049.Baby Needs New Shoes
数分後。
大統領の要請で人払いしてあった執務室に、シンと副大統領がコマ送りのように突然出現する。
そこには前兆は全く無く、言うならば見えないドアから室内に足を踏み入れるイメージである。
「ただ今帰投しました」
シンは横抱きしていた副大統領を下ろしながら、大統領に報告する。
床に降り立った副大統領はタイトスカートに寄った皺を伸ばしながら、何故か照れたような微妙な表情をしている。
大統領は見かけからは想像できない年齢であるが、副大統領は実年齢が30代であり歴代の副大統領の中でも当然最年少である。
正副大統領の二人は実にフォトジェニックなコンビなので、ホワイトハウス専属カメラマンからも二人が並んでいる写真を頻繁にリクエストされるのは当然なのであろう。
「……シン君、その頬のルージュは何なのかな?」
NASA本部を来訪した後なので珍しくジャケット姿のシンだが、彼女は服装では無く別の部分にいち早く気が付いたようだ。
「ああ、亜空間飛行の時に付いちゃったみたいですね」
すぐ横に居る副大統領は、含み笑いをしながらハンカチで頬を拭うシンの様子を面白そうに見ている。
「ふう~ん、貴方たち前からそんなに仲良しだったっけ?」
「大統領、彼はレイ准将に共に教えを受けた直属の後輩ですから、以前から親しくさせて貰ってるんですよ」
「親しくねぇ……まぁその件は兎も角として、ゴホンッ、今回はとても助かったわ!
彼女も無事に戻ってきたし、本当にありがとう!」
シンは無言で頷くが、もちろんこれだけで自分の仕事が終わったとは思っていない。
「飛行中の787はどうなってます?」
「テロリストがどこかに自爆攻撃しないように、まだ追尾中のF-16が監視しているわ。
燃料が満タンだから、中東の何処かに逃げるつもりなのかも」
「それで警護していたシークレットサービスの方々はどうなんですか?」
シンは客席に散らばっていた血痕は見ていないが、機内に微かに漂っていた煙硝と血の匂いには気が付いていたのである。
「重傷者が居るけど、ボディアーマーのお陰で命には別状は無いから安心して頂戴」
大統領は、まずスクランブル状態のオペレーションルームに連絡するために受話器を取り上げる。
副大統領はシンにウインクしながら執務室のドアを開けるが、大統領の筆頭秘書が突然執務室に現れた彼女に大声を出して驚いている。
タフな彼女は休む間もなく、オペレーションルームに顔を出すつもりなのだろう。
「副大統領、もし僕がまだ必要なら呼び出して下さい!」
ドアを出て行く後姿に一声掛けた後、電話中の大統領に緩い敬礼をしながら、シンの姿は執務室から忽然と消えたのであった。
☆
翌日、Tokyoオフィスのキッチン。
シンはエイミーとピアの付き添いで、Tokyoオフィスに来ていた。
どちらか一人ならジャンプで数秒なのだが、二人一緒の場合には車か徒歩での移動が必要となるのである。
寮に帰還したシンはハイジャックに関する報道に注意していたが、米帝の大手ネットワークでも何の報道もされていないし、緊急の呼び出しを受ける事もなかった。
とりあえず副大統領の奪還が成功したので、怖い話ではあるが787の機体は軍事作戦として極秘裏に処理されてしまったのかも知れない。
「シン、窓口のレイさんが不在の間に、なんかマスコミとかプロモーターから問い合わせが一杯来てるらしいわよ」
寸胴に大量のパスタを放り込みながら、アンが横で下拵えをしているシンに話し掛ける。
ディチェコの大袋は5Kgの重量があるが、巨大な寸胴でもぎりぎり茹でられる分量である。
彼はTokyoオフィスの昼食当番には不参加の筈だが、シンの作ったパスタが食べたいとマリーに頼まれてしまうと断る事は難しい。
最近はアイの薫陶によってレパートリーが飛躍的に増えているので、今日は寮では滅多に作らないパスタメニューをアンと一緒に調理中である。
「あれっ、もしかしてアンに迷惑をかけちゃったかな?」
シンは青いラベルのトマト缶をボールに移してから、味を確認している。
イタリア産のトマト缶は定期配送便で注文できるが、仕入れの関係からメーカーが時々変わるのである。
「ううん。
私も不在の時が多いから、受けてるのはヌマザワさんね。
レイさんともシン本人とも連絡が取れないから、かなり困ってるみたいよ」
「メールアドレスを教えちゃうと、連絡が多すぎて収拾が付かなくなりそうだからね」
タイマーが鳴ったので、シンは巨大な寸胴からボイルバスケットを持ち上げている。
茹で上がり重量は12kgなので、飲食店ですら滅多に見られない分量である。
「それにしても……そのサイズのフライパンを軽々と煽るのよね」
シンはこのキッチンで一番大きなアルミフライパンに、パスタを並々と入れて調理を開始している。
如何に軽いアルミフライパンでも、茹で上がったばかりのパスタは相当な重量である。
「ああ、これはズルしてるから。
アイさんに能力は出し惜しみしないで、日常から使いなさいって怒られちゃったからね」
「マリーの分のパスタを作ると、私は上腕が数日筋肉痛になるから大助かりだわ。
何を作るのかと思ってたら、シンプルなローマ風のトマトソースだったのね」
慣れた手つきであっという間にソースを絡めたパスタを、シンはフライパンを傾けて綺麗に盛り付ける。
「アマトリチャーナは色んなバリエーションを教わったけど、マリーは癖がある味付けは好きじゃないでしょ?
リビングでマリーがフォークを持って待機中だから、先に彼女の分を配膳しちゃおうかな」
⁎⁎⁎⁎⁎⁎
場所は変わって地階にあるトレーニングルーム。
アンのブレードトレーニング用の巻き藁が並んでいるスペースで、エイミーとパピが談笑している。
「これは……すごいな」
エイミー専用に用意された伸縮自在のウイップは、この惑星上に2つしかないレアな装備である。
エイミーによって切断された巻き藁の断面を見ながら、ピアが感嘆の声を上げている。
「ディメンジョン・デブリの自律型ロボットから、取り外したパーツなんですよ。
なんかワイヤーの硬度はダイヤモンドよりも硬いらしいです」
「よくぞここまで習熟したって感じだね。
これで自分では不満があるのかい?」
「あの鋼糸の動画を見るまでは、満足してたんですけど。
あれを見ちゃうと、ため息しか出ませんよ」
「これは特殊なワイヤーを使ったウイップだろ?
ヴィルトスを使った鋼糸は、ちょっと意味合いが違うんだよ」
「???」
並んだ無傷の巻き藁にピアがゆったりとした動作で手を伸ばすと、その瞬間巻き藁が細かく分断されて支柱ごと床に転がる。
横で目を凝らしていたエイミーですら、何が起こったのか肉眼では識別することが出来ない。
「すごいっ!」
「重力とか反発力を使ってないから、音もしないし何も見えないだろ?
メタリの鋼糸は数ミクロンしか太さが無いから、離れると肉眼では見えないしね」
「これは刃物というよりは、マニピュレーターみたいなものなんですね」
「うん。かなり複雑な事もできるよ。
シリンダー錠を開錠したり、体から銃弾を取り出したりね」
⁎⁎⁎⁎⁎⁎
リビングでの昼食。
シン達は漸く食べ始めたばかりだが、マリーは2皿目の巨大パスタを既に平らげて、デザートであるいつものバルク・ジェラートを食べ始めている。
ちなみにジェラートは市販品では無く、アンの経営している店の試作品や賞味期限切れになっている余剰品である。
「へえっ、学園のカウンセラーになったんですか」
「うん、まぁ校長から言われると断れなくてね。
……このアマトリチャーナって、アイのレシピじゃないかい?」
「ええ。良く分かりましたね」
「オリーブオイルを全く使わないで、パンチェッタの脂だけで作ってるからね。
なんか懐かしい味だなぁ……」
「トマトを使わない昔風のレシピも教わってますけど、今日はマリーの好みに合わせたんですよ。
カウンセラーかぁ……ピアさんは他の司令官クラスの方と違って威圧感が無いですから、適材適所ですよね」
「まぁ威厳やオーラが無いって事なんだろうね」
「普段オーラが眩しい方々の相手ばかりしている僕としては、心がやすらぎますよ」
「こらっ!褒めてるのか貶してるのか分からない事は言わないように!」
文句を言いながらも、ピアの表情はなぜか嬉しそうである。
「へへへっ。
それにしてもピアさんは、いつも美味しそうに食べてくれるんで嬉しいです」
「ああ、ここ数年は外食以外の食事は殆ど無かったからね。
ニホンは外食には最高の場所だけど、やっぱり知り合いが作った手作りの食事は格別なんだよね」
「それにしても、ピアさんは随分とシンと距離が近いんですね」
まるで親子のようなフランクな会話に、アンは意外そうな表情をしている。
「そりゃぁそうだよ。
6歳くらいから、今までずっと見てるからね」
「自分の子供みたいな感じなんですか?」
「それはちょっと違うかな。
子供ならもっと厳しく接するけど、シン君に対しては見守るっていうのが基本だったから」
「僕の母親とは、昔からの知り合いだったんですか?」
「うん。自分に何かあったらシンの事をお願いって言われてたから」
「それならフウさんじゃなくて、自分で引き取りたかったのでは?」
「それは無理だったかな。
当時私は多忙だったから、子育てに専念できる環境には無かったからね」
「ところで、ルー達の訓練があるからイタリアで合宿の予定があるのだけれど、シンは参加できそう?」
「イタリアに行くと、また何か起きそうで怖いんだよね」
「往路で事故が起きるよりは、良いんじゃないか。
それに今のシン君が居れば、事故があっても何とかなるだろう?」
「もしかしてNASAでのT-38の件も知ってるんですか?」
「ああ、勿論。
近くには居なかったけど、SIDから逐次連絡が入っていたから。
墜落したり緊急事態になれば、真っ先に駆けつけられるようにね」
☆
翌日の学園校長室。
「校長先生、お会いするのは随分と久しぶりのような気がしますが」
数ヶ月ぶりに校長からの呼び出しを受けたシンは、急遽ジャンプで学園に来ていた。
「最近君は世界中を飛び回って忙しそうだから、なかなか呼び出すタイミングが掴めなくてね」
「はぁ……ゴタゴタしていてすいません。
学園にはちゃんと通ってますけど、滞在時間が短いですからね」
「このタイミングで連絡が付いて助かったよ。
それに君がナナ君の検体に応じてくれたお陰で、多数の転校希望者が諦めてくれてこちらも助かってるよ」
「その件は色々と言いたい事があるんですが、承諾書にサイン済みなんで。
でも今のお話だと、自分の価値が遺伝子だけみたいで悲しいですけど」
「今回は君目当てでは無くて……いや結局は君目当てと言えなくもないのか……学園に入学したいという子が居てね。
それで実質的な寮長であるシン君に相談しようと思ってさ」
ここで校長はマホガニーのデスクに載っていたラップトップの画面を、シンに見えるように向きを変える。
見慣れたCongohのデータベースに表示されているのは、入学希望者の身上書なのだろう。
「あれっ、この子どこかで見たことがあるような……
ああっなるほど、アラスカベースの食堂で会ったあの子ですね!」
シンは現住所を見て、すぐに彼女の事を思い出したようだ。
「生まれてから一度もアラスカの外に出たことが無い子なんで、母親がこれでは教育上問題があると思ったらしくてね」
「僕もアラスカには長期滞在した経験がありますけど、確かにあの場所に長期間居るのは問題がありますよね」
シンが滞在していた時期には、まだ同年代の子供が数人居たので孤独を感じる事は無かった。
だが現在のアラスカベースはコアな研究者の巣窟になっているので、子供の姿を見かけることは殆ど無くなっているのである。
「IQは天才クラスだし、性格も素直でとっても良い子みたいだけど。
アラスカという辺鄙な場所という以外にも、ちょっとした問題があってね」
「ああ、それは想像が付きますよ。
あそこは男性が殆ど居ない場所なんで、その辺りじゃないですか?」
「ご明察。
この子の母親がトーコちゃんの母君に相談したら、ここに来るのが良いんじゃないかとアドバイスされたみたいで」
「ああ、レーコさんの知り合いなんですね。
でもちょっとだけ食堂で話をした限りでは、男性恐怖症みたいな素振りはありませんでしたけど。
食堂の知り合いも、普通に接していたみたいですし」
「ああ、それが今回の話のポイントなんだな。
君のことは彼女も覚えていて、あのお兄ちゃんが居る寮なら大丈夫そうって。
それに年齢が近いエイミーとマイラが居るから、馴染みやすいような気がするんだよね」
「ああなるほど、マイラなら年もあまり変わらないし良い友達になれそうですね」
「そんな訳で、本人を明日にでも迎えに行って欲しいんだけれど」
「それは亜空間飛行で移動した方が、本人には負担が少ないですけど。
いきなり僕に横抱きされて、大丈夫なんですかね?」
「シン君には悪い印象は無いみたいだから、大丈夫じゃないかな。
気に入らない相手を、お兄ちゃんって言わないと思うし」
「寮に女の子ばかり増えていくのは問題だと思いますが、とりあえず了解しました」
「アラスカの社員食堂でしか食べた事が無い子だから、その点も考慮してね」
「ああ、あそこの食堂の知り合いに、どんな物を食べていたのか聞いてみますよ。
それじゃぁ準備があるんで、取り急ぎ失礼します」
「えっ準備って?」
「あそこの地下都市に行く場合には、事前準備が大変なんですよ。
手土産を持って行かないと、後が大変な方が数名居るので!」
ジャンプで世界中を飛び回っているシンは、各拠点に手土産を要求されている知り合いが多い。
特に知り合いが多いアラスカベースに持っていくお土産のリストを考えると、思わず偏頭痛が起きそうなシンなのであった。
お読みいただきありがとうございます。