004.The Dwelling Place
夜半の学園寮。
共同スペースであるリビングの大きなカーテンが開かれ、大きな窓から閑静な街並みが見える。
ここはイケブクロの繁華街からかなり離れた、ネオンの光や喧騒が届かない閑静な住宅地である。
明るいLED街灯が通りを照らしているが、人通りは全く見えない。
時折帰路を急ぐサラリーマンの靴音や自転車の走行する音が響くが、静寂が破られるのはその刹那だけである。
ソファの上で膝をかかえ、リラは虚ろな表情でニホンのテレビ番組を一人眺めている。
寮に来てからほぼ二週間が経過しているのだが、彼女はまだ時差ボケを克服できていないのだろうか?
「……眠れないのかな?」
人の気配に気がついて真っ暗なリビングに顔を出したシンが、優しい口調で尋ねる。
シンは寮長を拝命している訳では無いが、居住しているケイとパピ以外のメンバーについては絶えず気を配っている。
「はい。こんなに空が暗くなるなんて……。
それに思ってたより静かで、怖いほどですね」
アラスカベースは閉鎖された空間に展開されている本当の地下都市なので、深夜になっても生活騒音が止む事が無い。
研究者は昼夜問わずに活動しているので、生活リズムとしては夜型の人の方が多いのであろう。
「もしかして、ホームシックになってる?」
シンはリビングに設置してあるカプセルマシンに、ココアのフレーバーをセットしながら尋ねる。
彼女が此処での生活に適合するのを見守って来たシンではあるが、ここ数日はコミュニケーションを頻繁に取っていなかったのである。
「……どうなんでしょう?
あれだけ母親の目が届かない場所に行きたいって思ってたのに。
いざ離れてみると、ちょっとだけ寂しい気もしないでは無いです」
年齢不相応な発言ではあるが、実際には彼女の精神年齢はかなり高い。
シンから受け取った熱くて甘いココアを飲みながら、彼女の表情はやっと生気を取り戻して来たように見える。
「僕も母親と死別した時には、同じような気持ちになったかな」
シンの本音としては実妹と死別した衝撃の方が遥かに大きかったのであるが、まだ会ってから日が浅い彼女に話せる内容では無いだろう。
「……」
「まずは自由を満喫して、ここでの生活にゆっくりと慣れて欲しいな。
学園は君が学びたいと思えばどんな分野でも協力してくれるし、決して急かされたりする事はないからね」
「……」
リラは無言ながらも、こくりと頷く。
シンを見ているその眼差しは潤んではいるが、涙は零れていない。
「あれっ、こんな時間に内緒話?」
ここでリビングの明かりが点灯し、Tシャツと短パン姿のルーが登場する。
彼女はいつものように空のパイントグラスを手にして、ビールサーバーの前に直行する。
「ルー、またビールなの?」
シンもこのビールサーバーは頻繁に使っているが、水代わりに飲んでいるルーの消費量には敵わないだろう。
幼少時から育ての親の晩酌に付き合わされて来たルーは、アルコールに対する耐性が異常に高いのである。
「シン、ちょっとお腹が空いたし何かつまみが欲しいな」
「……うん、ちょっと待ってて」
シンは何か思いついたのか、隣接しているキッチンへ向かう。
普段なら自家製のコンビーフやチーズのスライスで済ませるのだが、何か試してみたいメニューがあるのだろう。
「アラスカとは日の出や日没の時間がまるで違うから、生活のリズムに慣れるのが大変でしょ?」
ソファに深く腰掛けグラスを傾けながら、ルーはリラに尋ねる。
挨拶はしていたが、個人的な彼女との会話は初めてである。
「ええ。
もしかして、アラスカベースに居た事があるんですか?」
「いや、僕が居たのはアンカレッジだけどね。
それにロシアに住んでいた時期もあったし」
「ルーさんは、パイロットだって伺いましたけど?」
「うん。ライセンスを取ったのは、ほんの数ヶ月前だけどね。
パイロットというよりは、僕の本業は歩兵なんだけどね」
「その若さで手に職を持っているのは、素晴らしいですよね」
彼女は母親の関係でプロメテウス国籍も保持しているので、義勇軍の事も理解している。
本業が歩兵だと自称するのも、国民皆兵のプロメテウスから言えば極めて当たり前なのである。
「別に生業を意識した訳じゃないんだよ。
ただ昔見たハリウッド映画に憧れて、飛んでみたかっただけなんだよね」
「……えっ、そんな動機でライセンスを取ったんですか?」
「うん。雫谷学園では、それが許されるからね」
「それは……すごいですね」
「学園は最大限の便宜を計ってくれるけど、途中で投げ出したりすると我儘も通らなくなるみたいだけどね。
ニホンの企業へインターンで行って活躍してる子も居るし、他のインターナショナルスクールとは次元が違うかな。
まぁ私も他の学校へ通った経験が無いから、どの位差があるか分からないけどね」
「おまたせ!」
リビングに現れたシンは、2枚の平皿をテーブルの上に置く。
「へぇっ、これってブリヌイじゃない?」
半円形に折り畳まれたクレープのような生地には、なにか具材が挟まれているようだ。
「うん。生地にそば粉が入ってるタイプだけどね。
今日は間に合わせの具材しか無いから、ルーの分はサーモンとチーズだけだよ。
リラの分はホイップクリームとバナナね」
リラはこのメニューが大好物なのか、デザートスプーンで大雑把に切り分けた生地を慌ただしく口に入れる。
口一杯に頬張ると、物憂げだった表情がいつの間にか満面の笑みに代わっている。
「ねぇ、シンってまるでお母さんのように見えるでしょ?」
「うちの母は夜食はおろか、食事の支度をしてくれた事がありませんから。
こんなお母さんが居たら、理想的ですよね」
リラはブリヌイを次々と頬張りながら、とても満ち足りた表情である。
「うっ、せめて頼りになるお兄さん位にしておいて!」
ルーの頭を小突いているシンは、気を悪くした様子も無く笑顔である。
まるで兄妹のように遠慮の無い二人の様子を、リラは羨ましそうに見ている。
「私は生んでくれた両親の顔すら知らないけど、今の家族には満足してるよ。
ちょっと姉妹が多すぎる気がするけどね」
「なんかここの皆さんって、とても仲が良さそうですよね」
「ああ、僕を含めて家族運があまり良くない集団だからかも知れないね」
「私もその一員になれるでしょうか?」
「此処に来るのを決めたのは、最終的には自分なんだろう?
まだ言葉の壁があるから遠慮があると思うけど、自分次第じゃないかな」
ルーはビールを煽りながら、静かに呟いたのであった。
☆
数日後。
ドーム型球場に隣接して作られているこの場所は、長い歴史がある遊園地である。
平日という事もあって大学生らしいアベックが数組居るだけで、施設内はかなり閑散としている。
今日は寮のメンバーが授業の無い日なので、社会見学という名目で此処に来ている。
ただしエイミーはユウとの個人的な訓練があり、ケイとパピは平日の休暇が取れなかったので、残念ながら不参加である。
「シン、ここ最近なんか寮に居る時間が長くない?」
ルーはハナをおぶっているシンを、気の毒そうな表情で見ている。
業務の為に数日徹夜をしていたハナは無理に同行したのだが、やはり移動中の車内で熟睡してしまい目を覚まさないのである。
「米帝との往復で慌ただしかったから、ちょっと骨休みして充電しないと。
それに家庭サービスを蔑ろにしてたから、すこし埋め合わせもしないとね」
「そんな重い荷物を背負っては、骨休みになりませんね。
駐車場に置いてくれば良かったのに」
相変わらず突っ込みが厳しいトーコだが、ハナとは業務で協力関係にあるので二人の関係は良好である。要するに、シンと大っぴらに密着できている彼女が羨ましいのだろう。
「だって目を覚ました時に、周りに誰も居ないとあんまりだろ?
それにハナはそんなに重くないから、大丈夫だよ」
「重くない?そうは見えませんけど」
スリムなトーコと比較すればハナの方が重いのは事実だが、上背の差もあるので公平な比較とは言えないだろう。
それに最近夜食を控えめにしている彼女は、しっかりとウエイトコントロール出来ているのである。
「あっそうそう、またヌマザワさんから電話があったわよ。
なんか困り果てたという感じだったけど」
シン一人では目配り出来ないので同行を頼んだアンは、彼女自身も久々のオフなので上機嫌である。
「ははは、ごめんね、何度も電話対応させちゃって」
「ううん。お兄様が不在なのも確かだから仕方がないわよ。
なんか可哀そうになるほど焦ってたから、そろそろ連絡してあげたら?」
「レイさん、まだロシアから帰ってこないのかな?
新しい機体はアラスカベースまで届いていたみたいだけど」
「なんか予備パーツとか、エンジンの調達に時間が掛かってるみたい。
あまり性急に事を進めると、あの国の保安当局とかが煩いみたいだから」
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沢山の遊具が狭い敷地に詰め込まれているので、雑多な雰囲気があるのはこの施設の特徴なのであろう。年少組二人が熱望していたジェットコースターに乗り終えると、一行はその他の遊戯施設を使わずに遊園地を後にする。
「マイラ、他の乗り物は良いのかな?」
「うん。パラシュートで落ちるのは、次の機会にする!
それよりシン、お腹空いた!」
街並みを眺めながらゆっくりと駐車場へ戻っていくが、ここでマイラが食事の催促をする。
まだ正午には時間があるが、商店街の店が営業を開始している頃合いである
「……私も」
マイラと手を繋いでいたリラも、控えめな口調で同意している。
二人はコースターに乗るのを見越して朝食の量を減らしていたので、既に空腹状態なのだろう。
「ファミレスじゃ味気ないから、普段食べれない種類のメニューが良いかな。
でもカツカレーはジンボチョウまで歩かないといけないから、今回はパスだね」
「ごはん……私もお腹が空きました!」
ここでシンに背負われているハナが漸く目を覚ました。
今朝も車に乗り込むまでフラフラしていたので、朝食を食べていないのである。
「もう!目を覚ましたのなら、さっさとシンの背中から降りなさい!」
トーコの突っ込みにハナは漸くシンの背中から降りたが、寝起きなので足取りはまだフラフラとしている。
「シン、この店は姉さんから聞いてるよ。
量は少ないけど、味はまぁまぁだってさ」
スイドウバシ商店街にある間口の狭い店の前で、ルーは立ち止まる。
彼女はマリーと一緒に良く食べ歩きをしているので、店の情報もお互いにシェアしているのだろう。
マリーはフードファイターも吃驚の大食漢であるが、味についてもかなり煩い。
彼女は良く知られた有名チェーンであっても、不味いと思った場合には容赦なくその旨を声に出して表明する。
彼女がまぁまぁという評価をしているならば、大丈夫だろうと判断しシンは小さな暖簾をくぐって入店する。
カウンター席のみの店内なので、一行が座るとほぼ貸し切り状態である。
「私はこの一番大きい奴、ニンニク無しで!」
マイラが見本で飾られている洗面器のようなサイズの丼を見ながら、躊躇なく発言する。
「あの、この店の大魔神盛りはかなりの量ですので……
お嬢さん達にはちょっと無理だと思いますけど?」
「ああ、大丈夫です。
姉さんから、メニューのボリュームについては聞いてますから」
店の責任者らしき男性は、横から口を出したルーを見てはたと気がついたような仕草をする。
「もしかして、マリーさんのお知り合いの方々ですか?
大変失礼しました!すぐにご用意しますので、お待ち下さい!」
シンは食券をまだ購入していないのだが、注文を確認せずに店員さんはカウンターの中に戻り調理を始めている。
もしかしてマリー専用のスペシャルメニューを、注文を聞かずに用意しているのだろうか。
壁面を見ると、満面の笑みで写っているマリーのポラロイドプリントが額装されている。
手元には大きなボウルが数枚積み重なっているので、どうやらこの店では美少女フードファイターとして名を馳せているらしい。
「あの……こっちの4人は、普通盛で良いですからね!」
食券をまとめて購入しながら、シンがカウンターで調理中の店員さんに慌てて確認する。
ルー、マイラ、リラはかなりの大食漢なのであの巨大な丼は問題無く食べきれるだろうが、シンやアン、トーコはどちらかと言えば小食の部類に入るだろう。
ハナは時間を掛ければかなりの量を食べられるが、彼女は徹夜明けで体調が万全で無い状態である。
(寮のメンバーと違ってマリーは外食が多いし、いつも付き添ってるユウさんは本当に大変なんだろうな)
壁に飾られたポラロイドにも見切れてはいるがユウの姿が写っているので、この店にも当然同行していたのであろう。
寮のメンバーが如何に健啖家であっても、食べる量は常識の範囲から逸脱することは無い。
だがTokyoオフィスでマリーの食事を作る機会が多いシンは、彼女の本当の食事量を自分の目で見ているのである。
カウンターに用意された洗面器のようなサイズの豚丼を見ながら、シンはこの場に居ないユウの気苦労について考えてしまうのであった。
お読みいただきありがとうございます。