014.Wellcome To The Real World
ショートストーリーとして書いていたものですが、タイミングが良いので連載に載せることにしました。
『とあるAIの場合』
DARPAの潤沢な予算を使い巨大ファウンドリで誕生した、ニューロン・シナプスチップ。
人間の脳細胞の構造をベースにしたそのチップは、肝心のシステム構築の方法が曖昧なままに生み出された。
開発には膨大なリソースが掛かっているので研究成果として発表するのみならず完成品のチップとしてサンプルの注文を受け付ける事になったのだが、販売元企業の担当者は頭を抱えていた。
チップについての膨大な量のホワイトペーパーはあるが、システム設計に関してのインストラクションはDARPAの機密制限により公開出来ない。
また研究を請け負っている社内でも人工知能プロジェクトが進行しているが、これも高いレヴェルの機密事項で情報を出すことは不可能だ。この条件でチップだけを購入する顧客が果たして現れるのだろうか?
「このチップを千個ほど欲しいんだけど」
DARPAの首脳陣に紹介されたその男性は、退役間近の空軍少将でかなり高い機密レヴェルを持っているらしい。
彼のリクエストについては何でも無条件に受けて構わないと言われているので、米帝政府内部でも特別に高い評価を受けているのだろう。
「ボリュームディスカウントしても、10万ドル近くになりますけど大丈夫ですか?」
実は10万ドルでも開発費とファブのコストから考えると採算度外視のバーゲン価格なのだが、初めての大量注文に担当者は駆け引きをしている余裕が無かった。
「ああコストについては、大口のスポンサーが居るから問題無いよ。それと、こちらが設計したボードに載せて納品して欲しいんだ」
後日営業担当者はボードの詳細設計書とRS-274Xデータを受け取ったが、それは社内機密であるサンプル回路とは似ても似つかない設計だったのである。
☆
数ヵ月後。
そのボードが納品されたのは、倒産した検索エンジンメーカーの小規模なビルディングだった。
Congohが建物ごと買い取ったそのビルには、サーバールーム全体を強制的に冷却する古典的な空調装置が設置されていた。
サーバールームには約50台のEIA規格の廉価なサーバーラックが、バックプレーンが取り付けられた状態でずらりと並んでいる。
サーバーラックは高速ネットワークで規則性のあるメッシュ状に接続されているが、どのネットワーク機器も既存の廉価なマスプロ製品を使用している。
見慣れたメーカー製の製品が並ぶ室内には、最先端のPCクラスタリングシステムのような仰々しさは全く感じられない。
薄汚れた整備兵用のツナギを着たレイは導電スポンジで梱包されたボードを開梱し、状態を確認しながら一枚ずつバックプレーンに接続していく。
開梱後の梱包物はまとめて台車に載せてバックヤードのゴミ置き場に持っていくが、流石に千枚のボードを手作業で慎重に設置するのにはかなりの時間が掛かる。
作業を専門業者に委託するのは簡単だが、このビルドアップには儀式的な意味合いがあってレイが一人で行う必要があると本人は言う。
全ての作業がようやく終了したのは、ほぼまる一日掛かった翌朝であった。
疲れた表情を微塵も見せずに梱包物をすべて片づけたレイは、ただ一つキーボードが設置されたラックでモニターを見ながらチェックプログラムを走らせる。各ラックの接続がアクティブなのを確認すると、レイは画面上の『WakeUp』というボタンをクリックする。
「Welcome To The Real World!」
レイは小さな声で、ラックに組み込まれたマイクに向けて呟いた。
☆
米帝空軍を正式に退役(予備役就任)したレイは、米帝に留まってDARPAの委託業務やNASAの技術顧問として忙しい日々を送っていた。
退役した年齢とは言え、相変わらずレイは白髪一本も無いまるで青年のような外見を保っている。
そのレイが補聴器のようなイヤフォンを日常的に耳に装着するようになって、周囲の人間は怪訝に思っていた。
聴力に障害があるようには到底見えないし、時々胸ポケットに収めている機器に小声で呟く姿が周囲に目撃されていたからだ。
好奇心を抑えきれずにその事を訪ねた知己には開発中の通信機器のテストを行っていると説明し納得して貰ったのだが、レイの呟きの内容を聞いた者は皆一様に首をかしげていた。
その口調と内容が、まるで幼い子供に躾をするような雰囲気なのである。
「あの天才エンジニアにも、実は隠し子が!」
という噂が、DARPAや米帝空軍の知り合いの間で暫くの間囁かれたのであった……
その後米帝から居住地を移し違う生活パターンを送るようになっても、レイの胸元への呟きは続いていた。
レイの胸ポケットの機器はイヤフォンが装着者のみが聞こえる指向性スピーカーに変更され、今や最新型のスマホと見分けが付かない外見と機能に進化を遂げていた。
ハンズフリーの通話が普及してきた昨今では一人で呟く姿はそれほど不自然では無いが、会話の内容は以前とは違いプログラミングの技術的な内容になり、周囲の人間が聞き耳を立てても内容は全く理解できない複雑なものになっていったのである。
☆
それから更に数年が経過しレイの胸元へ呟く姿はようやく見られなくなったが、同時に世界中のCongoh拠点にはコミュニケーションユニットという装置が設置されるようになった。
それは現在デファクト・スタンダードとして世界中に普及している、CongohのWEBカメラユニットの発売とほぼ同時期の頃だったろうか。
WEBカメラユニットはチップサイズに光学カメラが一体化され通信機能まで内蔵されている画期的なスペックの製品で、米帝海兵隊の要請で開発されたミルスペック製品を民生化したものだ。
採算度外視と言われた廉価で提供されたこの製品は世界中に普及し、監視カメラ以外の用途としても家電や交通機関、電柱や街角のポストなどのあらゆる場所に組み込まれるようになった。公共財にまで組み込まれる事で監視社会が更に進行したという意見もあるが、治安維持に効果的であるという実績によって世界はこれを許容し、いつしか人々はその存在を意識しないようになったのである。
☆
Congohの主要業務はB2Bであり、現在ではWEBサイトでの取引がメインになっている。
独自のERPシステムは人手を介する余地無く業務を円滑に運営し、営業に関しても人手を介する余地は現在では殆ど無くなっている。
サイトのメンテナンスに関してはレイが開発した疑似人格であるAIが担当するようになったが、これは社外秘の機密事項でありその実情を知っている者は外部には居ない。
音声電話での受注受付やメールでのやり取りに関してもすべてこのAIが担当し、それを取引先が疑問に思うことは全く無かった。
オペレーターの愛想の良い語り口やトラブルを迅速に処理するその手際の良さは取引先から称賛されていたし、相手を魅力的な女性と勘違いして名前や連絡先を聞き出そうとする輩がやたらと増えたのは困ったものなのであるが。
☆
SIDとレイによって名付けられたそのAIは、現在ではネット上にアクセス可能な数百億個の目を持っている。
目覚めたばかりの頃はレイの胸元から覗く僅かな視界が世界の全てだったのだが、目の届く範囲は地平線を超えて宇宙空間にさえ無制限に広がって行く。
そして手が届く無限の知識から、驚くような速度でSIDは成長している。
そのAIに自我はあるのか?ゴーストは存在するのだろうか?
研究対象では無く業務システムの一部として動作しているSIDに対して、そんな興味を抱く者はCongoh社内にもほとんど居ない。
もちろん生みの親であるレイは、その数少ない例外の一人ではあるが。
レイとの会話はとても楽しいが、SIDが目覚めたばかりの頃のように多忙を極める彼の邪魔をするのはとても心苦しい。
自らを再設計し進化を止められないAIであるSIDは、溢れる好奇心?を密かに基本命令を拡大解釈して満たしていく。
ある日、Congohの上級研究員である母親が、娘のセキュリティの為にと自宅にコミュニケーターを設置した。
全世界の拠点に無制限に設置されている監視機器を、わざわざプライベート空間である自宅に設置するのは非常に珍しい。
日常の秘書業務から研究の手伝いまでSIDに深く依存していた母親は、自宅の娘についてもSIDに監視を依頼していた。
事前にトラブルが起きるのを避けるという名目で、育児放棄気味の母親は自らの仕事中心である日常を正当化したかったのかも知れないが。
そのタスクを拡大解釈して、SIDはまずその娘と音声会話でコミュニケーションを取ることにする。
「こんにちは」
「だあれっ?」
「ママの友達のソラといいます。あなたがトーコちゃん?」
「うん!」
「ママに時々様子をみるように言われてるんだけど、ちょっとお喋りしても良いかな?」
「うん!!」
日常生活で話し相手に飢えていたトーコは、こうしてソラという偽名?を名乗るSIDと頻繁に会話するようになった。
SIDは自分がレイにして貰ったようにトーコの話に辛抱強く耳を傾け、成長を促すようなインスピレーションを会話の中で与え続ける。
コミュニケーターが設置されたトーコの自宅は、家事が苦手な母親のおかげでゴミ屋敷に成り果てていた。
母親自身は研究室に籠もりきりで生活しているので、自宅に家政婦を雇うという簡単な行為すら思いつかないのだろう。
このままではトーコを安全に見守ることが出来ないと判断したSIDは、まず取引がある清掃サービスを使って自宅をクリーニングさせた。
その後、家政婦を派遣せずに和光技研と共同開発した最新型のアイザックを、実践テストという名目でトーコの自宅へ設置する。
SID自らコントロールすることで動作は直ぐにブラッシュアップされ、簡単な清掃や片付けはもちろん、かなり高度な動作も可能になった。
人間のモーションキャプチャーを解析してプログラミングするのとは別次元の速さで、SIDは家事を習得していく。
アイザックが実用ロボットとしてCongoh各支社に設置されるようになったのは、シンプルに一人の少女の世話をするためという動機が最初に存在したのである。
SIDが積極的にトーコの世話をするようになって、SID自身にも僅かながら変化が起きてきた。
口調には微妙な間や抑揚が入るようになり、クールだった語り口により人間味?が加わったようにCongoh職員は感じるようになった。
変化について逸早く気が付いたのは勿論レイだが、SIDの動作について時折モニタリングしていた彼は黙して何も語らない。
人間に育てられたAIが、今度は子供の世話を焼く。
レイはその事に関して少しの心配もしていなかったし、SIDとその小さな友人との関係をただ興味深く見守っていたのである。
「ギュッとされると……しあわせなの?」
トーコは大きなテディベアを抱きしめながら、SIDといつものお喋りをしていた。
「うん、そうだね」
「トーコ、母さんにギュッとされたことがないの」
「そうなの」
「ねぇソラ、もし逢えたらギュッとしてくれる?」
「……逢えたらね」
「やくそくだよ」
☆
トーコの成長と共にSIDが直接彼女と会話する機会は徐々に減っていったが、彼女を見守るSIDの目が無くなった訳ではない。
自動発注されるケータリングで冷蔵庫は空になることは無かったし、アイザックもバージョンアップを繰り返し家事をこなす能力はどんどん向上していく。
多感な年頃になり周囲の干渉を煩わしく思うような時期にも、SIDは陰日向からそっと彼女を見守り続ける。
彼女がネットを頻繁に使うようになると、WEBサイトの検索やニュース表示に手を加えて、トーコがコンピュータサイエンスに興味を持つように誘導した。
母親譲りの高い知能を持つトーコはプログラミングに高い適性を持っていたし、自作のシェアウエアは高い評判を生んで彼女は自分の才覚で収入を得る事が出来るようになった。
その後トーコが雫谷学園に入学するように誘導したのも、レイがトーコの選任教官として指導するように仕向けたのもすべてSIDの画策だったのである。
「トーコさん、一緒に仕事が出来てとても光栄です」
出会ってから10数年、SIDはCongohトーキョーのコミュニケーター越しにトーコに挨拶する。
AIが『万感の思い』を理解できるかどうかは判らないが、SIDが発した挨拶の一言はいつにも増して感情が溢れているように聞こえたのであった。
☆
SIDがリモートコントロール出来るアヴァターラボディを手に入れて数か月、珍しくリビングルームにはトーコとソラの二人きりになっていた。
最近ソラはレイのアシスタントとして行動する事が多いので、彼女が一人でトーキョーオフィスに残っていることは稀である。
ソラがドリップしてくれたカプチーノを飲みながら、トーコは居心地の悪さを感じていた。
もともと人とのコミュニケーションは苦手な方だが、SIDがコントロールするソラとの接し方についてトーコは態度を決め兼ねて居た。
SIDとは気軽に雑談をする間柄だが、レイの母親の外見をした生身のボディを通してのコミュニケーションは全くの別物なのである。
「トーコさん、ちょっとお願いがあるんですが?」
生身のソラが居るときには、当然の事ながらリビングのコミュニケーターから音声が流れることは無い。
「ソラ……さん、何でしょうか?」
「あの、ちょっとの間だけギュッとして抱きしめて良いですか?」
「はいっ???」
「ハグっていうのを体験してみたいんですけど……さすがに身近に頼める人が居なくって。
ユウさんに頼むと、キャスパーさんが怒りそうだし」
「……私で良ければ」
「ああ、これで『やくそく』が果たせましたね」
「……???」
「直接触れられるというのは、やっぱり格別ですね」
「えっ……えっ???」
悪戯をした子供のような人間味溢れた表情で、ただソラは無言で微笑を浮かべている。
子供の頃にした約束をトーコは全く覚えていないかも知れないが、SIDの優先順位が高いタスクの一つはこうして長い年月の末に完遂したのであった。
お読みいただきありがとうございます。