001.Warm Heart In a Cold World
アラスカの雪原にある巨大な地下施設。
それが私の現在の住処だ。
物心付いた頃から暮らしているけれど、ここが特別な場所であるのに気が付いたのは私がネットを自分で使えるようになった数年前である。
手が届く範囲だけが自分の世界だったのに、ネットはその領域を大きく広げてくれた。
「The Net is Vast and Infinite」
私が敬愛する『少佐』が仰るように、アクセス制限がされていないCongohの高速回線なら望む所何処でも行ける。
残念ながら今の私の年齢では、自動的にフィルタリングが行われるので辿り着けない場所も多いのであるが。
私の母は研究に没頭しているので、食事を用意してくれる事は殆ど無い。
ただし育児放棄している訳では無いし、私を手元に置いて愛情を注いでくれているのは間違い無い。
ただ私にとっての食卓は此処にある巨大なフードコートであり、それは一人で食事を摂れるようになった数年前から全く変わらない。
人間の体というのは良く出来ていて、好きなものばかり選んでいてもいつしか体が不足するビタミンを要求するようになっている様だ。
習慣になっているコンビネーションサラダとミックス野菜ジュースは、いつの間にか私が注文しなくてもトレーの上に置かれるようになった。
いつものようにあと一皿を物色していると、作り置きされた見慣れないメニューが並んでいるのに気が付く。
「コニー姉さん、このボールみたいなのは何?」
食堂のメニューはくまなく制覇している私だが、目の前の料理には心当たりが無い。
これはもしかして……
「ああ、それはニホン食のおにぎりだよ。
ゲストでニホン料理が上手な人が来ているから、作ってもらったんだ」
「ふぅ~ん、これがおにぎりの実物かぁ」
黒い海苔というのが苦手な人が多いらしいが、私は食材の色については無頓着である。
此処で食べるアラスカ近海の魚は熱帯の其れと違って青やらピンク色をしていないし、要するにおいしければどんな色でも構わないと思っている。
「どう、おにぎりの味は?」
テーブルでハンバーガーを食べるようにおにぎりにかぶりついていると、横から声を掛けられた。
知り合いばかりのこの場所で、いきなり初対面の相手から声を掛けられるというのはとても珍しい。
「あ、はい。とっても美味しいです」
塩で味付けされたサーモンのソテーや、甘辛く煮付けた牛肉が入っているおにぎりは、地味な見かけと違ってとても豊かな味がする。
またツナフレークがマヨネーズで和えられた味のおにぎりは、食べ慣れているマヨネーズ味なので違和感を全く感じない。
粘り気のある白米もなぜか甘みが感じられて、見た目のシンプルさと違ってこれだけで完結している料理なのが理解出来る。
「それは良かった。
美味しいって言ってくれた人が一人でも居れば、作った甲斐があったかな」
私に話しかけて来た見掛けないハンサムなお兄さんは、とても優しい笑い方をする。
彼は私と同世代に見える金髪の美少女と、中型の犬を連れている。
容姿はあまり似ていないが、二人は兄妹のような親しげな雰囲気である。
(家族連れで休暇?
……私にもあんなお兄さんが居れば良かったのに)
☆
翌日のフードコート。
「えっ、ポークカツレツじゃなくて、『トンカツ』が食べたいんだって?」
朝食の後にはいつも顔見知りのコックさんにリクエストをするのだが、『トンカツ』はさすがにレパートリーに入っていないようである。
「ええ。ネットのニホン食の記事を見てると、かならず出てくるんですよ。
一度も本物のトンカツを食べた事がありませんので、食べてみたくって」
「シュニッツエルなら直ぐに出来るんだけど、昨日おにぎりを作ってくれたシン君が今は居ないからなぁ」
ビンゴ!まだあのニホン食に詳しいお兄さんが居るなら、これは期待できるかも知れないぞ!
「シンは今除雪作業に行ってますから、戻るのは昼食前になりますね。
トンカツは何度も作って貰ったことがありますから、大丈夫だと思いますよ」
昨日食堂で見かけたあの美少女が、流暢な英語で私に話し掛けてくる。
どうやら遅い朝食中に聴きなれた名前が聞こえたので、声を掛けてきたらしい。
足元にはお座りの姿勢?の中型犬が、首を傾けてじっと私を見ている。
このアラスカベースでは散歩が必要な犬は全く飼われていないので、私は手の届く範囲に居るその生き物にかなりビビり気味である。
「シリウスはとっても賢いですから、近づいても大丈夫ですよ」
私の軽いパニック状態に気が付いたのか、彼女は安心するように私に声を掛けてくれた。
そういえば同年代の子と会話するのも、数か月ぶりのような気がする。
「本物の犬は初めて見たんで……あの、撫でても良いですか?」
「もちろん!」
その犬はまるで会話の内容を理解しているように、慣れない手つきで毛皮を撫でる私を嫌がらずに実に穏やかな様子である。
「うわぁ、温かいんですね!
毛皮がフカフカだぁ!」
これが噂の『モフモフ』という奴だろうか。
部屋のベットに居るヌイグルミとは違って、毛皮の下にはしっかりと筋肉の存在を感じられる。
犬っていう生き物は、こういう感触、こういう匂いなんだ!
「シリウスって言うんですよ。
ほらシリウス、彼女にご挨拶してくれる?」
「バウッ!」
小さな吼え声は、まるで私に宜しくと言っているように聞こえる。
「私はリラよ。
宜しくシリウス!」
「バウッ!」
思わず抱きついた私の頬を、シリウスはペロペロと舐めてくれる。
犬って、こんなに人語を理解出来る賢い動物だったのかしら?
ペットは飼った事が無いけど、今度犬を飼うのをオネダリしちゃおうかな。
⁎⁎⁎⁎⁎⁎
夕刻。
私の無理なお願いが伝わったのか、ハンサムなお兄さんは厨房にユニフォーム姿で立っていた。
私は仲良くなったエイミーとシリウスと一緒に、厨房の様子が見える席でその様子を眺めている。
「ああ、この豚肉ブロックなら美味しいトンカツが出来ると思いますよ。
イベリコ豚のロースは単価が高いんで、普段の食事では贅沢すぎて使えませんけど。
あとパンドゥーミって、ありますか?いえ、パン粉を作らないといけないので。
それと、定期配送便で手に入るニホンのウースターソースが必要ですね」
「ニホンのソースは誰も使わないから、冷蔵倉庫に保管してあると思うよ。
たしかリーペリンの横にあったかな」
「ここのフレンチフライは、ラードを使ってましたよね?」
「ああ、そこのフライヤーにラードが入ってるよ。
不健康でも、あの食感じゃなきゃ嫌だって人が多くてね」
「休暇で来てるのに、いろいろと無茶なお願いをして申し訳ありません」
厨房の外から私が声を掛けると、シンさんは笑顔を浮かべながら優しい言葉を返してくれる。
「君は小さいのに、随分としっかりしてるんだね。
僕も昔はここに住んでたから、食事の重要性は理解してるから大丈夫だよ」
厨房の調理担当者数名にレクチャーをしながら、シンさんはトンカツの調理を始める。
パン粉?を作るところから始めたのを見ていると、何か申し訳ないような気持ちになってしまう。
揚げ終わったトンカツを数分放置して、余熱が回った頃に、シンさんはまな板の上で手際良くカットを行う。
ザクッ、ザクッと衣が音を立てて、切り口から湯気が立ち上る。
「うわぁ、これが噂に聞く本場のトンカツなんですね!」
数分後私に配膳されたトレーには、ネットの画像で見たままのトンカツ定食が並んでいた。
「味噌汁は何とか作れたけど、付け合わせの小鉢は間に合わせなんだゴメンね」
生まれて初めて口にした味噌汁は、予想外の出汁の旨さにビックリだ。
生臭い魚は苦手だけど、この深みがある味は癖になりそうな美味しさである。
トンカツはあらかじめカットされているのが、ニホン式の作法なのだろうか。
慣れない箸を使って口に運んだトンカツは、コロモがさくっと音を立てる。
「美味しいっ!トンカツってこんなに肉が柔らかくてコロモがクリスピーなんですね。
シンさんって、どこでこんな調理の腕を身に着けたんですか?」
ニホン製のウースターソースはかなりの甘口だが、コロモの味と口の中で一緒になると信じられない美味しさである。
「最初は趣味かなぁ。
今は毎日住んでいる寮の食事を作ってるから、ある意味仕事でもあるよね」
彼はコック服姿のまま、エイミーとシリウスの分のトレイも配膳する。
シリウスは白米の上に盛り付けられたトンカツを、食べ散らかすことも無く味わっている。
あれっ、飼い犬って人間の食事をそのまま食べて大丈夫なのかな?
シリウス、貴方ってかなりのグルメなんだね!
「……当分食べられそうも無いメニューですから、しっかりと味わせて戴きますね」
「大丈夫。トンカツと味噌汁のレシピや作り方のポイントはキッチンの人達に伝えたから。
今後はレギュラーメニューとして、お握りと一緒で頼めば作って貰えると思うよ」
⁎⁎⁎⁎⁎⁎
食事のお礼をして居室に戻っていた私は、さっそくラップトップでCongohの職員名簿を閲覧していた。
私も上級研究員の娘としてIDを持っているので、検索するのには何の支障も無い。
(ああ、小さい頃にここに長期滞在してたって、本当だったんだ!)
アラスカ、イタリア、米帝と目まぐるしく居住地が変わっているが、現在のシンさんはTokyoオフィスの所属になっている。
(Shin……どこかで見た事があるようなスペルだよね。
あっ、あの開かずの扉がある部屋だ!)
屋外で遊ぶ事が出来ないこの地下設備では、研究棟として使われていた老朽設備を探検するのが数少ない遊びの一つである。
老朽設備と言っても耐用年数が異常に長い特殊コンクリートで作られているので、使われなくなった設備は取り壊される事も無くただ放置されているのが現状なのである。
そんな古い研究棟では安全のために施錠されたままの扉は殆ど無いが、ドアにマジックでなぐり書きされているあの部屋は唯一の例外であり私の記憶にしっかりと残っていたのであった。
⁎⁎⁎⁎⁎⁎
数日後。
「ねぇベル姉、シンって人を知ってる?」
良く遊びに行く作業場で、彼女はいつものようにカップ麺を食べている。
お湯を注ぐだけで美味しく食べられるニホン製のカップ麺は、私の見たところ彼女の主食であるのは間違いない。
「うん。レイが可愛がってる弟分だろ。
この間ユウと一緒に来て、まだ滞在中らしいじゃないか」
あの妹さんはエイミーという名前だったから、他にも女性が同行していたのだろうか?
爽やかな印象だったし、さぞかしガールフレンドも沢山居るんだろうな。
「それでその人が昔使ってたらしい居室があるんだけど」
「えっ、覗き見したいのかい?」
「ううん。覗き見じゃなくて、私と同じ位の年に使ってた部屋みたいなんだ。
利用登録されていない部屋なんで無断使用だと思うんだけど、なんか気になって」
「ははぁ無断使用という事は、たぶんそれは秘密基地っていう奴だな」
「???」
「まぁ子供の頃に使っていた部屋なら、入っても構わないんじゃないかな」
「それでどうやったのか判らないんだけど、ドアにセキュリティロックが掛かってて入れないんだ」
「ああ、古い居室だと機械式の鍵やスタンドアロンのセキュリティ装置が付いてる部屋があるからね」
「ドアにマジックで自分の名前以外に『Wicked Knows The Number』って書いてあったんだけど」
「ははぁ、ロック番号を解読出来たら自由に部屋を使って良いという意味なんだろうね」
「それで、この走り書きから暗唱番号って判るのかな?」
「自分で解読しないと、部屋は使えないんじゃないの?」
「……」
「それじゃぁヒントだけ。その『昔の部屋の主』はかなり古いブラックミュージックに詳しいみたいだね」
「ググレカスっていう事?」
「うん。そういうこと」
☆
翌日。
僅か数時間の検索ですぐにパスワードを発見した私は、開かずの扉の前に立っていた。
もしかしてシンさん本人はまだこのベースに滞在中かも知れないが、何か問題があった場合には本人に報告するためという名目があるので好都合である。
子供の頃のプライバシーの侵害?
いやいや、もうかなりの年月が経ってるし、パスワードを解読したんだから大目に見てくれるよね、きっと。
震える指で6345789とパスワードを入力すると、バチッという音でセキュリティロックが解除されたのが分かる。
真っ暗な部屋におずおずと入って行くと、照明が自動点灯し室内が照らされる。
館内を集中管理している空調設備はこの部屋にも効いていた様で、ホコリやカビ臭さも無く室内はかなり綺麗である。
壁一面にある巨大な本棚には、蔵書やCDがびっしりと並びかなり几帳面に分類されている。
(かなり荒れてると思ってたのに、意外だなぁ。
それにしても当時は既にCongohの電子ライブラリが稼動していたのに、何でこんなに本やCDがあるんだろ?)
モニタースタンドに並んだ複数の液晶画面は、蛍光管を使ったかなりの年代物であるが、電源が問題無く入るのでそのまま使えそうな雰囲気である。
電源が入ったままの冷蔵庫には封が切られていない炭酸飲料やビール!が並んでいるが、さすがにもう飲料するのは無理だろう。
(アルコール飲料とかたぶん自分の部屋に置けないものを、ここに隠してたんだろうな。
それにしても、何か怪しげなタイトルの本ばっかりだね)
⁎⁎⁎⁎⁎⁎
休暇の最終日、シンはエイミーを連れて古い研究棟を歩いていた。
「シン、帰る前に見ておきたい場所って何なんですか?」
「うん、僕が子供の頃に使っていた秘密基地があってね」
「……ヒミツキチですか?」
「うん此処なんだけど、あぁどうやら新しい部屋の主が入室中みたいだね。
良かった……エイミーそれじゃぁ帰ろうか」
「えっ、せっかく来たのに入らないんですか?」
「うん。こういった場所は、世代が変わると持ち主は変わっていくんだよ。
僕が設定してあったセキュリティキーも、無事に解読されたみたいだし。
SID,この部屋に居るのは誰なのか判別できる?」
「はい。リラさんっていう上級研究員の娘さんですね
室内には監視カメラはありませんけど、廊下を歩いている姿は確認しています」
「もしかして、食堂で会ったあの子かな?」
「はい。そうです」
「今は同世代の子が見当たらないし、一人でこのベースで生活するのも大変だろうなぁ。
この部屋が少しでも退屈を紛らわすのに役立てば良いけど」
シンの秘密基地は予想に反して彼女のボッチ生活を大きく変える切欠になったのだが、それはまた別の話なのであった。
お読みいただきありがとうございます。