022.The Healing Has Begun
翌朝。
「あれっ、随分と早起きだね?」
トレッドミルを使用中のシンが、トレーニングルームに顔を出したベックの姿に気がつく。
彼女は足取りもしっかりしていて、病み上がりとは思えない溌剌とした雰囲気である。
「海兵隊の習慣で、早起きが身についちゃってさ。
シンは毎朝、トレーニングしてるの?」
彼女はトレーニングウエアに着替えているので、リハビリを兼ねた軽い運動を行うつもりなのだろう。
「うん。エイミーやルーが居る場合は、もっと人数が多いけどね。
最近はトーコまでメンバーに入ってるよ」
「へえっ、あのトーコがねぇ。
トレッドミルはまだキツそうだから、ペダルでもゆっくりと漕ごうかな」
バイクに向かう彼女の足取りはふらつく様子も無く、ハンドルをしっかり握るとペダルを踏み始める。
「でも僅か一日で、すごく良くなった感じがするよね?
湯治って、そんなに治療効果が高いのかな?」
「そうなんだよ!
多分シンが身体を洗ってくれたのが、一番効果があったんじゃない?
隅々まで丁寧に洗ってくれたし!」
ペダルを漕ぐ動作もぎこちなさが無く、とてもスムースである。
多分痛みや違和感はまだ残っているのだろうが、それは本人しか分からない部分である。
「うっ……それは良かった、ね」
数十分後。
「ベック、もうそろそろ朝食の時間だよ」
「……ああ、調子が良すぎて止め時がわからないや」
息も切らさずにベックが応える。
負荷はそんなに低くない筈だが、彼女はほとんど汗をかいていないように見える。
前日はプラスティックの風呂桶すら持てなかったのに、驚くべき回復力である。
「シャワーは一人で浴びれるかな?」
「うん。浴槽に入らないから大丈夫だと思う。
気を使ってくれて、有難う!」
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自室で手早くシャワーを浴びたシンは厨房に向かうが、ここでリビングのソファで新聞を読んでいるフェルマに気がつく。
ティーテーブルには湯気の立ったコーヒーカップが見えるので、カプセルマシンを使って自分でドリップしたのであろう。
シンがトレーニング開始前に用意したボウルを、綺麗に食べ終えていたクーメルはフェルマから離れた位置のソファで熟睡している。
腹部を上に向けている無防備な姿勢は、寮の環境にしっかりと適合しているからであろう。
「あれっフェルマさん、カーメリ組は帰国が遅れてますよ」
マイラの帰国に合わせて来ると聞いていたので、彼女が前触れも無く現れたのはシンにも想定外である。
尤も学園寮の入退室はSIDが管理しているので、フェルマならば事前連絡無しでもフリーパスで入って来れるのであるが。
「妹の事はともかく、さすがに半病人を2日も放置するとお世話が大変でしょ?」
いつもながら彼女のウインクは、相手が鈍感なシンであっても破壊力抜群である。
「お気遣い、ありがとうございます。
それでベックなんですけど、予想外に回復が早いみたいなんですよ」
ここでリビングに顔を出したベックを、フェルマが手早く診察する。
聴診器は使っていないが、触診で手足の状態を慎重に確認していく。
「あら……なんでこんなに回復が早いのかしら?
硬直していた筋肉や関節も、すっかり柔軟になっているし。
シン君、何か変わった事をしなかった?」
リビングと厨房を繋ぐ小窓から、フェルマが調理を始めたシンに声を掛ける。
「え~と、大浴場でスポンジで洗浄してあげた位でしょうかね?」
シンは調理中なので、彼女の詰問に目を合わせずに答えられたのはラッキーかも知れない。
リビングに居るベックはフェルマとそれほど親しく無いので、俯いたまま赤くなった顔色を誤魔化している。
「……ふぅん、なるほどね」
「えっ、何なんですか?」
ワゴンに炊飯ジャーや味噌汁鍋をセットしたシンが、此処で漸くリビングに出て来る。
食器の数が多いのは、フェルマ分の朝食も用意していたのであろう。
「校長先生が寮に入って貰えって言ったのは、こういう裏があったのね」
「えっ、裏って?」
「あなたセルカークで、何か新しい技術を身につけたんじゃない?」
「……ええ、良くご存知ですね」
「人体治癒とまではいかないけど、あなたの手には治療を促進する効果があるみたいね」
「えっ、アイラさんからそんな説明は聞いてないですけど……厄介事がまた増えたような気がしますね」
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「SID,カーメリからの帰国メンバーはどうなっているの?」
シンは朝食の洗い物をしながら、コミュニケーターでSIDと会話をしている。
「ワコージェットの修理待ちですね。
未だにエンジンパーツが、ワコー技研の北米支社から届いてないみたいで。
アンさんも困ってるみたいですよ」
一行の人数なら物資輸送の定期便に同乗して帰国するのも可能であるが、チャーター便では無いのでスケジュールを合わせるのが難しい。
アラスカ周りの航路だと、Tokyoオフィスに辿り着くのが一週間後などという大回りの可能性が出て来るのである。
「今アンと話が出来るかな?
……シンだけど、大変みたいだね?」
「そうなのよ!
今ワコーのエンジニアと、流用できそうなパーツを探してるんだけど
サイズが微妙に合わないのが殆どなのよね」
「ねぇ、もしかしてベルさんの事を忘れてるんじゃない?」
アンとしては珍しくワコーのエンジニアの誘導もあって、思考の袋小路に入ってしまったのだろう。
「……そうか!彼女はファイタージェット専門という訳じゃないものね!
ねぇシン、急ぎで空輸を頼むかも知れないけど今日は大丈夫?」
「うん。寮で待機してるから、必要になったら呼び出してくれるかな?」
☆
場所は変わって数時間後のアラスカ・ベース。
結局カーメリまで同行する事になったベルは、ジャンプで急行してきたシンと資材倉庫でパーツを探している。
送られて来たCADの図面を見て追加工するよりも、カーメリで現物合わせをした方が確実に手間が短縮できるからである。
古めかしいスチール棚には、ダンボールに入った航空機の部品が所狭しと並んでいる。
本来ならばこういったストックパーツは2次元コードで管理すべきものだが、責任者であるベルはその必要性を感じていないようである。
「シン、ビッザ釜が欲しいんだって?」
ベルは箱を開けて中身を確認し、また箱に戻すのを繰り返している。
セルカークの完全自動化した管理庫とは違って、かなり前時代的な光景と言えるだろう。
「ベルさん耳が早いですね。
エイミーがかなり真剣にピッザ作りを学んでるので、やっぱり薪を使える釜が欲しいかなあって思ってるんです」
「今レストア中の仕事がひと段落したから、学園寮で休暇を取ろうかと思ってさ。
その時にでも、ついでに釜を作ろうかな」
目的の小さなパーツをやっと見つけたベルは、作業用ツナギの胸ポケットに箱を押し込む。
「それは大歓迎ですよ。
でも釜を組んでたら、休暇にならないんじゃないですかね?」
「そっちにリハビリ中の若いのが来ただろ?
フウから、彼女のリハビリついでに手伝わせろだってさ」
「ああ成程。
ベックはああ見えて手先が器用ですから、手伝いで役に立ちそうですよね」
メトセラの問題児として名を馳せていたベックだが、プラモデル作りには意外な才能を発揮していたのをシンは覚えている。
彼女の数少ない作品は、マリーの自室の陳列棚にしっかりと保管されているのであった。
☆
場所は変わってカーメリ基地ハンガー。
ベルが必要とした修理時間は僅か30分で、コックピットで飛行前のチェックをしているアンは複雑な表情をしている。
「ここ数日の私の苦労は、いったい何だったのでしょうか?」
「まぁ私と同じ修理スキルを持った人間は居ないから、そんなに気にしなくても大丈夫だよ」
チェックに立ち会っているベルは、リストが表示されているLCDの自己診断画面を興味深げに見ている。
このワコージェットはプロメテウス義勇軍所属でありながら、ベルが担当していない珍しい非武装の機体なのである。
「……それにベルさん、なんかエンジンの調子がとっても良くなった気がするんですが?」
「ああ、目に付いた部分をちょっとだけ弄ったけど、気にしない方が身のためだよ」
「……」
見慣れないアビオニクスを堪能したベルは、コパイシートをリコと交代して後部シートに移動する。
ちなみに定員の問題があるので、シンはエイミーと先に帰還したので此処には居ない。
ピアとベルは数年ぶりの再会にも関わらず会話が無く、二人の間には微妙な緊張感が感じられる。
「ところで、シリウスが居ないけど留守番をしてるのかな?」
ベルが目の前の席に座っているルーに質問する。
「ああ、カーメリは窮屈で可哀想なので、シンがハワイに連れて行ったみたいですよ」
ここで機体はタキシングを開始し、パイロットシートから振り向いたアンがシートベルト着用を指示する。
隣のシートで出発前から熟睡しているマイラのシートベルトを、気が付いたルーが手際良く装着している。
「なるほど。
ハワイで休暇というのも魅力的だけど、ラーメン屋の数が少ないからなぁ」
話しかけられたルーは、ベルのカップ麺好きを知らないので首を傾げている。
もちろん彼女も麺類は嫌いでは無いが、グルメでは無いので自ら店を探すなど思いも付かないのである。
ここでメイン滑走路から機体が静かに離陸する。
「ルーはラーメンに興味が無くても、ラグマンなら好きだろう?」
彼女の出自や過去ついて知っているのか、ベルがルーに唐突に尋ねる。
シンはかなり詳しく彼女の過去について知っているが、情報源は彼なのだろうか?
「ええ、シンから聞いたんですか?
でも近場にはラグマンそのものを食べれる店が無いので、商店街にある太麺で豚骨スープのラーメン屋には良く食べに行きますね」
「シン君と雑談しているとエイミーの事と同じくらい、君の話題も出るからね。
ロシア料理好きって聞いてたから、ラグマンも好きなんだろうと思ったんだ」
「私の事なんて、ベルさんは興味が無いんじゃないかと思ってました」
「とんでも無い!
君が乗っているA-10は、数百機レストアした中でも私の最高傑作だからね。
相応しいパイロットの手に渡って、とっても嬉しく思ってるんだ」
「……」
「それにレイほどの血縁じゃないにしても、シン君は私にとっても可愛い孫みたいなものだからね。
その大事なガールフレンドを、私が無碍に出来る訳が無いだろ?」
無邪気に笑うベルは、他の司令官クラスのメンバーと比べても若々しく活気に満ち溢れているように見える。
物静かで達観しているようなピアとは、また違った意味で魅力に溢れた人物なのである。
(こういう風に、自由に生きられたら理想的なんだろうな)
ルーの漠然としていて先が見えない自分の未来について、ピアはこうして大きな指針を与える事になったのであった。
お読みいただきありがとうございます。