックを入れてお湯を注いでいる。
「ああ、だから回転寿司は初めてなんだ。
寮の近所の回転寿司は、マリーさんは出入り禁止みたいだからね」
ノエルの分の箸と小皿を用意しながら、タルサはカウンターに聞こえないように小さな声で呟く。
「???」
「ほら、マリーさんが入店すると、握りが間に合わなくて店がパニックになるから」
「ああ、なるほど」
「ノエルなら、最初は巻物から食べると違和感が無いかな。
すいません、鉄火巻と干瓢巻を下さい!」
「はいよっ!」
「……まわってるのは、食べないんですか?」
「この店では、レーンを回ってるのを食べる常連さんは居ないみたい。
回っている分は、見本みたいなものと思った方が良いかも」
「なるほど」
「欧米の握り寿司は黒い海苔を使わないから、最初は違和感があるけど。
ニホン産の海苔は、食べ慣れると本当に美味しいからね」
タルサは職人さんから手渡された巻物の皿を、ノエルの前に並べていく。
切り口が潰れていない美しい巻物は、職人の腕前が分かる大きなポイントなのである。
「板さん、コハダ頂戴!」
「はいよっ!」
マイラはマイペースで、注文を連呼している。
「ノエル、味はどうかな?」
鉄火巻と干瓢巻を交互に食べている箸使いは思ったより上手で、小皿で醤油を付けるのも危なげ無く見えている。
「とってもおいしいですね。
このかんぴょうって、なんですか?」
「乾燥させたウリ科の植物だね。
植物性の食べ物だから、繊維が豊富で体にも良いんだよ」
幼少時からニホン食に馴染んでいるタルサは、干瓢についてもしっかりと知識を持っているようだ。
「マイラは、握り寿司がお気に入りなんだよね?」
「うん!『寿司の日』で食べてから、大好物になったんだ!」
「すしのひって?」
「ユウさんと、エイミーが、TokyoオフィスでCongohの関係者に寿司を振る舞う日だよ。
この日に合わせて出張してくる司令官が多くて、いつも大盛況になってるみたい」
「ユウさんは、すしもつくれるんですね」
学園のカフェテリアで面識があるので、ノエルはユウの料理の腕前を既に知っているようだ。
「私もユウさんから、お寿司の事を一杯教わったんだ!
板さん、今度はイクラとウニを頂戴!」
「はいよっ!」
「ユウさんはかなり小さい頃から修行をしていたから、ニホン料理なら何でも作れるみたい。
シンもレパートリーが広いけど、ニホン料理についてはユウさんに教わっているみたいだしね」
「ニホンにきておどろいたのは、食事がやすくておいしいことです。
ただ、フランスりょうりが高いのにもおどろきましたけど」
「商店街のマリーの馴染みのビストロに、今度行ってみると良いよ。
マリーがお気に入りだから、味は保証付きだしね」
「きんじょにビストロがあるんですか!行くのがたのしみです」
「えぇっと板さん、今日はシャコありますか?
それじゃ、2枚下さい」
「はいよっ!」
悪戯っ子のような表情で、タルサは受け取った一貫のシャコをノエルの前にことりと置く。
艶があるツメがしっかりと塗られているが、特徴的な段々が付いた黒っぽい外見は初めて見たノエルにはかなりのインパクトがあるだろう。
皿を前にしてフリーズしているノエルを見ながら、タルサは嬉しそうな表情でシャコを頬張る。
剥き身では無く店で仕込んでいるのか、しっとりとした身の歯ごたえが絶妙な出来栄えである。
彼女は母親からユウに近い食育をされているので、料理の見掛けで躊躇するような食わず嫌いは全く無いのであろう。
「板さん、私にもシャコ頂戴!」
「はいよっ!」
「ふふふ、これって色がくすんでるけど、味は|手長エビ《Langoustine》みたいで美味しいんだよ」
マイラが注文を入れたのを見て恐る恐るシャコを口に入れたノエルは、咀嚼するにつれ表情が変わっていく。ツメの甘辛い味付けは、ニホン料理に慣れていなくても違和感が少ないのであろう。
「C’est bon!」
「ね、お寿司はやっぱり美味しいでしょ?」
自慢するようなマイラの一言に、タルサとノエルは顔を見合わせて微笑んだのであった。
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