045.Heart In Pieces
トーコがセルカークから戻った翌朝。
シンとエイミー達の朝は早い。
二人と一匹がいつも時間にトレーニングルームに向かうと、室内には既に照明が点いていてトレッドミルの動作音が聞こえている。
「ルーがこの早朝に走ってるのは珍しいなぁ……あれっ!?」
ここで二人はトレーニングウエア姿のトーコが、トレッドミルで汗を流している姿を目にする。
彼女がこんな早朝から起きているのがまず驚きだが、慣れた様子でランをしているのも二重の驚きである。
トーコを揶揄するつもりは無いので、シンとエイミーは並んでいるトレッドミルで無言で走り出す。
二人に付いてきたシリウスはいつも使っているマシンをトーコが使っているので、彼女が走り終えるのを横でじっと見ている。
「シリウスおはよう!」
設定した距離を消化したので、ゆっくりと止まったトレッドミルから降りたトーコはシリウスに挨拶する。
「バウッ!」
シリウスは首を傾げながら小さく吼え声を返すが、彼女との意思疎通に慣れているトーコは何を求められているのかすぐに理解したようだ。
「シン、シリウスは高速に設定して大丈夫なんですか?」
「うん。1番でお願い」
シンは走りながら、シリウス用に設定してあるプリセット番号をトーコに伝える。
「バウッ!」
トーコにもう一吠えしてから、シリウスも日課になっている高速のランを開始する。
まるで跳ねるようなスピードは、シンのマシンの設定より更に高速である。
過酷な条件でも活動できるK-9は調整能力が高く毎日のトレーニングは必要無いのであるが、彼女は何よりもシンと一緒に居られるのが嬉しいのだろう。
「あらっ、トーコさん少し体型が変わりましたね!」
トレッドミルを走り終えたトーコを見て、ランの最中のエイミーが声を掛ける。
エイミーの鋭い洞察力は、ウエストが締まって上半身に少し筋肉が付いたトーコの僅かな変化も見逃すことは無い。
「そう言えば、なんか印象が凛々しくなったね」
同じような観察眼を持つ筈のシンは、さすがに女性の体型についてコメントするのを差し控えたのだろう。
シンのトレッドミルはかなりの高速だが、息を切らすことも無くまだ会話に参加する余裕があるようだ。
「……少し体重が落ちた位ですかね。
二人みたいな過酷なトレーニングは無理ですけど、徐々に体を動かそうかと」
トーコは軽いダンベルを使った、基本のカールを反復しながら応える。
もちろん筋トレに関しても行き当たりばったりでは無く、アイラから教わったメニューを的確に消化しているのである。
「体を鍛え始めたのは、健康管理以外の目標があるのかな?」
「ええ。今度ハワイベースに行った時には、自分で運転するバイクで島巡りをしてみたいんです。
ジェットの操縦まで出来るメンバーが周りに沢山いるのに、バイクすら乗れないのはどうかと思いますし」
「それなら、トレーニングと並行してTokyoオフィスで練習させて貰ったらどうかな?」
地下に広大な空間があるTokyoオフィスの敷地は、セキュリティ上の理由から何も障害物が無い。
無駄な敷地に見えてしまうので不動産業者が定期的に訪問してくるが、彼らはもちろん地下に大規模な施設がある事を知らない。
一般の公園や教習所で練習するよりは、かなり敷居が低い練習場所と言えるだろう。
「今度フウさんに相談してみます」
タオルで流れてくる汗を拭いながら、トーコは呟いたのであった。
☆
数日後、Tokyoオフィスの敷地内。
何も無い殺風景な敷地には、コーンが立てられた臨時のコースが設置されている。
敷地内は雑草が生えないように全面が特殊舗装されているので、ロードバイクが走っても問題が無くグリップする。
「すごく格好良いカフェレーサーですね!」
付き添いで来ているシンが、フウが荷物用エレベータから押してきた2輪車を見て感嘆の声を上げる。
ちなみにエイミーもTokyoオフィスに同行しているのだが、ユウと一緒にキッチンに居るのでこの場には不在である。
「ああ、これはレイが若い頃にテキサスで乗っていたモペットだからね。
此処を練習で走るには、操作が難しいから最適かも知れないな」
「ちょっと待って下さい!これでモペットなんですか?」
欧州の長期滞在経験があるシンにとっては、公道を走るモペットは見慣れた乗り物である。
年齢制限が緩いモペットは、若かりし頃のレイが日常の足として使っていたのが想像できる。
だがこの美しいパイプフレームや削り出しのサスペンションで造形された2輪車は、どう見てもモペットの規格で作られている様には見えないのである。
「レイが12歳の頃に自分用に改造したらしいから、もう半世紀ほど前の作品だな」
テキサス州のナンバープレートが付いたこの2輪車は、もちろんニホンの公道は走行不能である。
もちろん度を越したモディファイのおかげで、ニホンのナンバープレートの取得も殆ど不可能であろう。
「へえっ、これでMotoGPに出場したと言われても、納得できそうな出来栄えですね」
塗装されていない部分は旋盤やフライス盤を駆使して作られているらしく、ツールマークがしっかりと残っている。
美しい造形のフレームは細いパイプを複雑に溶接して構成されていて、こちらも手作りであるのが一目瞭然である。
またシリンダー周りには見慣れないパーツが複数装着されていて、メカニズムに詳しく無いシンには構造を理解できない部分が多く見受けられる。
「そんな大事なものを、勝手に使っちゃって大丈夫なんですか?
それに運転が難しいのは、私には無理かも知れませんけど」
メカメカしいハードウエアが好きなトーコは、一目でこのモペットが気に入った様だ。
尤もジーク度の更に高いハナなら、さらに過剰な反応をするのかも知れないが。
「もちろんレイには許可を貰ってるよ。
バイクはクラッチとギアの使い方が難しいからね。
それにうちで他に保管しているバイクは、ハ●レーとかド●カティとかのリッターバイクになるから。
それで練習するのは無理じゃないかな」
「……確かに」
二輪車に詳しくないトーコの表情には?マークが浮かんでいたが、シンはフウの説明を聞いて即座に納得する。
重量が200kgを楽に超過しシートが高く乗り手の体格を選ぶバイクは、トーコで無くても初心者の手には余るだろう。
「重量も自転車並みに軽いし、このピーキーなモペットが扱えるようになれば市販のバイクなら簡単に運転できると思うよ」
「……」
「それじゃぁ、僕が先に試運転をしてみましょうか」
不安そうなトーコの表情を見たシンが、まずモペットのハンドルを握りながら応える。
「アンの伝手で和光技研のメカニックに整備して貰ったらしいけど、いきなり回しすぎて壊さないようにな」
「これって4ストエンジンなのに、何でアン本人が整備しなかったんですかね?」
和光技研にインターンとして勤務しているアンは、エンジンのチューニングには天賦の才能を持っている。
F1エンジンの組み立てや設計のお手伝いをしている彼女には、モペットのエンジン整備など児戯に等しいだろう。
「それがなぁ……あまりにも高度なチューニングがしてあるので、怖くて触れないんだとさ」
「えっ?」
「解析している時間が無いから和光技研のヴェテラン・エンジニアに見てもらったら、今度はレーシング部門で研究したいから譲ってくれって言われたらしいんだ」
「半世紀近く昔のモペットを、今更ですか?」
「ベースが49ccの和光技研のエンジンだからな。
特許出願してないレイの秘匿技術がかなり使われてるみたいで、大騒ぎになってな」
フウは騒動の一端を思い出したのか、苦笑いをしている。
優秀な人材が揃っている和光技研の研究所が、骨董品のエンジンで右往左往していたのを面白がっていたのだろう。
シンは車の運転は頻繁にしているが、バイクに乗るのは数ヶ月振りである。
もちろんセルスターターなど付いていないのでキックペダルを踏み下ろすと、一発でスタートしたエンジンが小気味よい音色を響かせる。
「へえっ、整備済みだけあって調子は悪くないみたいですね。
……思ったよりエンジン音は静かだなぁ」
アイドリング音に耳を澄ましながら、シンは呟く。
ここ最近のシンの乗り物はセスナや戦闘ヘリが殆どであるが、稼動音で調子を計るのはモペットのエンジンであろうと全く変りは無い。
「モペットが轟音を出して走ってたら、テキサスレンジャーに目を付けられるだろ?
一見すると恰好だけというコンセプトで作ったみたいだからな」
シンはヘルメットも被らずに、コーンを立てた即席コースをスムースに走り出す。
低速でも簡単にエンストを起こさず、スロットを強く開けると車体を押し出すような強いトルクが加わる。
試運転であるのをいつの間にか忘れたシンは、かなりの速度でパイロンを立てた臨時コースの周回を繰り返す。
……数分後。
「久々にバイクの乗ったけど、これは面白いなぁ。
パワーバンドを合わせてスピードを出すっていうのは、ヘリとかセスナとはぜんぜん違う面白さがありますよね!」
ここで漸く本来の目的を思い出したシンは、エンジンを停止させてフウに話し掛ける。
「でもフウさん、これはトーコの練習用としてはスピードが出すぎる気がするんですが」
「シン、お前はトーコの母親なのか?過保護にも程があるぞ」
「母親ではありませんけど、しっかりと面倒見るように頼まれてますから」
「……シン、今の様子を見てて操作が難しいのは理解しました。
試してみますから、教えて下さい」
「へえっ、やる気満々だね」
「その難しさも、やってみないと分からないじゃないですか?」
「お前が傍に居て見ていれば、いざという時にも安心だろ。
トーコ、決して一人では練習しないようにな!」
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トーコはわずか数時間の練習で、ピーキーなモペットを乗りこなせるようになった。
最初はエンストを数回起こしたが、転倒は一度もせずに臨時コースをシンも吃驚するスピードで周回している。
かなりの難航を覚悟していたシンとしては、拍子抜けである。
「ごめん。トーコの運動神経を甘くみていたよ!
運動音痴どころか、かなり体を制御する能力が高いんだね」
ガソリンがほぼ空になったモペットを止めたトーコに、シンは感心した様子で話しかける。
転倒しそうになった場面はあったが、彼女はハンドルのカウンター操作で体勢を無意識に立て直していた。
もちろんバイクに乗るのは生まれて初めてなので、あくまで本能で操作を行っていたのだろう。
念の為に格闘戦用の軽量プロテクターを全身に付けていたが、今回は全く必要なかったようである。
「ええ、自分でも初めて気がつきました。
私って思ってたより、トロくないみたいです」
トーコはシンの無神経な一言に怒ることも無く、満面の笑みを返したのであった。
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寮の夕食。
「へえっトーコ、食事量が増えたね!」
シンは山盛りにしたお代わりの茶碗を、トーコに渡しながら言う。
セルカークに行く以前は、極度の小食だった彼女がお代わりするなど想像も出来なかったのである。
「ええ。最近良く動くようになったんで、何を食べても美味しくて。
シン、明日からは私のお茶碗は皆と同じサイズにして下さい!」
「了解。
ハナ、お代わりは?」
「トーコさんと張り合って食べてると、私は体重が増えすぎますから。
シン、私も朝型になるように矯正しますから、夜食は控えようと思います」
横ではエイミーが大盛りのどんぶり飯を食べているが、彼女に限らず寮のメンバーの食事量は運動部の学生並みである。
食べ盛りのマイラやエイミーはもちろん、特にニホン食に慣れている大食漢のルーが居る場合には要注意である。
さすがにTokyoオフィスほど大量に炊飯しないが、最近は2升炊きの電子炊飯ジャーでは足りなくなる事も度々なのである。
「それは残念だなぁ……今日の夜食はアイさんから教わって作った、アップルタルトの予定だったんだけど」
「えっ、あのオーブン一杯に焼きあがった大きなタルトですよね?
私の大好物なのに……」
「シン、私も食べたい!」
好き嫌いが無いルーは、アメリカンスタイルの砂糖たっぷりのデザートも大好きである。
「それって、美味しい?」
「う~ん、マイラが好きなアップルパイに似てるかな」
「じゃぁ私も食べるっ!」
「……じゃぁ食後のデザートに変更して、直ぐに食べちゃおうか?」
「「「「賛成!」」」」
ケイとパピは仕事が押しているようでまだ帰宅していないが、それでも寮の食卓はいつもの様に賑やかなのであった。
☆
数日後のTokyoオフィス。
モペットによる実地練習で自信をつけたトーコは、免許取得についてフウに相談していた。
もちろんニホンで免許を取得すれば、オワフ島でもバイクが運転できるという事実も彼女は知っている。
「モペットで自信が付いたから、教習所に通いたいんだって?」
「ええ。
毎朝続けているトレーニングのおかげで腕力も付いてきましたし、普通に教習所に通っても付いて行けると思うんです」
「うむ……シンは見ていてどう思った?」
「はい。
体力も徐々に付いてきたし、問題無いんじゃないですかね」
「キャスパー、どうだろう?」
「ああ、いいんじゃないですか?
トーコちゃん、オワフ島をバイクでツーリングしてみたいんだって?」
「はい。
でも何でキャスパーさんが此処に居るんでしょうか?」
トーコは保護者の一人になっているフウに相談を持ち掛けたのであって、キャスパーは本来は無関係の筈だ。
別に嫌っている訳では無いが、政府機関の職員である彼女とは接点が無いので雑談すらした事が無いのである。
「私は入国管理局の枠で、免許証の交付が出来るから。
……これトーコちゃんの免許証ね」
トーコはICチップが内蔵されている、新しいタイプの免許証を受け取る。
「えっ、いきなりですか?」
「ちゃんとトーキョーの公安委員会が作った正規の免許証だから」
「私は普通に教習所に通って、取得するつもりだったんですけど」
「ニホンの免許制度は、時間ばかり掛かるから大変なんだよね。
シンのフルコンプリートの免許と違って2輪と普通車限定だから、特に問題無いだろうと思うよ」
「試験も何もしないで受け取るなんて、こういうズルは許されるのでしょうか?」
「私が使った枠は、この惑星に滞在している異星人向けのものだから。
地球の習慣をまだ把握できていない異星人が教習所に通うのは不可能だし、まして無免許で運転させるのもトラブルの元だからね。
まぁ必要悪っていう奴かな」
「はぁ……」
「交付する関係から、シンの免許証と同じで実年齢よりも年齢欄が高くなっているから。
お巡りさん以外には、他人に見せないように注意してね」
「はい。了解です。
車の運転実技も、シンの手が空いたら教えて貰うことにします」
トーコは免許を取るのが目的では無かったので、受け取りを拒否するという選択肢は無い。
だが生まれてから一度も公的な試験を受けた経験が無いので、自分自身を試すという経験については密かな期待感があった。
彼女はCongohの主力プログラマーとして日々過酷な業務を繰り返しているのだが、自らの力量を絶えず証明し続けているという自覚が無いのである。
トーコは、嬉しさと無念さが入り混じった複雑な表情を浮かべていたのであった。
お読みいただきありがとうございます。