038.Right With You
工房からの帰路。
荷物が想定外に増えたので、連絡車を使って移動したのは正解だったようだ。
イケブクロに近づくと、すでに昼食の時間を大きく過ぎているタルサの胃袋がぐうっと音を立てる。
試奏に夢中になった結果、シンのお土産のピーカンパイも殆ど口にしていなかったのであろう。
彼女は米帝育ちなので胃の鳴った音に赤面する事は無いが、ここで自分の空腹状態にやっと気がついたようだ。
「寮は誰も居ないから、何処かで食事をしてから帰ろうか?
何か食べたいものはある?」
「好き嫌いはありませんので、シンの好きなもので大丈夫ですよ」
米帝で育って自己主張が強そうな彼女だが、都内のこの近隣ならどんなジャンルの料理でも選り取りみどりなのを理解していないのだろう。
学園の入ったオフィスビルのフードフロアすら彼女はまだ訪問していないのだから、知らなくて当然なのであるが。
「道なりにあるデ●ーズとかに入ると、ビックリするだろうからね」
「ニホンのデ●ーズって、美味しくないんですか?」
「名前と看板デザインを借りてるだけで、まったくの別物だからね。
味はこっちの方が美味しいと思うけど、ベーコンが入ったボリュームのあるメニューなんかは全く無いから」
「……」
急に黙ってしまったタルサは、ベーコンまみれのトンデモ・メニューに嫌な思い出でもあるのだろう。
「ラーメンはまだ食べ慣れてないだろうから、この辺りなら『おにぎり専門店』が良いかな」
「えっ、おにぎりに専門店なんてあるんですか?」
「To See is To Believe!」
黄色い看板の有料駐車場に車を停めた二人は、オーツカの商店街に入っていく。
シンの言うおにぎり専門店は、ニホンでは珍しい質実剛健な白いアクリル看板の店である。
台北の街並みに存在するならば違和感が無いのであろうが、ニホンの商店街では逆の意味で目立ってしまっている。
「タルサは、キャビアは食べれるのかな?」
カウンター席に座ると、シンは念のために彼女に確認する。
好き嫌いが無いと言っても魚卵を食べる習慣が無い米帝出身者の場合、生理的に受け付けない場合があるからだ。
「はい。キャビアは母親が好物なので、私も大好きです」
「それじゃ、最初に焼きタラコとオカカとツナをセットで2人前!」
カウンター内に居るおばちゃんはシンの流暢なニホン語に安心したのか、注文を受けるとすぐに調理を始める。この店は外国人旅行者も良く訪れるのだが、具材の説明については普段から苦労しているのだろう。
豆腐の味噌汁と一緒に提供されたおにぎりセットは、海苔が巻いていない部分に僅かに具材が顔を出している。
これによって、中身が何かを判別可能なのだろう。
「これが焼きタラコですか?」
タラコは加熱後にほぐしてあるので、魚卵の生々しさはあまり感じられない。
これが血管が浮き出しているそのままのタラコだと、忌避してしまう外国人が出て来るかも知れないが。
「……うん。塩加減が丁度良いですね。
美味しいです!」
「それは良かった」
彼女はかなりの空腹だったのか、3個のおにぎりをあっという間に完食した。
特にツナは食べ慣れた味なので、違和感が全く無かったのであろう。
「あのシン、自分で注文して良いですか?」
「もちろん。『塩辛』以外なら、何を注文してもほとんど大丈夫かと思うよ」
「その『塩辛』って、何ですか?」
「シュールストレミングってあるじゃない?
あれをソフトにしたようなイカを使った発酵食品だね」
「すいません!シオカラを2つ追加で!」
タルサはカウンターに居るおばちゃんに、躊躇無く注文を入れる。
「うわっ、タルサってチャレンジャーなんだね」
「母からは食わず嫌いしないように、教育を受けてますから」
シンはまだ2つめのおにぎりを頬張っているが、彼女は追加の塩辛おにぎりを一気に頬張る。
嗜好から外れていなかったのか、一個目の塩辛おにぎりはあっという間に彼女の胃袋に消えていった。
「なんかアンチョビの風味に似ていて、とっても気に入りました!
魚介の香りとしょっぱさで、なんか懐かしい気分ですね」
「サラさんはニホン食にも詳しそうだから、もしかしたら子供の頃食べた事があるのかもね」
⁎⁎⁎⁎⁎⁎
「すいません!おみやげで30個お願いします。
具材は売れ筋の中から、おまかせで!」
3個めのおにぎりに漸く手を付けたシンは、ここでカウンターのおばちゃんに持ち帰り分の注文を入れている。
手際の良いこの店でも、30個を持ち帰りで用意するには、それなりに時間が掛かるからである。
ここ最近胃袋拡張を心がけていたシンであるが、今日はちょっと一休みなのだろうか自分の食べる分の追加注文はまだ入れていない。
「寮生でニホン出身なのは、トーコさん位ですよね?
皆さんおにぎりが好きなんですか?」
タルサは既に10個近いおにぎりを口にしているが、まだ満腹にはなっていないようだ。
メニューを眺めて、次に何を注文しようか思案しているようである。
「トーコはニホン育ちだけど好き嫌いが多いから、タラコはともかく筋子とか塩辛は食べないんじゃないかな。
マイラは逆に先入観が無いから、筋子とかタラコだけじゃなくて卵料理が大好きなんだよ。
ロシアに長く居たルーも、筋子とか大好物だしね」
「そこまで皆さんの好き嫌いを把握してるんですか?」
「ああ勿論。毎日の食事で、ストレスが溜まると本末転倒だからね。
タルサは好き嫌いが無いみたいだから、とっても助かってるよ」
「そういうシンは、嫌いな食べ物ってあるんですか?」
「実は食べられない食材は幾つかあるんだけど、それは内緒だよ。
でもスーパーとかで売っているものの中には、食べられないものは無いと思う」
「それだけでも、十分に凄いと思いますけど」
「タルサがステージで会ったユウさんには、絶対に敵わないと思うけどね。
すいません、葉唐辛子を追加で下さい!」
「あっ、私も同じものを2つで!」
シンは〆のつもりで注文したのであるが、タルサの具材に対する探究心はまだまだ衰えを見せていないのであった。
☆
翌朝、トレーニングルーム。
最近は早朝トレーニングする寮生が増えたので、トレーニングルームの設備が増強されトレッドミルの数も増やされている。
「あれっ、タルサ早いね?」
「おはようございます。
子供の頃からの習慣なので、トレーニングしないと落ち着かなくて」
トレッドミルから降りて来たシリウスは、彼女の姿を見て尻尾を盛大に振っている。
静かに頭を撫でられているので、ここ数日で仲良くなったのだろう。
「あれっ、もうシリウスと友達になったんだ」
「はい。『犬科』の動物は、大好きなので」
わざわざ『犬科』という言葉を使ったのは、シリウスの正体をサラから聞かされていたのだろう。
「そういえば、ワイリーはどうしてるのかな?」
「最近はすっかり飼犬化して、キャンプの中で静かに暮らしていますよ。
母さんは家で飼いたいみたいですけど、さすがに法律がありますから」
トレッドミルの高速設定で走り出したタルサは、無駄の無いフォームでまるでマラソンランナーの様である。
ノーチラスで上半身の筋トレをしているトーコは、ちらりと彼女に視線を投げたがあくまでも無関心を装っている。
「タルサって、ハナと違って鍛えてるよね!
今度一緒に体術のトレーニングもやってみる?」
リサと面識があるルーは、娘であるタルサに対しても親近感があるようだ。
「ええ、是非お願いします!」
「タルサ大丈夫?
ルーはこの寮では、体術では向かう所敵無しなんだよ」
「大丈夫です。
母親に勝てた試しはありませんけど、最近は骨を折られたりしてませんから」
「最近は……って」
最近体術を初めたトーコが血の気が引いた表情で呟く。
彼女がルーやタルサと一緒にトレーニングできるのは、まだまだ先になりそうである。
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